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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 二重生活  
コラム名: 私日記 新連載1  
出版物名: サンデー毎日  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 1997/03/23  
※この記事は、著者と毎日新聞社出版局の許諾を得て転載したものです。
毎日新聞社出版局に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど毎日新聞社出版局の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   一九九七年二月二十四日
 小説に私小説というものがあるように、日記にも厳密な意味でそういう分類があるのかどうかわからないが、世間には、かなり公の意識の強い日記もある。
 しかし私はそういう日記を書く任でもないし、また書けるとも思わない。私の全身の神経が、卑小なこと、つまらない出来事、身勝手な反応、にしか生き生きと感応しないことを私自身がよく知っているからである。故にこの日記は、私の身辺の些事だけを書き留めることにしたい。
 今、私は際立った二重生活をしている。昔ながらの、家に閉じ籠もったような作家の生活。それが週に四日ある。残り三日が、この手の財団では世界で最大の予算を持つ日本財団の会長の仕事である。
 この二つがどう組み合わさっていくのか、一年前私はひたすら恐れていた。私はとにかく社交的な生活を全くと言っていいほどしていなかったのだ。文学の関係の会合があると、私は自動的に「欠席」の返信を出していた。それが今では、一日に数人の来訪者に会う。仕事だと覚悟すればできるものなのである。
 なぜ、当時悪評に塗れていた日本財団の仕事を引き受けたのか、とよく聞かれる。答えは簡単だった。私は以前から日本財団の理事だった。そして当時の日本財団は、はっきりした根拠なしに猛烈ないじめに遇っていたので、その嵐の中では、誰が会長職を引き受けても、その人の経歴にも立場にも傷がついたのだ。
 しかし私は作家で、初めから傷つくぺき立場も名誉もなかった。その上、悪評のどん底にいるということは、私にとっては、むしろ一つの安定に思えた。
 私は狡かったのだ。財団が悪評のどん底にいたから、会長のポストを引き受けた。いい評判の最中にあったら、多分断ったと思う。これ以上悪くなりようがない、という状態は、希望に満ちたどん底なのだ。もう運命は上りに向かうしかないのだから。
 それに自分に責任のない誤解をもとに叩かれるという状態は、実に劇的で爽やかなものだ。私をなじる人があったら、少なくとも私はまじまじとその顔を眺めることにしよう。それはまさにシェークスピアの作品の世界ほどに、芳醇な矛盾を含んでいるはずだから、私が仕事をする上で必ず貴重な体験になるだろう。
 しかしことはすべて予想通りにはならない。私は際立った悪意を受けることもなかった。やはり私はマスコミの畑で採れた人間であった。マスコミの人たちは、私のよく知っている人種だったから、私は過度の悪意など持ちようがなかったのだ。
 私は財団の虎ノ門のオフィスで、会議をし、決裁をし、人に会う。しかし心のどこかで、これは期限つきの私の仮の姿だと、いつも明確に思っている。反面、「偉い人に会うというような仕事は、できるだけ笹川陽平理事長におしつけよう」とも企んでいるのである。
 今日、日本財団は初めて、朝日、毎日、読売、日経、産経の中央紙と、北海道、東京、中日、西日本のブロック紙に、決算と仕事の内容を知らせる全紙広告を出した。広報部長は「夢にまで見た日」と少しオーバーに言う。これで財団の仕事の内容は、全部公表した。失敗した事例、迷っている方向は、毎回新聞記者会見の時に成功例と共に私が話すことにしている。人間の犯す失敗は、その過程を見極め、次回への戒めとすることを前提に許してほしいと私は願っている。作家というものは、情報公開を仕事としているのだから、手のうちをさらけ出すことには、神経が鍛えられている。
 しかしこの全紙、十五段広告というものは実に高いものだ。こういう広告の実情を知るようになってから、私は全紙広告やテレビのコマーシャルを度々出す企業の製品は買うべきではないと思うようになった。そんなに広告費を使えば、それは必ず商品の値段に跳ね返るから、私たちは高いものを買うことになる。
 今日私は広告の隅に現れた楽しい企みに心を躍らせている。広告業界の歴史始まって以来、初めてデザインのコンペに残った会社と担当デザイナーの名前が小さく小さくだが、片隅に入っているのだ。
 これは私の希望だった。いい仕事ができた時には、必ずその仕事に力のあった人ぴとを顕彰したいと思う。一つの広告代理店は、初め名前を出すことに賛成でないと言った。理由はいろいろ考えられるが……少なくとも前例にないからという理由なら、私は受け付けない。私は前にはなかったことをやりたいのだ。
 三月一日
 雨も降らないのに、庭の茂みの下の椎茸の菌を植えた木に、椎茸が生え始めた。まだ小さくてひねこぴれているが、それでも春が近いのである。それで椎茸の木にたっぷりと水をやる。
 夫は雨が好きだ。外出していても、雨が降ると、ああこの一雨でまた相当椎茸が生えるなあ、と思うというのだ。
 事実その通りで、最盛期にはちょっと採りはぐれると、すぐ掌くらいの大きさになってしまう。人が椎茸を作るのではない。雨が椎茸を生やす。こういう反応を利用する神は偉大な農夫である。
 



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