|
もはや「南洋」ではない 「パラオに行かないか」と誘ってくれたのは、学徒出陣の元海軍中尉の経歴をもつ田淵節也さんだった。パラオの人々とは、かつて日本財団が、島々をつなぐフェリーボートを二隻、寄付するなど深いご縁があり、一緒に出かけることにした。 田淵さんは、予科練教官の経験があり、多くの教え子が南の海の戦いで死んでいった。魚雷艇の指導官の内示を受け、自らも南洋群島に赴き、死との直面を覚悟した矢先に敗戦を迎えた。「戦死者の霊に、時折、胸の疼きを覚える」。そういう彼は、若い命が失われた「南洋群島」を自分の目で確かめるのが長年の懸案だったという。 この企画には、田淵さんの友人で日本・パラオ友好議員連盟会長の三塚博さんが二つ返事で参加してくれた。一九九九年の十月、私たち一行は、ミクロネシアの新興国、パラオ共和国の土を踏んだ。 元ドイツ領パラオは、第一次大戦で“戦勝国”となった日本の南洋植民の拠点だった。パラオも含めて赤道以北の旧ドイツ領ミクロネシア諸島は、国際連盟の委任によって日本の統治下に入り、「南洋群島」と改名、パラオ諸島のコロール島に南洋庁が設置された。南洋庁管轄の群島は、米領グアムを除く、北マリアナ(サイパン・テニアン)とパラオ諸島である。 この地域は、第二次大戦中、日米死闘の激戦地となった。日本の敗戦とともに、米国の信託統治領に編入、「南洋群島」の呼称は消滅、「南太平洋諸島」となった。パラオは米国と長い交渉を経て、八回の住民投票ののち、九四年独立、国連の百八十五番目の加盟国、パラオ共和国が成立した。これが、駆け足でなぞったパラオの近代史の変遷である。 私の少年時代、愛読のマンガは『冒険ダン吉』であり、ラジオから流れる歌は、「私のラバさん酋長の娘」であった。こうした戦前、戦中の日本の大衆文化の醸し出す「南洋」の雰囲気が、今日の新興共和国の実像と、どうしても重なり合ってしまう。「南洋庁」から「共和国政府」にいたる五十年の時の流れに追いつくには、昭和ヒトケタ世代にとって、ちょっとした頭の切り替え作業が必要であった。 この国の人口は一万八千人であり、日本の尺度では「村」の規模である。二百の島からなる孤島国家大統領は、クニオ・ナカムラという人である。われわれ一行は到着の夜、そのナカムラさんとホテルのテラスで食事を共にした。 昔の軍歌の「椰子の葉陰に十字星……が、ぴったりと来るような“南洋”の海岸の夜であった。「南洋はもう古い」。ナカムラさんはそう切り出した。そして「われわれの国々を“南太平洋”と呼ぶのもけっして適当とはいえない。“太平洋諸国”といってほしい。“南”は不用です」とも。一瞬、ぎょっとした。「日本や米国、欧州からみれば、南ではないか……」。確かにそうなのだが、それがいけないというのだ。そういえば、パラオやマーシャル諸島は、北半球の太平洋国家であった。 この問題が、われわれの宿泊しているパラオ・パシフィック・リゾート・ホテルで同じ日に開催されていた“SOUTH PACIFIC FORUM”(十六カ国の大統領・首相のサミット)で議論された、というのだ。 「クニオ・ナカムラ」大統領 「それでね。これからは、この首脳会議の名称から、SOUTHをはずして“PACIFIC FORUM”に改名することを全員一致で決議したのだ」とナカムラ大統領。地球の三分の一が太平洋であり、南北の回帰線の内側である熱帯太平洋に、二十六の国もしくは自治領と属領があり、南北の呼称のみならず、欧米や日本に、勝手に、西だの東だのと呼ばれるのは好まない??。 これは私にとっては、ちょっとした発見であった。ヨーロッパが熱帯太平洋諸国の存在を発見したのは一五二一年、マゼランの船隊がグアムに到達した日だが、それは“彼らの発見”であって、「われわれの祖先は何千年も前から、熱帯の島々を発見し、住んでいる」と主張するのと同じ論法である。 ナカムラ大統領は、日系二世で親日家ではあるが、強い信念をもつナショナリストであった。 