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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 現代姨捨山  
コラム名: 夜明けの新聞の匂い 1998/09/09  
出版物名: 新潮45  
出版社名: 新潮社  
発行日: 1998/10  
※この記事は、著者と新潮社の許諾を得て転載したものです。
新潮社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど新潮社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   昨日私は、マスコミ、中央省庁、私の働いている日本財団の職員、の三者で構成し、世界の貧困を知るための二週間のアフリカの旅から帰って来たところである。去年からこの旅は始められたのだが、できるだけ苛酷な現状を体験することを目的としている。第一回目はマダガスカルとルワンダヘ入ったのである。今年も最初の予定はコンゴ民主共和国(旧ザイール)、ブルキナファソ、コートジボワール共和国の三国へ入る予定だった。多くの人が、それらの国がどこにあるか知らないと言うが、知らなくても当然である。新聞社の外信部でもよくわかっていない人がざらだそうだ。アフリカを人の横顔とすると下顎のあたりから喉のあたりにかけてある国々である。
 私たちの出発は八月二十二日の予定だったが、八月の初めからコンゴ情勢がおかしくなった。外務省が、少しでも危険な国へ邦人に入ってもらいたくないことは目に見えている。しかし過去に私は必ずしもその勧告を守っては来なかった。戒厳令が出ると、夜間十二時以後の外出が禁じられて行動が不自由になることもあったが、私はそうでなくても外国へ出ると夜遊びは一切しないので少しも困らなかった。特に夜でなければできない取材でない限り、夕食以後はまるで修道僧のように厳密に休息を取るのが仕事を続ける秘訣と心得ているから、今までのところもう若くはないのに、旅先で病気もせず、昼間居眠りもせず車窓からじっと周囲を観察できる状態を保って来た。戒厳令によって、こそ泥や掏摸の類が減ってもらうと、調査にはむしろ最適の状態になり、夫も「戒厳令が出てよかったな」と言ってくれる家風だったのである。
 しかし今度は、私は素早くコンゴに入ることを止める決断をした。首都キンシャサのホテルに弾が飛んで来るとは思わなかったが、停電、断水、食料の不足、小規模の道路封鎖、やたらに警察や軍に車を止められて書類を調べられることで行動時間が恐ろしく伸びること、電話の不通(これは何もなくても不通ということはよくあるから大した問題ではない)、マラリア地帯で野宿をしなければならない可能性も出て来る。ゲリラ的戦争というものは、通信機関と空港をいち早く封鎖するのが定石だから、その国からの脱出遅延または不能、音信不通になるのは目に見えている。私一人なら、一台のタクシーを雇い(こういう時に限って、一儲けしようというタクシーは必ずいて、隣国の同じ部族の親戚とコネをつけて、どこかへ脱出できる道が残されている場合は多い)、その途中で検問に遇ってもささやかなワイロで大事に至らずに済むこともあるのである。
 しかし十七人の食料と水を確保し、飛行機の席を取るということはなかなか容易なことではない。
 私がコンゴ民主共和国に入ろうとしたのは、そこに三人の日本人修道女たちがいたからだが、この人たちは、今回日本大使館が引き上げた後も現地に残った。外務省は、身勝手だとおカンムリだという情報も入って来ているが、彼女たちは初めから安全を望むのだったら、マラリアとエボラ出血熱まであるそんな国に入ったりはしていない。危険を承知の筋金入りである。彼女たちの決定は人生の哲学の上にできているのだから、外務省的な権限の外にあると見るべきだろう。シスターたちは八月十四日に私に当てた最後のファックスの中で、大使館には引上げの前に何度もいっしょに帰るように親切にお誘い頂いたのだから、と感謝しているし、外務省もそうした自由な人間の選択があることを認めて、それに馴れた方がいいと思う。
