共通ヘッダを読みとばす

日本財団 図書館

日本財団

Topアーカイブざいだん模様著者別記事数 > ざいだん模様情報
著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 価値の混乱?裏切りで失う拠所  
コラム名: 自分の顔相手の顔 10  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1996/12/10  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   夫が秘密の女を連れて行った旅先で死んだ家庭を私は知っている。また、長い間夫婦だけの甘い生活を疑ったこともなかった妻が、夫の死後、深い仲だった女性がいたことを知り、惚れきって暮らした結婚生活を、「ほんとにばかみたい」と思うようになった例も知っている。
 こういう死者たちはかなりひどい打撃を家族に与えて死んだのである。つまり最後のところで、配偶者さえも信じられない、という人間不信を植えつけて去ったのだ。
 夫に隠して、男性遍歴を続けた妻が死んだケースがあった。その人の納骨の時、突然豪雨が見舞った、という体験を私に語ってくれた友人がいる。信じられない天候の変化だったのだそうだ。人々が墓地へ着いた時、急に豪雨が襲い、雷鳴が轟いた。落雷が続いて、人々は退避しなければならなくなった。「あれは、地獄に落ちた仏さんが、助けてくれ、と必死で訴えているとしか思えなかったわ」
 とその人は私に言った。
 歌舞伎の場面みたいで、私は信じる気にはならなかった。しかし人の一生から、信頼を奪った罪というのはかなり大きいのだろう。浮気をして死んだ妻が地獄に落ちた、と感じたのは、死んだ側の真実でなく、生き残った人の感覚なのである。一人の人間の裏切りは、決してその人だけに留まらない。
 夫の死後、夫の浮気を知らされた一人の女性が、「何だか、この世がつまらなくなっちゃった」
 と言ったこともある。その時、彼女は決して「腹が立つ」とは言わなかった。ただこの世が色褪せて見えたと感じたのだろう。夫婦の間で、真実の、誠実の、愛の、協力の、と言って来たことがすべて嘘だと思えたのである。その結果、彼女は此の世で、何を拠所にすべきかわからなくなったのである。
 こういう価値の混乱を引き起こす原因になることは、意外と大きな罪悪なのかな、と私はその時思ったのである。
 もちろん、私の中にも、生きて過ごすのはすべて錯覚の上だ、という自覚がある。真実を知りたいとも思うけれど、真実なんか知りたくもない、それより楽な方がいい、という本音も用意されている。
 しかし家族にも友達にも裏切られないで過ごせた、ということは、すばらしいことだ。それだけで、人生は半分以上成功している。言葉を替えて言えば、家族を裏切らなければ、それだけでその人は、数人の家族の心を、不信から救ったのである。どんなに立身出世しても、家族を不信に叩き込んでおいて、人生が成功することなどあり得ない。
 若い時には、人間は一生の間にどんな大きな仕事でもできるように考えていた。しかし今では、人間が一生にできることは、ほんとうに小さなことだということがわかってしまった。しかし小さいけれど大きなことの中に、この信頼というものが確実に存在している。
 



日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION
Copyright(C)The Nippon Foundation