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ルワンダで、一九九四年に行われた百日間のフツ族によるツチ族虐殺の間に、彼らの多くが持っていたカトリックの信仰は、果して役に立ったのかどうか。それは誰にとっても興味のある問題だし、私のようなキリスト信者にとってはいっそう大きな関心事である。 「アフリカの真相」社発行の『ルワンダ そんなにイノセントではない 女性が殺人者になる時』にはあらゆる職種にわたって、あらゆる立場の女性たちが、強制されたのではなく、自らが先頭に立って殺人をする側に廻った例を示している。信仰を持つ人もその信仰が現世の行動を律し、人間を失わないためにはほとんど役に立たなかったことを示しているのである。 もちろん、多くの修道女たちが、災害の時に、命を助ける側に廻ったことも、この本は記録している。彼女たちは弱い立場の人々、特にフツ族の攻撃の目標になったインテリたちの立場に立って彼らを庇った。これらの人たちの逃走の手引きをし、殺人者たちを追い詰め、負傷者の手当てをし、庇護者を失った子供たちを引受け、被災者に食事を与えた。彼女たちは、これらの人々に道徳的な支持を示し、この暗黒の時代に希望の灯を灯し続けることを忘れはしなかった。司祭たちも、同じような慰め手として働いた。 しかしそうでない修道女たちもいた。彼女たちは虐殺の間に、最後の引導を渡す役を自ら買って出たと言って告発されたのである。 という以前に、修道者たちもその部族的な区別を越えることはできなかった。まず殺されたのは意外にもフツ族の神父たちだった。凡そ百人のこうした宗教者たちが、同じ過激派のフツたちの立場を受け入れず、ツチ族を庇ったかどで罰せられたのであった。虐殺を支持した驚くほど多数の神父と修道女は、殺人者たちと結託した。そのためにそうでない神父と修道女の一部は殺されたのである。生きることを拒否しただけでなく、自分が一生を捧げた信仰が、これほどに敢えなく否定されているのを見て、これらの人々はどんなに悲しかったであろう。 ギタラマ州のカモンイ出身のシスター・ゲルトルード。ムカンガンゴはブターレ州のソーヴにあるベネディクト修道女会修道院の院長であった。「ガピシ(けだもの)」と呼ばれたシスター。ジュリエンヌ・キジトは同じ修道院のシスターだった。 「アフリカの真相」社は一九九五年六月の二十一日と二十二日に予告なしに現地に入ったが、そこには夥しい数の人々が、二人の修道女を告発するために待ち構えていたという。 コンソレー・ムケシマナ三十歳は、二人の修道女の行為を証言した一人だった。「慰められた人」という名前にもかかわらず、彼女は地獄を見たのである。事件の前、八年間、彼女はソーヴのヘルス・センターで、その後はブターレ大学病院で、看護婦として働いていた。ヘルス・センターはべネディクト修道女会に属していたので、二人の修道女とはお互いによく知っていた。彼女は六年前に結婚し、二人の子供がおり、当時も妊娠中であった。 ハビャリマナ大統領の飛行機事故の直後、コンソレーの一家はソーヴの自分の家に引きこもっていたが、四月十七日の午前十一時頃に家を出た。ソーヴのツチ族はアバハという非常に大きな一族で主に岡の上の村に固まって暮らしていた。 それは日曜日だったが、最初のミサの最中に、フツ族の婦人が、アバハがフツ族の極右であるCDR(ルワンダ防衛連合)の兵隊たちに襲われている、と知らせてくれた。フエの岡の上でも、ギコンゴロの町でも、家々は既に燃え上がっていた。 彼女の夫のクラヴェール・カランガンワはフランス文化センターのブターレ・オフィスで働いていた。相談の結果男たちは、アバハの人々が集まっている岡の村に踏み止まり、女性と子供たちは、ソーヴのヘルス・センターに避難することになった。 そのようにして集まった人々は三千五百人ほどであったが、修道院側はそれらの人々には何一つ庇護を与えようとはしなかった。たった一つしたことは、当時別の町で勉強中だったツチ族のシスター・レジーナ・ニヨンサバの父親で、修道院の夜警をしていたジャン・セブヒンヨリを寄越して、難民が何人くらいいるかを調査させた。それはあたかも彼らのための食料を調達しようとして、その下調べのように見えていたが、結果的に修道院が難民たちに食料を与えたことは一度もなかった。 男たちは二十日まで岡の上で抗戦したが、その日についに村を見捨てた。その後で、フツ族たちは、すぐに略奪、破壊、放火を始めた。 殺戮は翌二十一日に始まった。MRDA(発展のための民族革命運動)の軍部、というよりソーヴのフツ族がMDR(民主共和運動)のメンバーの命令でやって来て、人々めがけて手榴弾を投げた。