父親は伊勢の松阪出身で、現地の酋長一族の女性と結婚したのだという。国民学校の二年生で日本の敗戦。米国占領下で島のハイスクールを出て、ハワイ大学に留学、島に戻り、高校の先生をやっていた。だから日本語は片言であり、彼とのコミュニケーションは英語である。 「この季節には、パラオ島からは南十字星は見えないよ……」とナカムラさんにからかわれる。楽団が「MY WAY」を演奏する。するとナカムラさんは唇をかすかに動かし唱和し始めたのである。彼のカラオケのオハコはマイ・ウェイだ、と東京から同行してくれた駐日パラオ大使、マサオ・サルパドール氏が耳元でささやいた。 「ふとたたずみ、私はふり返る。遠く旅して歩いた若い日よ、すべて心の決めたままに。私は愛する“歌”があるから、信じたこの道を私は行くだけ。すべては心の決めたままに…」。フランク・シナトラ歌うところの「マイ・ウエイ」。 心の中では愛する“歌”を“パラオ”に置きかえ、彼は歌っているだろう。「AND DID IT MY WAY」。 ナカムラさんに限らず、パラオの政治リーダーは、ナショナリストであると同時に、なかなかのしっかり者ぞろいである。海浜で甲羅干しに専念する観光客にとっては、どうでもよいことかもしれないが、この共和国の「国体」は、聞けば聞くほど不思議な国家形態なのだ。 独立国とはいいながら、米国との間に五十年間の「自由連合条約」を締結、この国の安全保障と国防は米国に委ねた。防衛費ゼロの只乗りの享受だ。それだけでなく、十五年間にわたって総計四億五千万ドル財政援助を米国から頂戴する契約もしっかりと取りつけている。 憲法九条はパラオのもの パラオに軍事的脅威はないのか? マサオ・サルバドール大使に尋ねたら、「外国漁船の領海侵犯くらいかな。もし国の危機が来たら、国際社会の良心に訴える。パラオ人は平和愛好国民だから……」と。なにやら日本国憲法の講話を聞いているような変テコな気分になった。日本の「第九条」は、大国日本にとっては、いろいろ不都合が生じてきたが、人口が村の規模しかないパラオにとっては好都合この上なしだ。しかも米国の援助でこの国の財政の六〇%をまかなっているのだから、パラオ共和国の「MY WAY」は、金銭感覚からみても、なかなかしたたかである。 パラオの国旗は空色の地に、黄金色の丸が書かれている。「日本の日の丸に似ている」といったら、「まあ、そういう見方もあるよね」とナカムラさんは苦笑する。空色と黄金色は、海と満月、平和と静寂、海と陸の豊饒を表しているという。 日本からパラオに出かける人は、どうしてもいったんは、グアム島に寄らなければならない。成田からグアムまでは三時間半、そこからパラオなどの南の島に行くには、彼らが「エアーマイク」と呼んでいる米国のコンティネンタル・ミクロネシア航空に乗り換えなければならない。グアムからパラオまで二時間半なのだが、日本便との接続時間など考慮に入れていないから、待ち時間を入れると一日仕事になってしまう。 空港のあるパラオ本島(バベルドアブ島)から、旧南洋庁のある首都のコロール島まで、二百メートの橋がかかっている。車が通ると、重量で海に沈みそうな浮橋だった。実はこの橋、九六年の九月二十六日の早朝、突如として、中央で真っ二つに割れて崩落、今の橋は仮設なのだという。マサオ・駐日大使の説明では、「KB橋の悲劇とか、暗黒の九月事件」と騒がれた珍事だと言う。 本島からコロールヘの水道と電力の導管が入っていたので、首都機能が麻痺、「国家非常事態宣言」が発令された。米政府の援助で、ハワイの会社が設計した。施工は韓国の建設会社だという。 「日本の三十億円のODAの援助で、近く新しい橋が着工する。日本人の仕事だから、今度は大丈夫」とマサオ大使、日本をもち上げることしきりだった。 日本統治時代の「南洋」は、死語になって久しい。だがパラオと日本の絆は、今でもしっかりと続いている。
|
|
|
|