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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 嘘のようなほんとうの話  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1996/03/28  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1996/05  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   ザイールで働いているシスター・中村寛子からひさしぶりの手紙を受け取った。
 この人は、マリアの宣教者フランシスコ修道会に属する修道女で、初めはアフリカのアンゴラで働いていた。ところが内戦が起きて、或る日、突然ゲリラが入って来た。
「三十分のうちに出発するから、支度しろ」
 とゲリラの兵隊が言った。どうせ修道女だから、服をたくさん持っているわけはないが、この人のおもしろいところは、どさくさの中でもちゃんとカメラを持って出たことである。
 それから彼女たちは一月以上も、ジャングルの中を歩かせられた。夜はその辺に野宿し、その辺に溜っている水を飲んだ。それでも決定的な病気にならなかったという話を聞くと、私は彼女には神がついておられるか、既に体質がよほどアフリカ化して丈夫になっていたか、と思わざるを得なかった。
 毎日、その日に野宿すると決めたところで、彼女はカメラのフィルムを一枚ずつ使って場所を記録した。ゲリラたちは、彼女たちに対しては丁重だったという。
 やがて当然のようにフィルムが切れた。するとシスターは、記録をスケッチに切り換えた。これがなかなかの腕前である。帰国後、水彩で色をつけたものを絵はがきにして、シスターは私にも一組くれた。
 彼女はアンゴラから釈放される時、二度とこの国に入らない、という誓約書を書かされた。ほんとうに愚かしいことをする国だ。こんなに献身的にアンゴラ人のために働いてくれる人など、お願いしたってなかなか来て頂けるものではない。
 生きるか死ぬかわからないようなひどい目に遭ったのだから、少しはこれに懲りておとなしく日本にいるだろう、と私でなくても誰でも思ったに違いない。しかし彼女はすぐまた、どこでもいいからアンゴラの近くの国に行くことを考えた。アンゴラは元ポルトガル領でポルトガル語を使っていたのだが、今度は元フランス領の国へ行くことになるだろうから、と。パリの本部でフランス語の勉強を始めた。そして結果的にはザイールに赴任したのである。
 ほんとに懲りないいシスターだ、と私は思い、これが彼女のあだ名になった。
 彼女はそれ以来、私が二十五年間働いている海外邦人宣教者活動援助後援会というNGOの組織から、いろいろなものを献納させた。軽く言うけれど、身障者用に内部を改造したニッサンの、バス二台も含まれている。これだけで八百万円以上している。もっともシスターが礼を言うことなんか全くない。
 このバスは、首都のキンシャサではなく、当時彼女が働いていたボマという町にあるハンディキャップの子供たちの学校の通学用であった。それまで使っていたバスはドアが閉まらず誰かがずっと手で抑えていたとか、惨めな話をユーモラスに書いて来るのが彼女の特技であった。
 新しい日本のバスは、校長のシスターのフランス語の手紙によると、ザイール中で一番新式の豪華な車で、ほんとうは学校なんか行きたくない怠け者の子供まで、このバスに乗りたいばかりに学校に行きだしたという。私はこういうやり方で、子供を「釣る」のにも、大賛成だった。
 懲りないシスターだから、一台では、とても子供たちの送り迎えに足りない、と言い出した。その通りなのである。それでもう一台送った。前のバスにはデザインとして青い線が入っていたので、私たちはそれを青線バスと呼んで、新しい赤線バスと区別した。青線と赤線なんて、まあおかしな名前になったものであった。
 赤線バスの通関には、いろいろの理由でひどく手間取った。それでシスターは何年目かの休みを取って帰国するのが、二、三カ月も遅れてしまった。
 シスターたちはこういう途上国から日本に帰ると、健康診断を義務づけられている。シスターはそこで癌を発見された。その時の彼女の言いぐさがおもしろかった。
「これもソノさん方のおかげです。癌があまり小さいので、もう三カ月早く帰ってきていて、その段階で検査受けていたら見つからなかったと思うんです」
 本当にものは言いようだ。あなたたちのおかげで癌の発見が遅れた、と言うのと、お蔭で発見できました、と言うのと事実は同じなのである。
 手術は無事に済んだが、癌にもなったことだし、彼女も今度は日本に落ちつくだろう、と私は漠然と期待していた。しかし彼女は任地へ戻る予定を変更する気配はなかった。ちょうど夏だったので、私は、三浦半島の菜園の家で、花火を見る会に彼女ともう一人の修道女を招待した。
