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ポリタンク入りの聖地の水 インドという国の形は、さながら巨象を真正面から見た顔の如し??と言った日本のインド学者がいる。言われてみれば、そう見えぬこともない。パキスタンとバングラデシュという、この国から別れた二つのイスラム国家が大きな両耳で、ネパールやヒマラヤが高く秀い出た額に相当する。ベンガル湾のカルカッタとアラビア海のムンバイ(ボンベイ)という二つの大都市が目玉だとすると、中央部のデカン高原あたりから、鼻が始まり、最南端のコモリン岬で、くるりと内側に鼻が巻かれる。スリランカとモルディブ諸島を牙に見立てたら確かに象の顔に見える。山脈や河川が、縦横に走り、苦悩する巨象の顔に深いシワが刻まれているかのようだ。 地図上のインドは、巨大であり、しかもその形状は実に多様で変化に富んでいる。地理的な形状のみならず言語、宗教、気候、風土、生活習慣、人種、歴史、この国のもつ文化と文明は、実に多様である、と誰もがいう。そういう目で見るから、この国の地図は複雑に見えるのか、それともこの国の地形そのものが地域ごとに多様で複雑なインド文明を生み出す要因なのか。きっと両方であるに違いない。 アラビア海に面するインド亜大陸南西部のケーララ州を訪れ、私は益々、その感を強くしたのである。今年の一月下旬、シンガポールから、ベンガル湾に臨む大都市チェンナイ(マドラス)に飛び、一泊ののち、国内線でこの州のカリカットに入った。 インドの空の旅のシステムは摩訶不思議で、チェンナイ空港では一度チェック・インした荷物をゲートに入ってから、駐機中の飛行機にバスで向かう直前に、もう一度確認させられ、搭乗券にスタンプを貰わないと乗せてくれない。「セキュリティ上の理由」とのことだが、ごていねいなことだ。そうかと思うと、このカリカットの空港では、国際線と国内線が同時に到着、同じゲートから税関を通り外に出る仕組みになっていたのには驚かされた。なんと大ざっぱなことか。インドといっても、いささか広うござんす。州が違うとかくもシステムが異なるのか。 中東からやって来た国際線の乗客とかち合って空港出口はごったがえしていたが、ここで不思議な光景に出くわした。中東からのインド人乗客のほとんどが、十八リットル入りのポリタンクをもっていたのである。「石油やガソリンを空輸することはあるまい」とは思ったものの、中東とその宗教に詳しい同行の曾野綾子さんに「あれはメッカの井戸の聖水よ。あの人達は巡礼帰りのイスラム教徒よ」と言われるまで、中身がまさかただの水(少なくとも異教徒の私にとっては)とは気が付かなかった。ここは、サウジアラビアをはじめとする中東湾岸諸国への最短距離にあるインドの空の玄関だったのである。 ケーララ州と中東との歴史的結びつきは、ムガール帝国の首都だったデリーのある北部インドよりも密だった。それは、前述の巨象の顔にたとえたこの国の地形に負うところが大きい。ケーララは、アラビア海と西ガート山脈に挟まれた細長い土地で、長年にわたって本土からの“北の侵略者”がやって来なかった。そしてむしろ海を隔てた外国との交流が盛んだった。この州は十四世紀から十九世紀央まで続いたムガール帝国の版図の圏外であり、英国の植民地直接統治により、インド帝国に組み込まれて以来、インド連邦の一州ではあるものの、一風、変わったインドで、あり続けた。 千二百ぺージもある分厚い英国の旅行案内書『Lonely Planet』(地球一人歩き)の「インド編」のケーララ州の項目には、こう書かれている。 「二千年も前からフェニキャ人、ローマ人、アラブ人は、ケーララの存在を知っていた。そしてケーララは海のシルクロードの中継地でもあったので、中国人も欧州人よりずっと昔にこの地を知っていた。彼らは象牙、香辛料、白檀を求めてこの地にやって来た。一四九八年、ヴァスコ・ダ・ガマが最初の欧州人として上陸し、アラブの香料商人と戦った。この地のヒンドゥー教徒は、異質の者の共存を許し、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教にも寛大であった」と。 インドに最初にキリスト教をもたらしたのは、ポルトガル人のカトリック教徒ヴァスコ・ダ・ガマではなく、紀元一世紀、シリアの使徒聖トーマス教会を、アラブの商人がこの地に建てたのが最初だといわれる。