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著者: 歌川 令三  
記事タイトル: ベルリンで思ったこと(上) 元・米軍検問所(Checkpoint Charlie)跡で  
コラム名: 渡る世界には鬼もいる   
出版物名: 財界  
出版社名: 財界  
発行日: 2000/11/秋季特大号  
※この記事は、著者と財界の許諾を得て転載したものです。
財界に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど財界の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
  「ベルリンは大きい」のか?
 この夏の終わり、ベルリンに出かけた。統一ドイツが再現してから、かれこれ十年。ぜひ訪ねたいとは思っていたのだが、機会がなかった。ドイツ連邦共和国の新首都とはいえ、グローバルな国際航空路線の幹線からはずれており、仕事のついでに立ち寄るのは難しかったからだ。
 日本からベルリンヘの空の旅は不便だ。成田から用事もないのにパリのシャルル・ドゴール空港に飛び、そこでフランス航空に乗り継ぎ、旧西ベルリン地区のテーゲル国際空港に着いた。
 小ぎれいで、小じんまりした空港である。これに比し、パリの空港の巨大かつ雑駁なこと。三百以上も発着ゲートがあり、雑然と機体が並び、荷物が積み上げられ、乗客を運搬するバスが互いにぶつかりそうに走るドゴール空港。「これならコンコルドの滑走路に墜落の元になった鉄クズ片が落ちていても誰も気づくまい」と、私の旅日記にある。
 空港からポツダム・プラザのグランド・ハイアットホテルまで二十分。空港も緑に囲まれた道路も清潔そのものであった。ラテン気質のフランス人と秩序と整頓好きのドイツ人との違いとは、かくの如き状況を指すのか。それが、ベルリンの第一印象であった。
「そう。ベルリンは初めてなの。ベルリンは大きいでしょ」。ホテルのフロントのお嬢さんが、自慢げに言った。明治の初年、欧州の新興帝国、プロイセン王国の首府であったこの地に、岩倉具視使節団が訪れ、日本の近代の国体の基幹を学んだ故事もあり、日本とは因縁浅からざるベルリンではある。だが、私の物差しでは、ここはコスモポリタン都市とはいえ、小振りである。
「東京、ニューヨーク、パリの方が巨大だよ」と言おうと思ったが、ぐっとこらえた。念願かなって、東西がやっと一つのベルリンになった??それを言いたかったのだろうとおもんばかったからだ。私のベルリン旅行記のテーマは、一九六一年八月から一九八九年一月にいたる二十八年間、ソ連と東独によって人為的な政治の垣根が作られ、ベルリンはコンクリートの壁で物理的に分断された。一体、あれは何だったのか??。それを現地で実感することであった。
 まず本屋で地図を買ってみた。西ベルリン(米・英・仏の管理地域)は、東ドイツの中の飛び地であり、東独領、ブランデンブルグ州との境界に壁がめぐらされていたのは容易に想像出来たのだが、東ベルリン市(ソ連管理地区)と西ベルリン市の境界がどこにあり、どのように壁があったのか、今の市販の地図には昔の壁のラインは一切印刷されていなかったのである。
 二カ月ほど前、この都市を訪れた日本財団会長、曽野綾子さんに「今頃、そんな目的でベルリンに出かけても、無駄よ。昔の面影はない。ベルリンは地理的に一つになっちゃったのだから……」と言われたが、その通りであった。
 この話を、ベルリンの大学で心理学を専攻し、そのまま二十八年間も西ベルリン地区に居ついてしまったテツオ・テラサキさん(この人の名刺には漢字が書かれていない)に披露したら苦笑しつつ、こう言ったのである。「壁の前に立って、閉ざされた東側をイメージし、スパイ小説を書く。そんな感慨に浸ろうと思っても、それはないものねだりですよね」と。もちろん私にそんな大それた気持ちはなかったのだが彼の言葉から英国人作家ル・カレのスパイ小説の日本語訳の題名『寒い国から帰ってきたスパイ』を連想した。
 
