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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 魂の炎の夜  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 2001/07  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私は敢えて、一つの選択をした。

 毎年日本財団はマスコミ、霞ヶ関の官庁の若手、そして財団自体の若い世代の混成部隊で、世界で最も取り残されている、と思われる土地を訪問する旅を行っているのだが、今年はその第一の目的地に、南フランスのピレネー山脈の麓にあるルルドを選んだのである。

 出発の前に、私は十五人の同行者に、ルルドはカトリックの聖地だが、私自身も財団も、決して信仰を強要しているのではないこと、そこでは、ミサや他の行事に参加してもらうことはあるが、それはそこにやって来る病人たちを見るためで、カトリック自体は信仰や入信を全く強制しないのを信条としているということを説明した。

 私の中で、この土地はむしろ避けて通りたい場所であった。すべての信仰・宗教は、他宗教、或いは無神論者から見れば、多かれ少なかれ「淫祀邪教」的要素を持っている。そのような印象を一度持たれると後が面倒だから、寄りつかないに限る、という思いはあったのである。

 しかし思いつく限りで、白昼のもとで「病老死」が人生の当然の推移の一部として凝縮して見られるところはほかになかった。一足先にパリに着いた私は、本隊の十五人をパリの空港で迎え、そのままルルド行きの寝台列車に乗った。翌朝、七時を過ぎると前方にピレネーの山が見え、やがて激しい流れを見せるガヴ川が列車に沿って走るようになると、間もなくルルドである。

 一八五八年二月十一日、ルルドの近くに住んでいたベルナデッタ・スビルーという貧しい羊飼いの少女は、マッサビエルの洞窟と呼ばれている場所で奇妙な体験をした。木々の梢は動かないのに激しい風の音がして、ただ岩の裂け目に生えているバラだけが揺れていた。やがて奥から輝く雲が見え、それに続いて少女が見たこともないような美しい女性が現れた。少女は自然に手にしたロザリオで祈りを捧げたが、幻のような女性は祈りの最後の部分を唱和した。そして祈りの終りと共に、その姿は見えなくなった。

 その日を初めとして、七月十六日までの間に、この女性は十八回、姿を見せた。もっとも少女はすんなりと、この美しい女性との秘密の邂逅を独占することはできなかった。最初の出現の時に近くにいた妹とその友だちが、ベルナデッタが止めたにもかかわらず、この不思議を母親や近所の人たちに喋ってしまったからである。母親は娘に、見たのは幻だったのだと言い聞かせたが、三日後には少女は再び洞窟へこの婦人に会いにでかけた。三度目の出現の時、この女性はベルナデッタに、二週間、自分に会いに来てくれるように、そしてこの世ではあなたを幸福にはできないが、来世では必らず永遠の仕合せを約束する、と言った。他にこの女性の言ったことは、祈りがどれほど大切なことか、ということと、罪人の回心のために償いをすることであった。

 ベルナデッタがこの女性をいつから聖母と認識したか、はっきりした記録はない。しかし信仰深い貧しい家族の一員として、少女は無言のうちに本能的にそのように感じていたではあろうし、周囲の人々も聖母出現以外にはありえないと噂し始めていたのだろう。

 第十回目の出現の時、女性は少女に泉の水を飲んで洗うように、と命じた。しかしこの命令はベルナデッタを当惑させた。洞窟には泉はなかった。しかし彼女が夢中で地面を掘ると、そこから泉が湧き出た。

 三月二日の十三回目の出現の時、女性はさらにベルナデッタを困惑させるようなことを言った。「教会の主任司祭に、人たちが、ここへ来て行列を作り、教会を建てるように、と伝えなさい」と言ったのである。恐らくこれは少女にとっても主任司祭にとっても、まことに迷惑なことであったろう。

 何しろ三月四日の十五回目の出現の時には、この山裾の田舎に二万人もの人々が集ったのである。その多くが、物見高い群衆であったろう。しかし終始、出現した女性を見たのは、ベルナデッタ一人であったようである。ベルナデッタも嘘つきの娘と思われ、主任司祭にとってもこの騒ぎは望ましいことではなかった、と思われる。彼は少女に言った。

「まずそのことを望んだ人は、いったい誰なのか、聞いて来てくれ」

 それがこの事件を決定的にした。少女は女性から、全くわけのわからない返事をもらった。「私は原罪なく宿った者です」

 その四年前に、教皇ピオ九世は、聖母が人間として生まれながら、原罪を持たない方である、という教義上の考えを宣言した。しかしもしかしたら文字も読めなかった少女が、こうした神学的な思想も言葉も知るわけがない。テレビも新聞もない生活なのだ。その時初めて、主任司祭も、少女が見たのは幻影だと言って済まない現実を覚った、と言われる。

 それから約一世紀半経ったルルドに、私たちはやって来た。聖母が出現した洞窟のほぼ真上に建てられた「無原罪の聖母大聖堂」は、地下聖堂、ロザリオの聖堂との三層から成る祈りの場所である。聖ピオ十世の聖堂は一万二千人を収容する地下の大聖堂で、ここでは毎日病者のための特別の祝福が与えられる。

