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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ハイジャック事件?殺人犯、実名報道は当然のこと  
コラム名: 自分の顔相手の顔 258  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1999/08/03  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   私のエッセイが掲載されている新聞だから身びいきで言うのではないが、本紙が今度の全日空機のハイジャック犯人の名前を出したことは、まことに当然だと思う。
 他の朝日、読売、毎日などの全国紙と、東京新聞などのブロック紙は、「男が意味のわからないことを喋る」ので「刑事事件に問えるかどうかわからない」という理由で、本名を出さないのだそうである。
 人が自分の家の中で、自分と家族の納得や合意がとりつけられる範囲で、しかも外側からは伺えないような状況でなら、一応何をしても構わないと思う。健康上、家族皆が家では全裸で過ごすという家庭があるとしたら、その姿で玄関に応対にでなければ、それは外部の者のとやかく言うことではない。ただ人に知られなければいいと言っても、麻薬やニセサツを製造していいわけではないのだが。
 しかし今度の事件で犯人がしたことは、当人が少し変わったマニアだという程度ではない。その人は、はっきりと殺人を犯したのである。「しかも当局の裏をかく」ほど、犯人は空港内の設備に精通しており、警備の不備に対して警告を発するほどの知能もあった。意味がわからないことを言うかもしれないが、操縦の手続きに関して通でなければ知らない知識まで持っていた、とテレビは報じている。
 名前を出すのは常識だろう。東京新聞の見出しは「問題はプライバシー」だという。再び言うが、自分の所有地、または自家の中で、誰にもわからず、その影響が家族にしか及ばない範囲の行為なら、それはプライバシーの範疇として認めればいい。しかし騒音、臭気など外部に洩れるものはプライバシーでは済まない。今度の犯人はその程度を超えて、しかも過失ではなく意図的に人を殺す準備をしていた。その行為の責任よりプライバシーが優先するとすれば、それはオウムにも適用される。
 人を殺すということは、取り返しがつかないほど他人と関わったことの証拠なのである。だからその人はもはや、プライバシーを許されないのだ。しかしその場合でも過失で人を轢(ひ)いてしまったというような話だと、私はいつもずいぶん深く同情してしまう。しかし今度の事件は過失ではない。
 このごろの不思議な世論は、「精神障害者は弱者だ」として疑わないところである。弱者なら何をしてもいいのか。この事件の場合、一番の弱者は殺された機長だろう。その次が、墜落しそうな飛行機から逃れるすべもなかった数百人の乗客である。そして出刃包丁を持って機長を脅した犯人は、事件の経過中は一番の強者だったのである。
 日本新聞協会には『取材と報道』という一種の取り決めがあるらしいが、業界の取り決めに従っていさえすればいいというものではない。新聞社の責任の基本は、取材を必ず双方の立場から冷静に行い、報道の姿勢と人間への労(いたわ)りに対して独自の視点と哲学を持つことだ。別に協会の取り決めに従うこともない。独自の視点こそもっとも率直に読者に評価されるからである。
 



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