そして、カリカットは、中国からアフリカを結ぶ海のシルクロードの中心となる古い港町であった。 椰子の木の州・ケーララ 「ケーララとは、椰子の木、カリカットとは聖なる地という意味です」と空港に迎えに来てくれたイエズス会の神父、ホセ氏が教えてくれた。日本財団が援助している同会がやっている山岳少数民族のための小学校の現場を見るために、この地を訪れたのだ。この地域は、共産党が州政府を握る西ベンガル州と並んで、インドでも珍しい左翼勢力の牙城である。赤地に、鎌とハンマーをあしらった、今どきの世界ではめったに見られない、インド共産党のマルクス派の赤旗、が沿道に林立していた。「共産党とうまくやっているか、ですって。もちろん。彼らは政治的にはコミュニストだが、神の存在を否定しません。Pragmatic Marxistですよ」とホセ神父。 ケーララ州の大きさは、スイスかオランダ程度で、インドにしては土地が狭く、ここに二千九百万人が住んでいる。海岸付近は、うっそうと繁る椰子の森林があり、入江と運河が入り組み、白砂の海岸とやや緑色がかったアラビア海が、美しい調和を演出している。平原は香辛料の世界的な大産地。丘陵地帯は、ゴム、コーヒー、そしてツゲの植木のように見える茶畑が続いている。 「自然は豊かだ。エチオピアからやってくる赤道西風の贈り物であるモンスーンのおかげで作物の出来はよい。でも人が多い。豊かな土地には人が集まりすぎる。だから貧しい。貧困から抜け出そうという意欲はインドで一番強い。教育熱心で識字率は九五%(インドの平均は六五%)で極めて高く、人々は政治好きだ」ホセ神父はそう解説する。州の住民の宗教分布は、ヒンドゥー五三%、キリスト教二三%、イスラム教二〇%だ。ヒンドゥー八二%、イスラム教一一%、キリスト教二・四%が全インドの宗教分布だから、この地はインドではあるが、キリスト教、イスラム教の比重が高く、ヒンドゥー色が極めて強い平均的インド像とはかなり異なる。それが多様性の共存する複合国家インドのインドたるゆえんでもあろう。 インド中央部に抜ける曲がりくねった幹線道路を縫って、山に登る。幹線道路といっても九十九折りのガタガタ道だ。何度も満員のバスとすれ違う。ぎりぎりのカーブだ。象ともすれ違う。好物はタケノコとのことだ。高い所にある木の実は鼻で振り払ってしまう。これは象のオモチャで、他の動物のエサなのに踏みにじってしまうのだという。象の生棲地の彼方には、海抜千五百メートの高原があり、背が低く、鼻が丸く、髪がちぢれ、ビンロウの実を常用するので、唇が赤いクリチアという名の黒人の少数民族が、三万人住む集落があった。ここにイエズス会の小学校があった。 腹を割らない生活の知恵 「アフリカから来た人々か」と聞いたら、ケーララに約千年前から住む原住民で、山に追われた人々だという。「彼らには、まず自尊心を教え、次には部族としての、まとまりを教え、そして他との共存を教える」とのことで、唯一絶対の神の存在を前提とするカトリックの宗教教育は、やっていないとホセ神父はいう。 インドとは、言語、民族、宗教、生活習慣の異なる人々が、棲み分けることによって、かろうじて成立っている国である。一つの弁当箱に、様々な総菜が詰められているが、混ぜ飯にしたら異物同士の化学反応がおこり爆発してしまう。いろいろと異種の要素をごった煮にせずに、幕の内弁当風の盛り付けがこの国維持のノウハウなのであろう。 豊臣秀吉の時代、フランスコ・ザビエルを日本に送ったあの戦闘的な布教集団、イエズス会のこの地での活動が案に相違してソフトなのは、昨今のバチカンの他宗教への寛容と共存路線の反映だろうが、こうしたインドの特殊性とも無関係ではないように思える。 帰国後、インド学者の森尻純夫さんにこの話をした。「そう。インドはヒンドゥー教国と喧伝されているが、立ち入ってみると意外な様相に出合うことがある。多宗教国家だから、お互い、決して腹を割らない。腹を割って話せばわかると思うのが日本人の文化だが、インドでは腹を割って話したら、決して相容れない。だから腹を割らないのだ。キリスト者も、ムスリモもジャイナ教徒も互いに腹を割らない生活様式を日常的には堅持しているのだ」という。モザイク国家、インド。そこに住むにはそれなりの知恵が必要である。本音を人に押しつけずに、Ambiguity(あいまいさ)を残す。それがインドにおける「共存」の要諦なのである。
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