 病人がここへ来るには、沐浴場で冷いルルドの聖水に浸ることもその目的になっている。それによって今迄たくさんの奇蹟的な治癒が報告されている。無原罪の聖母大聖堂の壁は、そうして癒された人々の感謝を記した銘板で埋め尽されている。その中の多くは「聖母へ、治癒への深い感謝と共に」などとあるだけで、名前は記さず頭文字だけだ。聖母とその人との、秘密の通信文のようですらある。

 ここの沐浴は、介助者の指示によって、祈りを唱えながら下半身を冷水に沈める。そのための小さな浴室がずらりと並んでいるが、多くの場合希望者が多いので、長い列に並んで待たねばならない。しかし病人は常に優先される。おもしろいのは、濡れた体は別にタオルで拭くわけでもない。普通なら濡れた体に衣服を着ければ後が寒いものだが、不思議とそういう体験は誰もしないし、服はすぐ乾いてしまう。

 沐浴だけでなく、人々はずらりと並んだ蛇口から、ベルナデッタ以来湧き出ているルルドの水を汲んで飲む。町中で売っている小さな容器で持ち帰って、病気の友人に贈る。湧き水は危険だから飲まない、というのが常識だが、ここの水に限って、私も飲んでお腹を壊した、ということがない。

 もっとも今迄の同行者の中には、もっと通俗的な意図を持ってこの水に接した人もいる。ルルドの夜に飲んだ水割りの味は格別だったと小声で言う人もいたし、灘の酒造家は日本に持ち帰った水を分析に出して、非常にいい水質であることを確認した。しかしこの水が何年も腐らない、という事実に対する科学的な答えを、私はまだ聞いたことがない。

 ルルドの一日は夜の引き明けから忙しい。洞窟の前では、朝まだ暗い六時に第一回目のミサが始る。ミサは各国の巡礼団が伴って来た司祭たちが上げるので、ポーランド語、タガログ語、ルーマニア語、韓国語など、さまざまな国語で行われているが、私たちにとっては祭儀の順序も内容も違わないので、お説教がわからないことを除けば少しも不便しない。その間に少しずつ夜は明け、小鳥の声がマッサビエルの洞窟の崖で賑かになる。

 ミサの出入りを取りしきる男たちがいる。ブランカディエ(担架係)と呼ばれる担架を運ぶ時の革帯をつけたボランティアの人たちである。もちろん今は、担架を人がかついだりはしない。ストレッチャーの時代である。しかし彼らのつけている担送用の革帯は、一つの象徴として残されている。倒れた人を担ぎ上げる役目は、永遠に光栄あるものとみなされているのだ。

 日曜と水曜には、午前九時半から、地下聖堂でインターナショナル・ミサがある。それが終った後は、聖母大聖堂前の広大な広場が、新宿か渋谷の雑踏のように人でいっぱいになって歩けないほどになる。

 水浴は九時から十一時、と、二時半から四時。

 五時からは聖体行列が始る。旗やプラカードを持った巡礼団。修道女たち。マルタ騎士団などの奉仕団体。しかし、この時も主役は病人たちである。寝台車、車椅子が何十台も時には何百台も続く。彼らの中の一つのグループは、聖母に捧げる黄色いバラを一輪ずつ携えていた。列の後方の白い天蓋の下には、パンの形をした聖体を入れた容器が捧持されており、その後に、昔からの習慣として医師団が続く。行列はそのまま地下聖堂に入り、病者への祝福がさずけられる。

 夜は日が暮れるのに合わせて、九時からローソクの行列が始る。私たちが居合わせたのは、ちょうど聖霊降臨の祝日に向って三日間の連休に当っていたので、行列は二万か三万か、という人出になった。祈りと歌は各国語で唱えられ歌われるが、「ラウダテ(讃えよ)、マリア」のようなくり返しの部分は全員がラテン語で歌う。万という人たちが集りながら、そこには喧騒も緊張もない。むしろ静かな沈黙と、現世の不備を承認する静かな暗黙の連帯が沈んでいる。高みから撮影していたカメラマンは、一つ一つの灯が人間の魂のように慎しく、しかし毅然として輝くのを見ただろう。一つの灯が神の愛したもうた一つの大切な存在なのだ。

 この灯の行列が終ると、やっとルルドの一日が終る。山間の空に星が戻って来る。

 ルルドには果して奇蹟があったのだろうか、ということが、いつも信仰の上でも、通俗的な興味の上でも対象になる。あれだけ多くの人々??恐らく数千人が、自覚的にはルルドを訪問してそこで祈ることか、他人によって持ち帰られたルルドの水によって、説明できないほどの軽快ないしは治癒を体験した。この小さな山間の町に、年間五百万人もの人が巡礼にやって来るのは、そうした素朴な人間の希いがこめられているからである。

