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私の「人脈」の一人の堀江節郎神父は、昔は、ブラジルの東端のジョン・ペソアという観光地のはずれの、想像もできないような貧民の村に住んでいた。ベッドもなく、床にアンペラを敷いて、寝ていた。 今、堀江神父は転任して、アマゾンの中流のマナウスに住んでいた。一九六〇年に初めて、河口のベレンに行った時、私は人の話を聞いただけで、マナウスに偏見を持っていた。それは蚊柱の立ちこめる密林の奥の、船で行っても何週間か遡上しなければならない、とんでもない奥地という感じだった。もっとも当時だって飛行機はあったのだから、そうした思い込みは、まだ当時三十歳になる直前だった私の浅慮として許してもらうほかはない。 今、マナウスは高層ビルの目立つ大都市になっているが、堀江神父の生活はそんなに大きく変ってはいない。任務は教区全体の運営にかかわることらしいが、神父の関心はいつも現場にある。神父が神学を教えたというブラジル人の神学生が、みごとな神父に育っていた。このウドソン神父は「生命の船」という最低生活者たちの村おこし運動をやっていたが、その一つの事業であるレンガ焼きの工場は、操業を続けられない状態に追い詰められていた。設備が古くなったので、量的に生産ができないので、事業として合わなくなってしまったのである。私たちが訪ねた日に、ちょうど二十七歳の誕生日を迎えた神父は、「レンガ工場で働いていた二百五十家族をどうしたら飢えさせないで暮させるかが心配です」と言った。二十七歳が、千人近い人の生活を背負っているのである。 堀江神父たちのイエズス会の修道院は、町中のごく普通の家であった。穏やかな住宅地に見えるが、すぐ後の通りでは、ピストルを使った殺人事件も起ったというような物騒な地区である。 そこに四、五人の神父や神学生がいっしょに暮しているらしいが、神父の部屋は、1.6メートと3メートの広さだった。三畳にちょっと欠ける面積である。この部屋にも、ベッドはおけない。アンペラの代りに、このあたりでは皆が使っているハンモックが夜のベッドだった。畳めば部屋は広く使える。 神父はその小部屋に与えられた木の窓を愛していた。ガラス窓もない。緑のペンキを塗った板戸が閉るだけだが、その向こうに何の変哲もない裏庭の木々が、四、五本見える。バナナの木も一本混っていたような気がするが、記憶は確かではない。 窓はまるで絵の額枠のようだと神父は言った。しかし絵と違って、その木々は季節によって色も変る。天候によって梢の揺れ方も違う。時間によって光も異なる。小鳥の声を送っても来る。 机と本棚があるのだから賛沢な生活だ、と神父は言った。旧約研究のためのヘブライ語の本もある。私は聖域のようなその部屋を、後退りして辞した。
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