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一九九七年十一月十三日 十二時半発のエア・フランスでパリヘ向かう。日本財団の企画で、世界的なレベルの貧困の実態を、マダガスカルとルワンダで見るためである。途中南アとケニアに立ち寄るが、それは乗り換えと休息のためである。 団員は十一人。 毎日新聞社編集局の南蓁誼氏。共同通信社科学部の中村慎一氏。衛星チャンネルの巌谷鷲郎氏。ラジオ日本の有泉孝氏。運輸省航空局の亀山秀一氏。厚生省大臣官房厚生科学科の江浪武志氏。日本財団からはカメラマンの犬飼政雄、猪瀬敏之、古川秀雄、山田泰久と私の五人である。 この企画は、私の世論に対する一つの挑戦だった。ただひたすら悪く言われることを恐れて、公務員は民間のオフィスでは渋茶なら飲んでもいいが、コーヒーはいけない、などというルールで最近の日本はすくんでしまっている。 民が官を供応するというのは、官を平素の生活よりよくすることだ。しかし私は今度の旅行で官僚にもジャーナリストにも、辛い思いをさせ、見る折もない貧困を知ってもらおうとしたのである。飛行機はエコノミー・クラス。貧しい修道院に泊まるから寝袋、懐中電灯を携行してもらう。 この因循な世間の空気に堂々と抗して、二人の青年を出してくれた運輸省と厚生省。両省の決断に心からの感謝を表したい。私が身をもって悪意のある世評から守ります、と言ってある。この旅が供応に値する賛沢なものかどうかを証明するのは、同行の四人のマスコミ関係者たちである。 予定通りパリ着。航空会社が乗り継ぎ客のために用意する空港近くのホテルに泊まる。 十一月十四日 午前十時パリ発。地中海を縦断し、飛行機はリビアのベンガジからアフリカ大陸へ入る。リビア砂漠の縁辺を通り、ひたすら南下。やがて満月が出た。 夜十一時近く、マダガスカルの首都、タナナリブ着。マリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター・牧野、平間、遠藤の三人と再会を喜び合った。日本大使館のおかげでトランク一ぱい分の薬品も無事に通関できた。明日からの南部旅行に備えて、荷物の仕分けをしたので眠ったのは午前二時半。 十一月十五日 午前七時半ホテル発。アンツィラベに向かう。百七十キロの道のり。昔はスコップ必携の悪路だったが、この十五年間で道は信じられないほど整備された。 毎日新聞に連載した『時の止まった赤ん坊』の舞台となったアベ・マリア産院も、増築と改築できれいになった。十五年前、この修道院の花と野菜の面倒を一手に引き受けていたフランス人のシスターがすっかり衰えてベッドに横たわっていた。 お産の近づいた人たちが家族ぐるみでその時を待つための小屋に三十二歳の人がいた。四人目のお産の人。十歳の長女は畑仕事を手伝っていて突き眼になり、片目は見えない。十七歳で初産の若妻は少し憂鬱そうで夫はまだ来ない、と言う。中庭に脚を縛られてうずくまる鶏は、赤ん坊が生まれるとすぐ殺されてお産婦さんの栄養源になる。 江浪ドクターと財団の猪瀬、古川の両青年が、子供たちを集めて折り紙教室。風せんもふくらましてくれるので、子供たちは盆と正月をいっしょに味わっている。 昼も夜も修道院で家族的なあたたかい食事をごちそうになる。夜はササニシキも炊いて、キンピラ、チリメンジャコ、タクアンなど半分日本食を加えた。 十一月十六日 フィナランツォアヘ向けて南下。シスター遠藤の働くアンブィノーリナ村の修道院から迎えの車が途中まで来た。最後の三十キロほどが最高の悪路。赤茶色の埃が車の窓縁に積もるほど舞い上がる。 迎えの車の本当の目的は、途中に四、五カ所ある小川を渡るための支援である。橋板はすぐ薪や建材に盗まれる。修道院の車は、屋根に積んだ十枚近くの板を並べて車を渡し、全車両が渡り終えると、又板を回収して屋根に積む。運輸省の亀山さんも土木作業に加わる。 日没寸前、やっと村に着く。バンマツリの大木が紫と白のみごとな花をつけている。私は二階のシスターの部屋。天井板は粗けずりだから、隙間から落ちて来たゴミがベッドカバーの上にざらざらしている。男性たちは階下の大部屋に患者用のベッドを並べたのを使わせてもらう。患者を追い払ったのではない。まだ開業に漕ぎつけていないのだ。 お風呂はないから、カメに溜めた水で体を拭く。トイレは、自然の中。それでもシスターたちが、タオルを用意して下さった。なぜか銀座のクラブのタオルがある、と毎日の南さんが笑う。それでも太陽電池で電気が一応つくのだから大したものだ。 夜空に白い雲が飛んでいる。限りない静寂。明日は看護婦の守護の聖人であるハンガリアの聖エリザベトの祝日なので朝六時半からミサがあるという。ミサを立てるベルギー人の神父は、この電気も水もない村に三十六年間住んでいる。少しアル中気味だというが、アルコールなしに三十六年もこんな僻村に一人で生きて行けるか。
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