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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 幸福の実感?豊かさが生む日本人の悲劇  
コラム名: 自分の顔相手の顔 200  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 1998/12/22  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   聖書の勉強を続けていると、時々はっとするほど珍しい表現に出会うことがある。
 その一つは「喜べ!」という命令形である。新約聖書だと「カイレー!」というギリシア語が使われている。
 その話をしたら、知人が「ほんとうにそう言えば、喜べ、なんて言われたことって、あんまりないわねえ」と感心していた。
 全くないわけではないと思うのは、「これくらいのことで済んだんだから、喜ばなきゃね」というような使い方をする時である。中年以後の人がお腹の不調を訴えて病院で検査を受けた結果、恐れていた癌ではなく、ただのポリープだった、というような時に、使うのではないかと思う。
 私はつむじ曲がりだから、聖書もつい私流に現実的に読んでしまうのだが、つまり当時のユダヤ人は、それほどひどい生活をしていた、ということだ。多くの人は荒れ野に住み、僅かな草を食べて生きる羊や山羊を追って暮しを立てていた。町に住む人間も常に乏しい水を求めていたから、井戸や泉は、劇的な出会いの場であり、紛争の種であった。
 しかし時たま砂漠や荒れ野に思いがけない雨が降る。僅かな雨を辛抱強く待っていた種は、そこで生き返って芽を吹く。砂漠は緑にうっすらと覆われ、砂の中で眠っていた小さな植物が華麗な花さえ咲かせる。地獄のような荒れ野が、突然、天国に変貎するのだ。
 「喜べ!」という言葉が、そこでは、まことに自然に人々の心に収まる。
 今の日本人は、喜ぶことがほとんどない。「喜べ!」などと言われると、「何を喜べって言うのさ」と腹を立てる。お金も物もあって当り前。足りないのが不満という図式である。それというのも、日本人は荒れ野と対極の豊饒の中にいるからである。
 時々私は雨の日に「これを砂漠の国の人が見たら、あまりにも不公平だって言って怒るだろうなあ」と思う。日本では天からただで真水が降って来て、その結果、草が生えて困る、などと私たちは文句を言うのである。湾岸付近の産油国では、石油は出ても、真水は海水から電気を使って作らねばならない。しかもそうしてできた水は恐ろしくまずい。
 砂漠の民は僅かな雨にも天国を見ることができるのに、豊かになると人間は手にしたものを幸福に思えない。日本人の悲劇はまさにそこにある。客観的には同情できない喜劇的悲劇だが、当人にとっては深刻な悲劇だろう。何しろすべてのことが、楽しいとも幸福とも思えない、と言うのだから。
 旧約聖書のイザヤ書は次のように言う。
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
  砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
  野ばらの花を一面に咲かせよ。
  花を咲かせ
  大いに喜んで、声をあげよ」
 思い上がった日本人が、幸福を実感するにはどうしたらいいのだろう。
 



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