「お宅の修道院のシスター方全員をお招きしたいけど、うちは手狭だから、差別して、癌のシスターだけお呼びします」
 つまりこの二人はいずれも癌のシスターだったのである。彼女たちは、サツマイモだのトウモロコシだの、質素な材料を加えたバーベキューをたくさん食べてくれた。これなら大丈夫、と私は安堵した。
 シスターが帰任してからのザイールは、ひどい混乱が続いた。彼女の任地も首都のキンシャサから二千キロ近く離れたキサンガニという所に移った。
 そこから次のような手紙が来たのである。
 久しぶりに仕事で首都へ行ったら、例の二台のバスのうち後から送った赤線パスを使って、ボマからシスターたちが出て来ていた。、バスとも懐かしい対面であった。一台目の青線はさすがに悪路を七年間走り続けて、エンジン部に少し問題があってもう遠出はできない。しかし市内の子供たちの送迎には支障ないとのことである。それはドライバーが、ていねいにエンジンの調整をしているからで、ザイール人の中にも、ものを大切に補修して使うという人がいて嬉しいと、その点にシスターは希望を見いだしていた。
「ポマの心身障害児センターも転換期に入りました。障害児は悪魔のたたりという迷信から解放するのが目的で始められたこの仕事も、今は人の考え方も変わり、親自身が入学を望むようになって毎年学童の数は増え続けています??障害児の数が減らないのは問題ですが??それで身体障害児の普通クラス(小学校六年制)を閉鎖して、子供たちは地域の学校に入る方針に変えようとしています。人々の障害児に対する見方が変わったのは所期の目的が一部達せられたのですから、バスを贈ってくださった皆さま方には喜んで頂けるのではないかと思っています。センターは子供だけでなく、大人をも含めての整形の治療、そして聾唖と知恵遅れの子供の教育を重点的に行っていくとのことです」
 それにしても、シスターの手紙には奇妙な写真がたった一枚同封されていた。殺風景な事務所のような部屋の、書棚とダンボールの間に、何やら奇妙なものが幅二メートル近く、高さ十二段ほど積み上げてある。一見煉瓦のようでもあるが、煉瓦よりさらに小型だし、材質は固く固めた干し草のケーキのようにも見える。
 これがザイールの札束なのである。シスターの野次馬精神はアンゴラ以来衰えていない。手紙に札束の写真を入れて来るなんて、この人以外には発想できないところだろう。
 シスターはその間の事情を活写する。
「それにしてもザイールのお金の汚さはすごいのです。少し古くなると、汚れてお札が分厚くなるのです。インフレでお金の価値が急激に下がって、一枚二枚とかでなく、百枚単位を通り越して、五百枚一束で輪ゴムやひもをかけ、(八センチ×十センチ×十六センチ)それを一個、二個と数えます。財布や金庫などとっくの昔に用を足さなくなっています。買い物に行く時には、金入り段ポールを担いで行くのです。曾野さんが機会があってザイールにいらっしゃる時は、お相撲さんのような金かつぎを同行なさってください」
 それで私はほんとうにザイールに行きたくなってしまった。写真の小型レンガのようなものは、一塊が日本円で一千円くらいの札束で、写っている札束は全部で六十万円くらいだという。ちなみに彼女は大司教区の経理係で、月給は六千円だと言う。金を扱う仕事は、すべて外国人にしか任せられない。昨年十二月には、アフリカ宣教会(砂漠色の白っぽい修道服を着るので、白い神父=ペール・プランと呼ばれている)の六十歳を過ぎた頑丈な体格のフランス人神父が、事務所に続いた寝室で強盗になぶり殺しに遇った。
 残虐な殺し方であったという。突いたり切ったりした傷は十八カ所。腹部をジグザグに切って内臓を引きずり出し、性器を切断し、呼ばれた医師たちは、あらゆるケースを見慣れているはずだったが、あまりの残忍さにしぱらくはショックから抜けられなかった、と言う。
 シスターは、この神父と私の作品について話したことがあった。私が『砂漠、この神の土地』というサハラ砂漠縦断記の中で、このアフリカ宣教会について触れているのを読んでいたからである。十九世紀にアルジェの大司教としてアフリカ宣教会を創立したラヴィジュリーは、若い神父たちを、当時「暗黒大陸」という印象で捉えられていたトゥンブクトウまでの危険な空白地域に送り出す時、請願書の中に、特別の言葉を書き加えさせていたのであった。
 それは「殉教を覚悟して」というそれだけの短い言葉であった。
 シスターは私の本から読んだその事実を語ろうとして、肝心の誓約の言葉を口にするのに、ちょっと手間取っていた。私の本の中にある言葉はラテン語だったが、それをフランス語に置き換えるのに少し手間取ったのである。すると、その神父はすかさずフランス語でつけ加えた。
「Etre Martyr」
