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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: ボリビア桜  
コラム名: 私日記 第11回  
出版物名: VOICE  
出版社名: 毎日新聞社出版局  
発行日: 2000/11  
※この記事は、著者とPHP研究所の許諾を得て転載したものです。
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  二〇〇〇年八月二十七日
 午後三時に家を出て、最初の目的地ブラジルまで二十五時間もの長旅に出るというのに、午前十一時まで原稿が残ってしまった。荷作りはそれから。缶切が見つからないのがわかったら朱門が買って来てくれた。
 今回の旅も世界の最貧の状態を知るのが目的で、これで四回目になる。今度入るのは、ブラジル、ボリビア、ペルー。参加者は産経新聞社・中澤克彦さん、時事通信社・小川耕一さん、NHK・鈴木源庫さん、TBSラジオ・中村尚登さん、暮らしの映像社・鈴木浩さん、海上保安庁・筒井直樹さん、建設省・泊宏さん、厚生省・鈴木章記さん、農林水産省・下川顕さん、文部省・平野裕次さん。それに日本財団の職員が私を入れて六人である。
 空港の待合室で皆揃って「使用前」の記念写真を撮った。これからずっとスラムと貧しい人たちの土地に入るので、皆髪や髭の手入れを悪くし、東京出発時のような都会のインテリ風をやめてもらうように言う。その方が安全なのである。私の腕時計は顔が二つあって、一つは日本時間、一つは現地時間をあらわすようになっているのだが、最初の到着地ブラジルは十二時間の時差である。だから二つの顔は昼夜がとり違っているだけで全く役に立たないのがおもしろくない。
 機中では四時間ほど眠って眼を覚ましたらカナダの上空。
 ニューヨークでは出国時に時間を取るので、待合室にいるつもりだったが、JALが配慮してくれてラウンジヘ行った。そこでおもしろい、いいことがあった。普段はあまり食べないバター・クッキーを食べてみたら大変おいしかったので、ラウンジの係の女性に「一袋余分に頂いて行きます」と挨拶した。すると半ダースほど持って来てくれたので「ではこれはブラジルの施設の子供たちに上げます」とお喋りついでに旅行の目的を説明したら、もっとたくさん持って来てくれた。
 ニューヨークからは八時間五十分の飛行だというが、そのうち四時間を落語を聞きながら眠ったので、ブラジル時間の午前二時半に目を覚まして気分は爽やか。楽をしているせいか、案外と長旅ではなかった。
 
八月二十八日
 サンパウロは薄曇り。ひどい朝のラッシュの中をヒルトン・ホテルヘ。今日だけは、一日予定を入れないことを、私が決めてしまった。若い人たちとはいえ二十五時間をエコノミー・クラスで旅行するのだから、やはり相当疲れているはずである。
 私は午前十一時から「初対面の知人」三人に会う。お昼御飯をごちそうになりながら、日本の話をし、ブラジルの様子を聞く。結論を先に言うと、まじめで正直で才能のある庶民企業家をすべてつぶしてしまうおかしな国である。生き残るのは政界とつながりのある「超富裕階級」だけ。癌を病んでいる二人の知人のために頼んであったアガリクス(茸)を六袋受け取る。
 夜は、現地での打ち合わせをかねてブラジルの焼き肉「シュラスコ」屋へ。なぜか店内にはイエスの最後の晩餐の絵が飾ってある。イエスの最後の晩餐には、過ぎ越しの祭りには必ずあるはずの犠牲の羊がなかった。イエス自身がその犠牲だったからだと私は思う。だからこの絵は焼き肉屋に置くにはまことに不適切だ。しかしお肉は安くておいしい。肉に振ってある岩塩がすばらしいので、帰りに、ホテルの傍のスーパーマーケットで買って帰ることにした。五百グラムでたったの十七円。
 
八月二十九日
 寒い。持っているものの中で一番温かいものを、それも重ね着する。
 九時にホテルを出て十時四十五分発の便でアマゾン中流のマナウスヘ。ブラジル国内を北上すること四時間である。何という広大な国なのだ。アマゾン河口にある中州のマラジョー島は、四国と九州を合わせた面積がある、と昔教わって「たまげた」ことを思い出す。住民は八○パーセントがインディオ。残りがポルトガル、イタリア、スペインなどの混血。
 空港で、青年のようにリュックをしょった堀江節郎神父に再会した。イエズス会士だが、私が前にお目にかかった時は、ブラジル最東端のジョアン・ペソアという町のはずれの貧民の村に住み込んでおられた。今は任地が変わってマナウスに移られたので、私たちをこの町の貧困地帯に入れてくださることになったのである。
 百二十年前、このマナウスはゴム生産の黄金時代を迎えた。ゴムの後はジュートの生産地だったが、それも衰えてしまった。しかし近年、アマゾン河を利用した自由貿易港を開いてからは、六百以上の企業が進出してビルも目立つ近代都市になった。一八八四年に着工して、一八九六年に完成したぜいたくなオペラ・ハウスも改修されて残っているのを見学したが、やっと暑くなって私はほっとしている。誰かがマラリア蚊のことを質問した。蚊は百メートル以上水平に飛べないので、河の中州で発生した蚊はこちら側には飛んで来られないとのこと。すべて雄大な話である。
 
