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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 人間の平等?人知に非ず偶然の結果…  
コラム名: 自分の顔相手の顔 130  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/03/24  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   二十一世紀のこの国の形として、「機会の平等」「結果の平等」を理想とする、という話を先日誰かから聞いた。この言葉はその人の考え方なのか、それとも誰か大変有名な人が言ったことなのか、私はよくわからない。しかしいずれにせよ、一つの当然あるべき姿のように世間から受け取られているという感じであった。
 一言で言うと、この言葉は実に嘘くさい。
 私たち小説家は、機会が平等でないことと、結果が平等でないことを、ずっと書き続けているのだ。そしてその不平等がうまく書けた時、その作品は真実に迫るものとして「名作」だと言われるのである。
 最近よく聞くのは、「お年寄りが安心して暮らせる生活を」と約束する政治家たちの言葉である。そういう人は、もうそれだけで嘘つきだということになる。なぜなら現世は、どのようにしても安心しては暮らせないところだからだ。
 機会の平等、結果の平等、などという言葉を聞く度に思い出す話がある。戦争末期の沖縄を取材していた時に聞いた話だ。
 一九四五年六月、島尻地方にはどこも安全という土地は一平方メートルもなくなっていた頃のことである。旧制女学校といえば、今の高校二年までだからまだ満十八歳未満。いわゆる未成年ばかりだが、その生徒たちは追い詰められて逃げ廻っていたのである。
 当時の一人の生徒の記憶である。逃げているうちにT字路に出てしまった。右へ逃げるか左に逃げるか、決心のしようがない。後が危険だから逃げて来たのだが、右も左も砲火にさらされていたのである。
 思考力を失ったその娘は、理由もなく左に逃げるつもりだった。しかし自分の前を行く同じような女学校の娘が、やはり左に逃げて数歩行ったところで、くるりともんぺのお尻を出して、道端におしっこをし始めたのを見ると、左へ行くのをやめて右へ折れることにした。何となく、おしっこで濡れた道を歩くのがいやだと思ったのだという。
 そんなことが理由になるような生活ではなかった。おしっこくらい清潔なものはなかったろう。彼女たちはもう長い間、まともにお風呂にも入らない生活をしていたのだ。
 しかしそのすぐ後で、左に折れた道の先に爆弾が落ちた。明確に見届けたわけではないが、おしっこをするために立ち止まった少女は恐らく直撃を受けて死亡したと思われた。
 生死、明暗を分けたのは、正義の結果でもない。知識を駆使した選択の正しさの結果でもない。それはただ偶然の結果であった。しかも結果の平等など望むべくもない悲惨な話である。助かった娘は、おしっこをした娘の行為に救われたのであった。しかしその娘とて、意識的に人の道を塞ぐためにおしっこをしたのではない。そこには人知の及ばない偶然の、平等でない結果があるだけであった。人間はあまり思い上がってはいけないと思う。
 



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