寒い国から帰ってきたスパイ
 この小説の「寒い国から」とは、原語では“From The Cold”であり、暑さ、寒さとは関係なく米ソ冷戦中のベルリンの壁の向こう側を指している。
 ベルリンの壁の出現の年から、この街に住み、数え切れないほど東西を分かつ関所を往来した経験をもつテラサキさんと話してみたのである。当時のフルシチョフ・ソ連第一書記は、「優秀な東独人の西への流出を防ぐためのやむを得ざる措置」と弁明したが、なぜ東独の人が、西へ西へと目指したのかも含めて。
 テラサキさんは言う。「公式的な説明はさておき、私の生活実感的解釈によれば、東西のクルマの優劣の差があまりにも歴然としていたからですよ」と。テラサキ説はなかなか説得力があった。ドイツ人のクルマ好きはつとに有名である。私の持参した英国の旅行書『外国人嫌いのためのドイツ案内』にも、「ドイツ人は車オタク。命よりも大切なのだ。(“命から二番目”の誤訳ではない)ドイツ車はツンとすましている。そしてバカきれい。ボロ車に乗る奴は鼻ツマミ」と書いてあった。
 以下はテラサキさんの実体験である。東独製の車はひどかった。ボディはダンボールをプラスチックで固めたもので、二気筒だった、Travantと呼ばれる国民車で、値段は給料の五年分。そんなボロ車でも注文して十年待たないと手に入らない。だから十歳で運転免許証の申請をする。後刻、この話を壁崩壊の数力月後に旧東ベルリンをつぶさに歩いたジャーナリストで財団の同僚、鳥井啓一さんにした。
「道路脇に事故でノシイカのようにつぶれ、放置された紙製の東独国民車の残骸をいくつか目撃した。あの車、今無傷のまま持っていたら、大変な骨董価値になるね」。彼はそう言ったのである。
 話をテラサキさんに戻す。テラサキさんは、マツダ・ファミリアの見本車を、Checkpoint Charlie(市街地の米軍検問所)を経由して、東独に運んだことがある。この門は、西から東ペルリンヘの外国人の唯一のルートであった。一九七五年だったという。その頃、日本の商社経由でマツダと東独政府との間で、ファミリア二万台の購入の商談があった。「とりあえず、一台もってこい」との要望で、テラサキさんが商社専用の青ナンバーをつけた普通塗装の見本車の運び屋をやったのである。
 米軍検問所をなんなく通過すると五十メート先に、東独の検問所がある。通常はここが厄介なのである。長蛇の車の列の最後尾についたとたん「マツダはいるか。早く来いー」とマイクががなりたてた。
 あらかじめ監視塔の双眼鏡が、マツダの姿をとらえていたらしい。行列の先頭に誘導され、入国書類もろくに確かめずに、先を急がされた。VIPならぬVIC(Very important car)の“ご入国”であった。ライプチヒの国際貿易センターの地下駐車場に止めた。待ち構えていた役人に、「安全性を確かめる。すぐ、ばらしていいか」と言われた。「何が安全性だ。よく言うよ!」。彼はこみあげる笑いを呑み込むのに、ひと苦労だったという。
 
クルマが生んだ壁の崩壊
「こうして日本のみならず、西独やフランスの車が東に入った。東独の人々は西側の豊かさをその車で知ってしまった。そして人民は政府に不満をもつようになった。ライプチヒではもっと自由に旅行をさせろのデモが起こった。八七年のメーデーでは、ホーネッカー東独首相は“この国の社会主義は百年は安泰である”と演説した。しかし二年後に壁は崩壊した」。テラサキさんの壁崩壊の「自動車始発説」である。
 Checkpoint Charlieの跡に出かけた。ほんの二週間前に、フリードリッヒ通りにあった検問所跡に、本物の二分の一大の白い小屋が建設されたと聞いたからだ。「壁はどこか」と探し回る私のような外国人旅行客のための観光スポットだった。「あなたは、アメリカ管理地区を離れんとしている」との看板が昔のままに再現されていた。すぐ近くに「チェック・ポイント、チャーリーの家」という名の小さな博物館があった。
 中に入る。
「西ベルリンを囲む百五十五キロの壁は、世界の築城術理論に反する唯一の例で、敵に優しく、味方に厳しかった。(西から東に侵入するのは比較的容易だが、その反対は極めて困難である)」「壁で西を囲んだはずなのに逆に法令や制約で、東側こそ“敵に包囲された”街になった」「逃亡に成功した者五千四十三人、逮捕された者五千二百二十一人、火器による負傷者百十八人、死者八十人」とある。写真やパノラマで、壁越えの冒険物語が再現されていた。車のトランクを二重底に改造した運び屋や、地下トンネル作戦もあった。
 深夜、壁際の東ベルリンの建物の最上階のトイレから、あらかじめ連絡しておいた西側の親類に丈夫なナイロン糸に、ハンマーを結んで壁越しに放り投げた大学教授がいた。西側に待機していた協力者たちは、糸に太さ六ミリの鋼鉄線を結びつけ、トレーラ車に固定した。東の教授は糸をたぐり寄せ、鋼鉄線を手にし、トイレの柱にしっかりと結びつけた。最初に十歳の息子が、次に奥さんが、最後に教授が、ケーブルに鉄のベルトを引っ掛け、滑るように西の自由の大地に無事着地した。東西冷戦のもたらしたスリルとサスペンスのドラマである。だが、こうしたストーリーも博物館入りし、壁もほとんど取り壊された新首都ベルリン。探し求めた壁入りの地図を手に入れたのは、検問所跡地の売店であった。
 



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