八月三十日
 アマゾン河についての初歩的な知識を講義される。茶色い色をしたアマゾン河は、水温二十一度〜二十三度、PH6.5。それに対して黒い色をしている支流のリオ・ネグロは水温二十九度、PH4である。つまりひどい酸性だから魚もあまり棲まず、中州の土地も痩せている。それに対して茶色いアマゾン河には二千種類もの魚がいるし、土地も肥沃で蚊も蛇も多い。水質の違いもあって、二つの流れは合流点に達してもなかなかまじり合わず、いつまでも河中で二つの色の帯のようになっているという。
 私が最初にアマゾン河を見たのは一九六〇年だった。河口のベレンの町で通りの向こうを見ると、(強度の近視の私の眼には)突如として茶色い長い塀が突き当たりに続いているように見えた。強いていえばそれは刑務所の塀に似ていた。それが実はアマゾン河だったのだ。
 この朝、私たちの船は一時間ほど遡上したらしいが、私は眠りこけていて、眼が覚めた時は、船着場にいた。パリカトゥーバの村だという。
 暑い河岸を登って行くと、森閑とした村がある。まるでアンコール・ワットの遺跡のように、かつては堂々としたカルメル会の修道院だったことを思わせる廃墟が、気根を蛇のように絡みつかせた木に食いつかれたようになったまま残っている。この建物は、その後刑務所になり、その後にハンセン病の患者たちを入れる施設になったが、もちろん今は誰もいない。
 何度も書いているが、今、ハンセン病は簡単に治る皮膚病だ。しかしまだ治療法がわからなかった一九四〇年代の初めまでの病人は、病気の一つの特徴が神経マヒにあったので、指の傷などを気づかずに放置して化膿した結果切断しなければならなくなったり、二次的な眼の機能障害で失明したりした。その結果としての変形が体に残ってしまっていて、それが日本財団も闘おうとしているハンセン病対策の大きな目標になっている。
 この島にはまだ当時の施設にいたという夫婦が雑貨屋のような小さな店をやっていた。住まいも服も体も不潔だったが、鈴木ドクターは手を取って様子を見てくださった。
 昼御飯は川筋の大衆レストラン。鬼蓮を見ているうちに睡魔がひどくなったので、さらに小舟に乗り換えて川筋の奥へ行くという人たちを見送って、私は船のデッキに寝ころがって眠りこけた。後でメラトニンの飲み過ぎとわかる。一錠か二錠飲めと書いてあったから、二錠飲んだだけなのに。
 
八月三十一日
 朝七時にホテルを出て、アルフレッド・マット・ファウンデーションと州立ヘルス・センターヘ。ここでハンセン病の新患を三人見られたので鈴木ドクターは喜ばれる。日本の医師たちは、ほとんど現実の患者を見られない。
 小柄なインディオのジュリアさんは七十六歳。三ヵ月前から麻痺と紅斑が出た。孫たちは左官屋さんをしているが、息子の一人はアルコール依存症で病院に行っていると言う。ハンセン病はすぐ治るだろうが、息子の病気の方が心配だ。
 その後で、アントニオ・アレイシオ・コロニーヘ。ハンセン病の後、重度の変形が残った人たちの老人ホームである。きれいな施設で植物も感じよく植えられているが、鼻が落ちてしまったような強度の変形は治しようがないかもしれない。ほんとうに気の毒だ。
 お昼はシスターたちの修道院に立ち寄り、マルミットと呼ばれる仕出しのお弁当を食べた。道端で食事をしている労働者も食べているアルミの容器に入ったもので、私がもらったのはクリマタンという河魚がちゃんと尾頭付きで一匹入っている。他にスパゲッティとフェジョン豆。こういう弁当は普通百八十円くらいだと言うが、これはきっと高級な部類だから高くて三百円はするだろう(後日、クリマタンは、五匹百二十円で売られていることがわかった)。
 午後、堀江神父が教えた神学生だったウドソン神父が率いる貧しい人たちの共同体「ヘモヴィーダ」(命のカヌー)へ。まだ二十七歳だというブラジル人の神父は、四万五千人に近い人たちを生かすために働いている。そのうちの千五百人は、元患者だ。
 政府が水を引かないから、神父は数十本の井戸を掘り、レンガ工場を経営し、マンジョーカの栽培と製粉を手がけている。貧しい家庭の家を建てるのを助け、船の修理を引き受ける部門も作った。箒の製造工場、木工場もある。学校へ行っていない子供たちの補習、アルファベティザシオンと呼ばれる大人のための識字教室もやっている。
「河のすぐ傍なのに、あそこから水を引くことはできないんですか?」
 と私は咳いた。その村はリオ・ネグロに面している。
「酸性が強くて飲料にならないんです」
 夜は堀江神父の修道院で、カレー・パーティーをした。持参のササニシキを炊く役目は文部省と時事通信。別に選んだ理由はない。視野の中にいた人に頼む。電気釜ではないのだから少しむずかしい。総領事も来られて、涼しくなった夜の気配の中で話が弾んだ。私の計算が悪くて、御飯の量を炊き過ぎた。最近の若者たちは、意外と小食。
 
