|
四月二十一日 朝、予定通り、今年のイタリアとイスラエルヘの障害者の旅行が無事、成田に帰着した。フランスのルルドには行かずに先に帰る私たちのグループ三十九人が成田に着いたのである。普段祈りなど二の次で暮らしている私が、いつも成田に飛行機の車輪が着いた瞬間、深い感謝でしばらくの間うちのめされる。 十四年前から年に一度ずつ十四回続けた旅行の全てが安全であった。延べ確実に二百日近くなるだろう。高齢者は今回の九十六歳を最高に、八十歳以上は今までに五人。重度の脳性小児麻痺、膠原病、義足、下半身麻痺、盲目、癌の手術後、重度のリュウマチ、筋ジストロフィー、多発性硬化症など、かなり重い障害を抱えている人たちが参加してくれた。毎回、帰る時は「小さな箱に入って」か「担架で」と覚悟している人がいるらしい。しかし延べ八百人に近い旅行のメンバーのうち一人も、「小さな箱」組も「担架」組も出なかったし、症状が悪化したという人さえないのである。 人間が用心したって、とうていその安全は守り切れるものではない。ただ今年の場合、九十六歳を含む残りのグループはルルドヘ向かって後から帰ることになっている。その間、男手が減ってどんなに苦労しているかと思うと心が痛むのだが、私はいつも「なあに、どうにもならなかったことは、世の中にないんだ」とこれこそ「神頼み」の究極に陥る。信仰のせいではなく、つまり無責任だからだ。 夕方、整体の山崎清臣先生に来て頂いて、背骨の曲がりを治して頂く。三十代に二度、階段を踏み外して背骨で階段を下りるという怪我をした。その時以来、背骨の一部が少し曲がったままになっているらしい。長い距離、飛行機に乗った後は、同じ日のうちに整体を受けて、体を治して頂くことにしている。 私は気が強そうに見えて、実は大変に小心で弱い?! 少し体が悪いと、まず書けなくなる。他の仕事はたいていできる。書くということは、実はその他のいかなる仕事よりも精神力を使うということがこの頃わかった。 夕食には筍と薄揚げの煮付け、毎年、巡礼から帰ると、なぜか旬の菜の花のお浸しと筍の煮付けが出る。こんなことが一番、ああ日本に帰った! という実感を与える。 四月二十八日 朝一番に、在日ペルー大使館に、四月二十三日の解放の時、亡くなられたギュスティ最高裁判事と突撃隊の二人の将校への日本財団からのお香奠三百万円を届けに行く。麻布のペルー大使館の近辺はパトカーがたむろしていて緊張した空気だったので、私は恐れをなし(こういうところは恐ろしく気が弱いのである)、「お香奠をお渡ししたら一分間で退散しましょうね。アリトミ大使はお忙しいに決まってるんだから」などと同行の財団の国際部員に呟いていたら、大使が自分で公邸部分のシャッターを開けて、 「入ってください。大統領のお母さんが来てますから」 と言ってくださった。 アリトミ大使夫人はフジモリ大統領の妹さんだから、大使にとって大統領は義兄にあたる。そして私は一九九四年ペルーに行った時、大統領の母上のフジモリ・ムツエさんのお宅を訪問させて頂いたのである。 ムツエさんは、私が心の中で思い描く、もっとも愛すべき「日本の母」であった。豪胆で、質素で、心温かく、一言一言に真実味が溢れている。母上はメイドさんも使わず、一人で暮らしておられた。「どうしたら息子を大統領にできますか」というようなマスコミの質問攻めにあっておられた頃だから、私は一切そういうお話はしないことにし、ただ二人の趣味の畑仕事の話ばかりしてお別れした。 人質になっておられた大統領の弟さんもアリトミ大使の弟さんも釈放された。母上は今日離日されるというが、どんなに晴々とした気分になられたろう。もっともアリトミ大使の弟さんは負傷しておられると言う。 「テレビの中でピンクのシャツを召して、足から血を流しておられた方でしょうか」 とお尋ねすると、 「よく覚えていますね。あれが弟です」 と大使はおっしゃる。命に別状がなければ、まあ、回復されるのは時間の問題だろうが、やはり心配なことだろう。死亡した、兵士の他にも足を撃たれて切断しなければならないかもしれない人がいると言う。トンネルを掘っていて亡くなった人たちと共に、補償が及ぶといいと思う。 五月一日 三浦半島の家に行く。いよいよ、私の農繁期の始まり。二十九日から月末まで風邪が治らなかった。やはり年のせい。もう隠居の年なのだからがんばることはない。しかし今の季節、植えておいた花がいっせいに咲いて、何とも幸福な気持ちになる。明日は知人がくるから、庭に生えているタラの芽(それがちょうどいい大きさだ)を揚げて天麩羅そばをしようなどと考える。ところが畑の隅でバジリコもすばらしい若芽を出しているのを見たら、スパゲッティにしようか、などとしばらく迷ってしまう。くだらなく、天下泰平。
|
|
|
|