そこには約七千人の人たちが集まっていた。 生き残った人たちはソーヴの修道院目指して逃げた。ヘルス・センターでは受けられなかった庇護を、神の家でなら与えてもらえるかもしれない、ということにまだ希望を抱いていた。 修道院の戸は固く閉じられていた。しかし難民は壁に孔を開けてそこから中に入った。コンソレーたちも中に入った。修道院の中の一部屋で、コンソレーは他の三人といっしょになった。女性と、女の子と男の子であった。 彼女たちのいることに気がつくと、ゲルトルード院長は彼女たちを追い出しに来た。コンソレーは昔からよく知っている院長から、そのような扱いを受けることに耐えられなかった。ここを追い出されたら、死ぬ他はありません、と彼女は院長に言った。しかしゲルトルード院長は買ったばかりのマツダのミニバスに乗ってどこかに出て行った。数分後に、彼女はフエの警察官と六人の兵隊を連れて戻って来た。彼女は兵隊たちと、コンソレーたちのところにやって来て、 「この人たちです、修道院を出て行かないのは」 と言った。別の人たちの証言では、ゲルトルード院長はこうした難民たちを「汚い奴ら」と呼び、聖なる場所を彼らで汚してはならない、と言ったということになっている。 兵隊たちはコンソレーたちを銃で押したり、蹴ったりしながら外へ出した。コンソレーは当時妊娠中だったから、こういう扱いを受けることは、さぞかしこたえることだったろうと思われる。 外に出るとたくさんの難民たちが聖堂の裏庭に座っていた。ゲルトルード院長はその人たちも追い立てようとした。修道院がツチの騒ぎで破壊されてはたまらない、というのが、その理由だった。 付属した神学校にはフツの神学生もいたが、彼らもまた、神さまはツチが殺されるのを望んでおられる、と言った。それがソーヴの信仰の実態だったのだ。 実はゲルトルード院長の知らないところで、家族や、もともと修道院のために働いていた人たちをひそかに隠している修道女もいた。こうした人々が約八十人、まだ修道院の中に残っていた。 コンソレーたちはヘルス・センターに戻った。二十二日は一日、一キロほど離れたベネディクト男子修道院の方から、小銃や手榴弾の炸裂音が聞こえた。ツチを虐殺する音だった。 そうした間にカルメル会の白人の修道女、シスター・ジャン・ポールが様子を見にやって来てくれた。二十日に来た時、彼女はセンターの付属建物の一つの家の鍵をコンソレーに渡してくれ、それを使ってもいい、と言った。コンソレーの夫と子供たちは、その夜ソーヴに帰った。フツの友人の家に匿ってもらうつもりだ、と言ったが、コンソレーは同行するのをやめた。 二十三日に再び地方警察官、退役軍人、そしてシスター・ジュリエンヌも加わった虐殺が始まった。 コンソレーは攻撃が始まった時、借りていた家の中からすべてを見ていた。殺し屋たちの間にシスター・ジュリエンヌがいた。彼女の足元には七リッターの石油の入った缶があり、彼女は手にリストを持っていた。彼女が石油缶を殺し屋たちに渡すのも見えた。脅えた人々はヘルス・センターの中にいた。兵隊たちは、石油を撤き、ヘルス・センターに火を放った。 攻撃は夕方五時まで続いた。午後二時頃、コンソレーが潜んでいた家にも火がつけられた。家から逃れ出たところで彼女は撃たれたが、弾は当たらなかった。コンソレーは気を失って死体の中に倒れた。やがて気がついた後も、同じように死んだふりをしていたが、周囲のことはすべて聞こえていた。 五時半に六人の警察軍が来て、虐殺は止んだ。「略奪だけならしてもいい」と彼らは兵隊たちに言った。警察軍は、女性と、女の子で生きている者は保護するから出て来るようにと言った。それを聞いて、コンソレーも立ち上がった。女性たちはたくさんいた。しかし裏庭は死体で足の踏み場もないほどだった。警察軍は女性たちについて来るように言った。ブターレ=ギコンゴロ街道に出ると、コンソレーたちは座らされ、兵隊たちは射撃の姿勢を取ったので、もう終わりだと思った。しかし彼らはコンソレーたちにヘルス・センターに戻るように言った。 センターに着いたのは夜遅くだった。そこには逃げて来た女性たちの家族の死体が山になっていた。コンソレーたちはその夜の間にそこを出た。翌朝、兵隊たちは戻って来るだろう、と思って恐れたのである。 それからコンソレーの放浪が始まる。まず最初に義理の母の甥のうちに行った。しかし彼は後難を恐れてコンソレーを入れなかった。彼女はその男の弟の家に行った。しかしそこでもコンソレーはおいてもらえなかった。コンソレーは遂に、イグナスの家に行った。