九月一日
 日程表には「侵入区」へ行く、と書いてある。日本では聞かない奇妙な言葉。これは住民が一夜のうちに空き地に掘っ立て小屋を建てて居住権を作り、住民連合が仮の地権証を発行するのだそうだ。それが正義の戦いだ、という生真面目な青年が案内してくれる。「侵入区」にはもちろん舗装はない。それより驚くのは、電柱から無数に伸びた盗電用の電線である。車の屋根が、時々それに引っかかる。
 ヴァウジアーネさんという主婦を家に訪ねた。テレビと冷蔵庫はあるが、水道はない二間だけの、どこかから微かにおしっこの臭いのするバラック住まいである。彼女は二七歳。夫は三十一歳だそうだが、今定職がない。時々アルバイトのようなことをして、少し現金を持って来る。既に七人の子供がいて(何歳から産み始めたのか……)、今一人がお腹にいる。一人の子供は利発そうな顔をしているが、子供たちは誰も学校に行っていない。遠くて大変だし、三部制の授業の最後になると、途中に悪い人が待ち伏せしているので、危なくて通わせられない。しかも十一歳をすぎると、学校はもう受け入れない。
 だから子供たちは日がな一日、家のまわりでうろうろ暮らしている。シスターが時々、ミルク、米、粉、豆、安い魚などを届けてくれる。
 もっともこういう地区の中にも働き者の家族もいる。「天使たちのジョゼさん」という名前の十七歳の青年とその家族の住む家である。ブラジルの多くの家族がそうであるように、母はいるが、父の存在はない。彼の姉の一人が同居していて子供がいるが、やはり夫という人はいない。しかし「天使たちのジョゼさん」は働き者だ。千個で約一万円というレンガを買って来て、自分で積んでは部屋を増築している。そのドアのところには「ヴェンデセ・ジンジン」と書いてあるが、それはビニール袋に入れたジュースを凍らせたアイスキャンデーを売ります、ということなのだそうだ。
 午後の便でアマゾン河口のベレンへ。疲労で少し病人が出ている。どこかでスケジュールを抜かないといけない。
 
九月二日
 午前中、パラ州衛生局ハンセン病救護施設とアマゾニア日伯援護協会の厚生ホームなど訪問。Y・YAMADAという有名なスーパーの食堂でお昼をごちそうになる。一九六〇年、私は今の社長の父上に当たる山田氏にお会いした。素人とは言えないほどすばらしい画家であった。その絵の複製が、スーパーのあちこちにかかっているのを懐かしく眺めた。
 午後はアマゾニア病院と、アマゾン移住七十周年を記念した病院の新館増築現場を見る。総額二百三十三万ドルの仕事で、そのうちの百十六万ドルを日本財団が出している。
 夕方、テラ・フィルメ地区と呼ばれるどぶ川沿いに製材所の並ぶ貧しい町のコミュニティー・センターを訪ねた。と言っても、バラックのような建物。女性の先生は無報酬。ただ時々近所の人たちが少しずつお金を持って来てくれる、と言う。早々と麻薬の味を覚えた子供もいる。一軒の家を訪ねると子供はいても父親はいない。犬は多い。洗濯はしていない。泥棒だらけだというのに、一番通りに近い部屋の小さな鏡台の上に小銭が放り出してある、と同行者が観察している。不潔、雑然。油断がならない空気と暖かさの奇妙な混在の世界である。
 