 しかしルルドの教会当局は「尋常ではない癒し」と「奇蹟」とを厳密に区別している。

 ゲオルク・ジークムントは、その著書『ルルドにはまだ奇跡があるのか』の中で次のように規定を示している。

(1)癒しは突然で、予測されず、完壁で、回復期を伴わないもの。しかもその結果が三、四年持続するもの。

(2)口、癒された病気は生命にかかわるもので、また機能的ではなく、器質的な起源のものでなくてはならない。

 奇蹟はどのように認定されるか。まず教派や国籍に関係なく集められた医師たちが、医局で、処置なしと認められた症例が治癒された例だけを集める。次に国際医学委員会が専門家たちを集めて事例を再調査する。

 私たちが巡礼者たちの宿泊施設を訪れてその運営について尋ねた時、私たちの中の一人が、真実の奇蹟と認められるものは、約百五十年の間にたった六十数例、七十例にも達していないのに、なぜこれほど多くの人たちがここに来るのか、と質問した。すると所長のバルビー氏は、「多くの人たちはただ祈るために来ている。水も単なる水であって決して聖水ではない」と答えた。

 聖クララと呼ばれる病人の宿泊施設には、ちょうど朝八時四十分に鉄道の病人専用列車で着いた人たちが、迎えのバスから下りたところだった。この列車は、オランダからの病人列車で、午後にはイタリアからの一便が着くという。運営はすべてが、十八歳以上で、一週間以上続けて仕事ができる、ということを条件に受け入れたボランティアによって行われている。

 私たちはそこを病院と思っていたのだが、そうではなかった。病人のグループは、必らず医師や看護婦を連れて来ている。ルルドではそうした病人のグループに、病室を貸すだけなのである。説明係のシスター・クリスティナは医師だというが、空いている病室を見せてくれながら、「ここでは、人のことを一番先に考えるのです」と言った。つまり経済性とか、社会的名誉とか、事業の拡張などは考えてもいない、ということだろう。必要なら必要なだけ、神が必らず何らかの方法で与えて下さる、というのが私たちの共通の認識である。

 病室の一つには、気管切開をしている病人の痰を取るための吸引装置もついている。つまりそれくらい重症な患者もここに来るのだ。大人の個人が、自分の責任において、「死んでもいいから行きたい」と思う場所に連れて行くのは、どれほど大きな意義があることか知れない。しかし、そうした望みの叶う生きやすい社会を作るには、病人が自ら望んで行った旅先で死亡すると、遺族が受け入れ先に責任をおっかぶせようとして訴えたりするような非常識を、社会が許さないような空気を作ることだ。

 ここへ来た病人の中で、たとえストレッチャーを使ってでも外へ出られない人のためには、ルルドのすべてを見渡せる広いテラスがある。そこから病人は、洞窟のマリアに祈ることも、聖体行列に加わることも、ローソクの行列の一人として「ラウダテ、マリア」を歌うこともできる。疎外されてはいないのだ。

 ここでは、シスター・クリスティナが言うように、病人が主役だ。ルルド中を、ボランティアが引く青いほろつきの車椅子に乗って行く老人や病人の姿から、私たちはさまざまなことを学ぶ。人生は生と死、健康と病気が対になって存在してこそ、自然なのだ、と納得させられる。病人は病気のままで人生の偉大な教師なのである。

 ベルナデッタは聖母を見たあと、ヌヴェールの修道院に入った。修道院の入口には、「神は慈愛である」と書かれていて、ベルナデッタは深く心を動かされた、という。

 ルルドの教会の委員会が認めた奇蹟でなくても、私の周囲には少くとも三例の、不思議な治癒の例がある。それらは劇的に治ったのではない。徐々に信じられない変化が起ったのだ。しかし彼らはそれをむしろ口にしたがらない。まるで神から特別に受けた伝言だけは、人に知られたくないかのように、である。

 ルルドの奇蹟ではなく、変化と呼ぶべきものに、むしろ「その日はそのまま家へ帰った」というようなケースがある。快癒は、その後に徐々に起きた。奇蹟を受けた人の中にも、再度訪問した時、はっきりとした変化が現れたケースがある。

 ルルドの変化とは何なのだろう。

 それはこの人間の生涯における価値観が百八十度方向転換をすることなのである。視力の低下や肢体の運動不能が、よいできごとであったりするわけがない。しかしここでガヴ川の水音、マッサビエルの風音の彼方に或る声を聞き、かくも多くの人々が同じ苦しみに耐えているのを知ると、自分に与えられたこの運命こそ、唯一無二のものなのだ、と思うようになるのである。この病気、この不運がなかったら、自分はこんなにも耐える力を発揮できなかった。こんなにも人生を見通しもしなかった。こんなにも人の愛を受けることはなかったと思う。

 人生におけるマイナスのものが、突然その人をその人らしく生かすプラスの要素になる。時にはそのようなことは一瞬のうちにそうなる。しかしルルド以外のどこにも、病気を評価する機能はない。

 ここには「人権」などというものは一片もない。しかしその代り、愛について語る言葉は溢れている。「Il faut aimer san mesure.(評価なしに、愛さねばならない)」という言葉は愛の本質を衝いている。

 この病人の波、ローソクの灯の波は、少い日でも数千から数万の規模で厳寒の期間以外は毎日休みなくくり返される。洞窟に現れた聖母が、人々が「行列を作る」ことを望んだのは、この連帯を味うために必要だということだったのかもしれない。
 



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