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外国で長く暮らしている日本人の友達と、日本的特性について喋る機会があった。もっとも私自身、外国に住んだこともないのだから、私の精神はかなり純粋に日本的なはずで、ほんとうはそういう話題を客観的に扱える心理状態にはない。 ただおぼろげながらわかることは、外国では、人は自分と考えが違うものだ、と誰もが思っていることだ。人が違うのだから、考えも違って当然である。 しかし日本人はそうは思わない。違うということは、反道徳的なことになる。つまり多くの人は自分が正しいのだから、正しいものの反対は悪いものだということになる。 聖書には正しい理論の反対もまた正しい、という例が書いてある。葡萄畑の労働者という物語である。従って選択肢は多いのだが、人間はそれぞれの好みで、自分が比較的正しいと思うことをする他はない。しかしだからと言って、相手が悪人だとか、無用の長物だとか、思うのは見当違いなのである。 もちろん外国人でも気の合う仲間というのはあって、いっしょにブリッジをしたり、乗馬を楽しんだりする時には、同じような考え方の人といっしょに楽しみたいだろう。しかし日本では、判断の違いが道徳として裁かれるのが困るのである。 私の友人の一人でものを書く人が、或る時「あなたも私も、右からも左からも嫌われてるのよ」というような言い方をした。私をいっしょにワルモノにしてくれているのが温かい友達甲斐というものである。 嫌われていい、と居直るわけでもないし、理解されるように努めるのは、半分義務だと思うこともあるが、世の中にはどうにも仕方がないことだってよくある。人に嫌われるのもその一つである。 人に嫌われたら、うなだれている他はない。もしそれが純粋の失策だったら謝り、直すこともできるが、それが思想的な選択の結果だったら、「ごめんなさい。あなたのいう通りします」とも言えない。自分であることを捨てることになるからである。 自分ができないことは、人にも要求しないことだろう。人は違ったまま、ただ基本的な問題についてだけ、助け合うことだ。命を守ること、とか、病気を治すこと、とか、子供に読み書きを教えること、とかそういう基本について働くことは、相当に意見の違った人とでもできる。 右からも左からも嫌われることは不徳の致すところでもあるけれど、もしかするとそれがほんとうの自由を確保することかもしれない。右からも左からも愛されると、愛される状態を続けるために、人は相手の評判を気にするようになる。右と左の双方から愛されるなんて至難の業である。 見捨てられない方がいいが、見捨てられたら、それにもいいことがある。嫌われない方がいいが、嫌われたらそれも風通しのいいことだ。おもしろいものである。
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