コンソレーは彼の子供の洗礼の代母になっていたのである。しかしイグナスもコンソレーを家に入れなかった。 絶望的になったコンソレーは、軍人に「殺してください」と頼みに行った。しかし彼らはそれも断った。コンソレーはわざと彼らがたむろしている側に腰を下ろした。しかし彼らは何もしなかった。数時間のうちに、コンソレーの気持ちは変わった。彼女はトイレに行くと偽って、そこを脱出した。彼女はフツ族出身の姉の夫の家を目指して歩いていた。そこで彼女は子供たちと夫に再会した。 しかし姉の夫の態度も数日で変わった。彼はコンソレーの一家に辛く当たるようになった。或る夜、パトロールから帰って来ると、彼はこの家の中には「インイエンジ(ツチ)がいる!」と叫び出した。これを見て、コンソレーの夫は、その夜のうちに家を出ることにした。コンソレーはその後、姉の夫がツチを隠したかどで殺されたかどうか知らない。 翌日姉は夫に内緒で、コンソレーたちが隠れていることのできる別の場所を考えてくれた。そこでコンソレーたちはRPF(ルワンダ愛国戦線)が来るまで身を潜めていた。 ゲルトルード院長とシスター・ジュリエンヌの二人の修道女は、ベルギーに逃れて、今も彼女たちの修道会にいる。その年、四月十八日までソーヴの修道院にいてベルギーに引き上げたベルギー人のシスター・マリー=ジャン八十二歳は、ジャーナリストと面会した。 シスター・マリー=ジャンは、このジャーナリストをルワンダの二人のシスターに面会させることを拒んだ。あまりにも疲れが激しいので、二人はスクールモンの修道院で休ませているというのが理由だった。そしてシスター・マリー=ジャンは、敢然と、この二人の修道女を弁護した。 それによると、ゲルトルード院長は、兵隊たちに、修道院はツチを隠しているから、中にいる人々を全員出さない限り、修道院に泊まっている人たちをすべて……修道女たちも、その親戚たちも……殺すと言われたのだという。その時、修道女たちは三十五人いた。シスター・ゲルトルードはその三十五人を生かす責任があった。その時、客として泊まっていた人たちは六十人であった。 シスター・マリー=ジャンは、今、ゲルトルード院長は、自ら手記を書いている、と言った。すべてはそれを見てからにしてもらいたい。彼女たちへの人々の糾弾は正しいのだろうか、とシスター・マリー=ジャンは言った。証言が非常に整然としているのは、確かに一つの特徴ではある。私自身、昔沖縄戦を取材していた時、数百人の人たちに面接して、彼らの証言がかなり矛盾するのを知った。それこそがしかし証言が真実の、主観的なものであり、他に動かされたものではない、その人個人のものであるという証拠だと感じた。しかしルワンダの証言は、いささか整理されすぎているという印象は拭えない。 しかしそこで起きた悲劇は疑いがないのである。あの頭蓋骨は、一つずつのかけがえのない人生を生きていたのである。 ルワンダの虐殺の証言は、分厚いものになる。そしてその結果、間違いなく語ることができるのは、すべての人々は、その受けた教育も、社会的立場も、貧富の差もなく、誰でもがいともたやすく殺す側に廻り、そのような結果について、必ず素早く、弁解の言葉を用意することができるということだ。 私もその場にいたら恐らく同じことをするだろう。殺されるよりは、一足早く殺す側に廻って、自分が殺されるのを防ごうとするに違いない。一旦、その狂気を実行に移せば、あとは惰性でどこまででもやって行ける。その間にキリスト者として、自分がそうせざるを得なかった理由を、神は十分にご存じだった、という心理を作りあげて行くのである。 自分が死んでも、他人を救うことができる人など数少ない。ルワンダの人々は、そうしなかった人を極悪人として告発したが、私はそれは普通の人だと感じている。 ルワンダの悲劇は今も終わってはいない。愛するものを殺されたという恨みは長く残るだろう。それに周辺国の政治が関与する。部族の対立は、ほとんど人間の楽しみとなったのではないかと思うほど根強いものである。 私たちの唱える口先だけの「平和」など、そのような世界では全く通用しないだろう。多分、平和のためには、もっと多くの血が流されることが必要なのかもしれない。希望としては教育が普及して、人間が自分自身の人生以外の、他人の生涯も思いやることができるようになることと、経済的に豊かになることだけだろう。 アフリカは常に偉大な教師だが、ルワンダの悲劇は、私たちにぞっとするような自画像を突きつけたのである。
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