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聖書の勉強を続けていると、時々はっとするほど珍しい表現に出会うことがある。 その一つは「喜べ!」という命令形である。新約聖書だと「カイレー!」というギリシア語が使われている。 その話をしたら、知人が「ほんとうにそう言えば、喜べ、なんて言われたことって、あんまりないわねえ」と感心していた。 全くないわけではないと思うのは、「これくらいのことで済んだんだから、喜ばなきゃね」というような使い方をする時である。中年以後の人がお腹の不調を訴えて病院で検査を受けた結果、恐れていた癌ではなく、ただのポリープだった、というような時に、使うのではないかと思う。 私はつむじ曲がりだから、聖書もつい私流に現実的に読んでしまうのだが、つまり当時のユダヤ人は、それほどひどい生活をしていた、ということだ。多くの人は荒れ野に住み、僅かな草を食べて生きる羊や山羊を追って暮しを立てていた。町に住む人間も常に乏しい水を求めていたから、井戸や泉は、劇的な出会いの場であり、紛争の種であった。 しかし時たま砂漠や荒れ野に思いがけない雨が降る。僅かな雨を辛抱強く待っていた種は、そこで生き返って芽を吹く。砂漠は緑にうっすらと覆われ、砂の中で眠っていた小さな植物が華麗な花さえ咲かせる。地獄のような荒れ野が、突然、天国に変貎するのだ。 「喜べ!」という言葉が、そこでは、まことに自然に人々の心に収まる。 今の日本人は、喜ぶことがほとんどない。「喜べ!」などと言われると、「何を喜べって言うのさ」と腹を立てる。お金も物もあって当り前。足りないのが不満という図式である。それというのも、日本人は荒れ野と対極の豊饒の中にいるからである。 時々私は雨の日に「これを砂漠の国の人が見たら、あまりにも不公平だって言って怒るだろうなあ」と思う。日本では天からただで真水が降って来て、その結果、草が生えて困る、などと私たちは文句を言うのである。湾岸付近の産油国では、石油は出ても、真水は海水から電気を使って作らねばならない。しかもそうしてできた水は恐ろしくまずい。 砂漠の民は僅かな雨にも天国を見ることができるのに、豊かになると人間は手にしたものを幸福に思えない。日本人の悲劇はまさにそこにある。客観的には同情できない喜劇的悲劇だが、当人にとっては深刻な悲劇だろう。何しろすべてのことが、楽しいとも幸福とも思えない、と言うのだから。 旧約聖書のイザヤ書は次のように言う。 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。 花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ」 思い上がった日本人が、幸福を実感するにはどうしたらいいのだろう。
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