九月三日
 同行者の疲労が激しいので、トメアス訪問を許してもらって午前中休息。午後の便で、サンパウロに帰る。
 
九月四日
 サンパウロ大学訪問。日本財団が「笹川ヤングリーダー.スカラシップ」にお金を出しているので、その運用状態を学生たちに会って聞く。建設省の泊さんと厚生省の鈴木さんにはそれぞれ土木建築学部と医学部を見学してもらった。
 奨学生たちはのびのびと意見を出してくれ、世界の「笹川ヤングリーダー・スカラシップ」の同窓会を開いてほしい、という提案もあった。奨学生がどんな人生を送ってくれるか、そのフォロー・アップの目的のためにも大変望ましい話である。
 午後、車で約一時間半ほど走って、サン・ジョゼ・ドス.カンポスの貧しい家庭の子供たちのための職業訓練センターを見る。美容室もある。料理教室では揚げたてのコロッケのようなものを摘まませてもらう。熱くておいしい。風は寒い。
 
九月五日
 サンパウロ空港のあるグアルリョスの貧民街で働く永山恵神父に再会した。神父は幼時に移民して来た一世だが、最近胃潰瘍になって働いていた名古屋からブラジルに帰ったばかりである。古びたシャツを着ていてとても神父とは見えないほど、町に溶け込み、町の人になっている。
 政治のこと、バン屋の訓練所のこと、ブラジルの最低給料が九千円だということ、それで生きていく人々について、私たちの質問は尽きない。神父はそれらのことがらを実に的確に説明していく。意志の強い秀才だ。
 特に印象に残ったこと。神父は自分では生きていけない百家族に、毎月二十五日に、粉、米、砂糖、塩などの生活の必需品を渡していた。家族の人数に関係なく、一包だそうだ。その費用は教区や支援者からも出るが、貧しい町の人たちにも、毎月第三日曜日に何か一キロ持って来させるようにしていた。もちろん一キロが無理なら、一握りでもいいのだが、貧しい人にも「与える」光栄を与えることを忘れてはいない。
 午後はまた二時間近くバスに揺られて、「聖アントニオ家」と呼ばれる親と暮らせない女の子たちの施設を訪ねた。宮崎カリタス修道女会のシスターたちの事業である。
 子供たちはすぐ私たちのうちの誰かと手をつないで、決して離そうとはしない。その客がいる間、その人を自分で独占したいのである。そして帰る時、私たちが裏切りをしたような白々しい眼で見る。
 夜はホテルで日本から持参したカップ・ヌードルで大宴会をした。
 
九月六日
 四時半起床。プロペラ機で、西のロンドリーナという地方都市へ行く。イグアスの滝のすぐ近くなのに、滝の観光をさせてもあげられないのを、私は罪悪のように感じている。
 ロンドリーナから少し離れたアモレイラの町でも、長崎純心聖母会のシスターたちが、子供の施設を経営している。七〇パーセントが未婚の母の子である。教会の前の広場で客を引いている娼婦の母もいる。
 男の子たちは、日本風に言うと一種の殺陣ともいえるカポエラという武道のダンスを見せてくれた。お礼にこちらも、農水省の下川さんと海上保安庁の筒井さんが相撲の型を見せることにした。一番で止めようとしたら子供たちは初めてほんものの日本人による相撲を見られたのですっかり興奮してしまい、もう一番アンコールをねだった。ところが、このお兄さんたちは八百長相撲で、「今度はボクが負けるから」などと大きな声で日本語で「談合」している。次に日本財団の町井さんが、ジャッキー・チェンばりに空手の型を見せ、子供たちを一人一人違った柔道の手でゆっくり投げ飛ばした。子供たちは大喜びだ。三人にはほんとうにいいことをしてもらった。父親の手も背中も知らない子供たちなのだから。
 飛行機三時間半遅れ。空港で仕方なくビールを飲み夕飯まで食べて深夜近くサンパウロのホテルに着いた。
 
九月七日
 四時半起床。眠い。
 今日でブラジルとお別れ。ボリビアのサンタ・クルスに向かう。空港で倉橋輝信神父他日系人の歓迎を受け、少し照れた。
 サンタ・クルスは人口八十万人。ボリビア、第二の町である。ここ数年のうちにスーパーマーケットもできた。しかしボリビアの景気はずっとよくない。去年の十月には不払いを理由に一時警察の電話と電気と水道が切られた。麻薬撲滅運動をやった結果、つまりボリビアにはお金が入らなくなったのである。
 ホテルはロス・タヒボス。ロータリーの向こうが、現大統領の私邸である。二人の息子を二人共事故で亡くした方と聞いているが本当だろうか、と私はまた考える。私なら子供を亡くしたら、もうすべてどうでもよくなって、今さら政治で自国をよくしようだの、権勢や名誉を得たいなどとは考えなくなってしまうだろう。
 今はこの国は春の盛り。風が吹き通ってタヒボスの花はボリビア桜のようであった。
 



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