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私は実際の眼が本質的に強度の近視の構造を持っているので、自然に「近視眼的」なものの見方をしてしまう。それだけでなく、他人の顔を覚えられない、という恐さのために、私は人に会わなくて済む作家になった。今臨時に人とたくさん会う仕事をしているが、いつかまた人に会わず海辺や森の中に住める生活に戻れるだろう、と思うと心が躍る。 私だけでなく、もしかすると、人間は本質的に遠くは見えない、理解できないものなのかもしれない。 川の護岸に反対。産廃や原子力発電所の廃棄物処理場建設に反対。家庭用のごみ処理場建設にも反対。空港・鉄道・道路の建設にも反対、の人がいかに多いことか。実際にそれらを建設すれば、膨大なお金もかかる。無駄遣いだ、官が業者と癒着している証拠だと反対派は言い、「専門家」だという人たちは、建設の必要を感じるからその計画を立てたのだ、と対立する。 この問題はしばらくの間、徹底して反対派の言う通りにしたらどうだろう、とこの頃私はしきりに思う。反対派の特徴は、代替の案をほとんど示さずにただ反対することで、これなら、私にもできるという親しみもある。 反対派の指示に従うとさしあたりお金がかからなくて大変よい。ただ、まもなく市民の日常生活は冒されて来るだろう。産廃と家庭のごみは何としても出るし、それが捨場がなくてその辺に放置されると、市民の健康も当然悪くなる。しかし悪いことばかりではない。景気がよくなれば電力は足りなくなるだろうが、不景気が続けば「ほれごらん、これでよかったじゃないの」ということにもなるのだ。 空港は手狭になって飛行機は長く長く待つようになるだろうし、運が悪ければ衝突事故も起きるかもしれない。そういう空港を持つ国は、三流国どころか、五流国、六流国だと思われ、次第に国家としても衰退するだろうが、それも我々が自ら選んだ運命だから甘んじて受けよう。五流国、六流国には、またそれなりの気楽さもある、ということを、私は実感として知っているのである。 昔は、他者のために自分の利益を犠牲にすることは立派なことだ、という価値判断があった。しかし今はそんな判断は日本では裏切り者の思想である。外国では決してそうではないが、日本人は利己的なことを恥と思わない。 長い年月、日教組系の教師たちは「自分の不利益になることには黙っていない」ことが人間の当然の権利だと教えた。個人が現状よりいささかでも損になることには、いかなる意味ででも意味を見つけてやらなかったから、(死んだり、大きな損になったりしない程度ででも)社会のために犠牲になれたら、それはすばらしい行為なのだ、などということは全く思いつかない人ばかりになった。 そういう人の主導権で経営する社会の、行き着く先を見て死ぬのもまた、私は老人だから、人生最後のショーとしてはおもしろそうだと思うのである。
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