 もちろん二人とも、そのような可能性は歴史的なものとして認識していたのだろう。しかし今日のアフリカでは、アフリカ宣教会の言葉と精神は、いまだにこうして現実の最前線にあった。しかしアフリカ宣教会が、もっとも多くの宣教師たちの血を流した頃にもっとも多くの志願者を得ていたように、危険を伴う任務に従事する修道会ほど、後継の志願者が途絶えることもないのであった。昨年春にはアルジェリアで四人のアフリカ宣教会のフランス人神父が殺され、今度はまたこの神父がザイールで殉教したのであった。
 エボラ出血熱が流行った時にも、私はシスター・中村のことを心配していた。しかしシスターによるとエボラが流行ったのは二千五百キロほど離れたところで、さすがのエボラもその距離を移動する間に「腐って」来るだろう、という極めて非科学的な推測だった。
 この懲りないシスターの手紙には、まだおまけがあった。最近、管区長のザイール人シスターが、日本で船を一隻寄付してもらえないだろうか、とシスター・中村と、もう一人同じところで働いている日本人のシスター・高木裕子に相談したというのである。
 そんな高価なものを、そんなに簡単に手に入れられるはずがない、とは思ったものの、従順を一つの誓願として受け入れた修道女だから仕方がない、と、シスター・中村は思い返した。自分のためでもなく、人のためと言うより神のためだけだから、シスターは何でもできるのである。
 船を寄贈してくれそうなところと言ったら日本財団(日本船舶振興会)の笹川良一氏しかないだろう、とシスター・中村は当たりをつけた。なぜ船が要るかというと、ザイールはジャングルばかりで、道は悪く、病人や物資を運ぶにも、自動車は事故が多くて命がけ。飛行機利用がいいのだが、運賃が高くてとても乗れない。それに陸路を薬品輸送などすれば強盗の危険がある、いや、実際にあった。それなのに川の交通はまだあまり開発されていない、と、たくさんの理由を作文して(決して嘘ではない。事実をまとめただけである)さてシスター・高木が近く休暇で日本に帰った時、この筋書きでタッチしてみたら、笹川さんが「コロリとその気になってくださるかもしれない」と、それが懲りないシスターたちのシナリオであった。
 ところがキンシャサの日本大使館に行ったら、親切な大使館員が古い「週刊朝日」を二冊くれた。そして笹川良一氏は亡くなられており、私が後任として働いていることを知った。ニュースは何カ月も遅れていたのである。
 正直言ってびっくりしたと同時に、「二人ともがっかりしました」のだそうだ。私には、もともと懲りない(図々しい)シスターだと思われている上に「何か手のうちをすっかり知られているような気がして、この計画はオジャン」と一瞬思ったらしいのだが、そこは懲りないのが特徴なのだから、待て待て、断られて元々とまた思いなおしたらしい。
 シスター・高木裕子は、長崎の浦上四番崩れで捕らえられ、拷問を受けながらも一人だけ棄教せず、辛うじて明治維新の改革に間に合って伝道士となった高木仙右衛門の曾孫の子に当たる。彼女の叔母の基美子もシスターで、私の大学時代の同級生である。基美子は男六人、女六人の十二人兄姉の家庭に育った。男六人兄弟のうち一人が神父になり、女六人姉妹は全員が修道女になった。さらにその姪のうち二人までがシスターになって途上国で働いているという筋金入りのカトリックの家系である。
 ポートは日本財団に申請を出してみたらいいケースなのだが、私の心理は複雑であった。まだこれから、船体の値段や、それが果たしてシスターたちの手で完全に管理されるのかどうかを細部まで確かめてから、審議されるケースなのだが、それらの点がクリヤーされて可能性が出て来たら、こういうふうに、現場に日本人シスターが張りついて援助物資の便われ方を監視してくれるようなところは、「投資先」として超A級の「上物物件」なのである。しかし効率のいい「目玉商品」だけを、自分が昔から深く係わっている海外邦人宣教者活動援助後援会に強引に取ってしまうのも何かフェアーではない。この上は日本財団に一応申請を出してもらい、私は黙っていて、財団の方で条件が合致せず却下ということになったら、私たちの海外邦人宣教者活動援助後援会が大喜びで引き取る、という段取りになるだろう。
 おもしろい話はここまでではない。
 シスター・中村が、船をほしいという時に、奇妙に正確に日本財団のことを思いついたのには、理由があるのだ。
 今度初めて知ったのだが、彼女は修道女になる以前、山口県モーターポート競走会に勤めていた。
「もらった退職金を“持参金”として修道会に入会したのですから、私は競艇ファンに修道女にしてもらったようなもので、そして曾野さんとはよくよくご縁があるのだなあ、と縁結びの神さまに感謝しました。私たちの神さまはユーモアがお好きで、おかしなことをなさいますね」
 もうここまで書けば、この話は「嘘のようなほんとうの話」以外の何ものでもないことを読者にもわかって頂けただろう。
(一九九六・三・二十八)
 



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