 そこで私たちは心を残して、残りの二カ国へ出かけたのだが、ブルキナファソではやはり昔からの知人のシスター・野間順子が元気で私たちを迎えてくれた。彼女は診療所で働いているのだが、彼女が連れて行ってくれたのが、首都ワガドゥグの近郊にあるモシ族の高齢者たちの、日本風にいうと姨捨山としての機能を持った施設であった。名前は「神のみ心に任せるタンガン・センター」というのである。
 彼女たちがここへ集まって来たのは、村人たちから魔女と認定されたからであった。そもそもモシ族は、死を自然のものとは思っていない。いかに高齢者であっても死は何かの結果なのである。それは呪いの結果であり、その呪いをかけた、とされた人は、殺されるか、村を放逐されるかどちらかである。病、老、死は、人間の罪の結果と考えた旧約のユダヤ教の思想と一抹似ているところもある。
 こういうことを言うと日本人は、すぐ「非人道的じゃないの」「そんな迷信をどうして信じるの」とか言うが、いいも悪いもその土地の人はそれ以外のものの考え方に触れたことがないのだから、そういうものだと思って暮らして来たのである。それはアフリカの土着文化の基本的な、そして歴史的な形である。つまり今なお多くのアフリカの土地では、民主主義などとはほとんど無縁の部族支配の体系の下に暮らしており、科学的な思考が社会に浸透しているわけでもない。私たちから見ると彼らの生活実感が理解できない程度に、彼らもまた日本人がどうして民主主義などというものに執着しているか、全くわからないであろう。
 そこで説明された「姨捨ホーム」に、彼女たちが来るまでの経緯は次のようなものである。
 部落で人が死ぬと、村長のもとに力のある首脳部の会議が開かれる。そこで呪術師が、その死の背後には、死者を怨み呪った人が魔術を使ったと見て、その人を絞りこむ。寡婦、子供を失った女性、などが魔女だとされることが多い。これは純粋に呪術師の判断とされているが、呪術師もまた村長の権力のもとにあることは明瞭であろう。
 しかしその底にあるのは、嫉妬だと言う。狭い村では、あらゆることが嫉妬の対象になる。家の大きさ、家族の構成、金や作物をたくさん持っているかどうか、町に行って成功したかどうか。それらすべてのことが、凄まじい妬みの対象になる。
 さらに村の男たちは多妻である。当然妻たちの間で、寵愛や子供を巡って、激しい嫉妬と権力の争奪戦が起こる。
 そこで憎い相手を殺してもらうよう、呪術師に頼む。アフリカではどこでも毒草の知識がある。いったん飲んだら、如何なる解毒剤も効かない、と言われる毒草もある、とマダガスカルで聞いたことがある。
 呪術師はさまざまな形で、死をもたらした人を決める。鶏の首を切り、その鶏が暴れながら走り回って息絶えたところにいた人が、呪術をかけた人となることもあるし、土器占いも多い。土器を投げてそれが壊れた時の形を読む。或いはカウリと呼ばれる海の貝を投げて、その姿から啓示を読むこともある。
 いずれにせよ、部落の中にはこういうことを行うことに必然を感じる二つの要素があるだろう。一つは村長制度にまつわる勢力争い、次が恒常的に存在する食料不足である。
 派閥争いのほうは説明を要しない。昔、トルヒーリヨ独裁政権時代、カリブ海のドミニカ共和国へ行った時、「政敵」が昼寝をしていると、なぜかよくその上に椰子の実が落ちて来て、頭を割られて死ぬのだ、という話を(嘘か本当かは知らないが)聞かされた覚えがある。
 満足に食べられないのだから、どこかで人減らしを余儀なくされる。誰を減らすかというと日本でもかつては姨捨であった。これは世界的に見て、むしろ普遍的にある考え方である。食料がなくなれば、若い人々に食べさせて老人は死んで当然だ、という考え方は、私も自分が老人になって来た今、はっきりと納得するようになった。もっとも制度としてこれを強制することには反対だが、多くの家族では、老人たちが自発的に子供や孫に食料を廻して、自分は死ぬ方に廻るだろう。日本にいると、一度もこういうことを考えないことが異常なのである。「弱い人を淘汰する」ということも今の日本では口にすることもない言葉である。それは「人権」に反するからだ。しかしそれは豊かな社会の考えだ。誰かが生きるには、誰かに死んでもらう他はないという社会は今世界中にいくらでもある。そのような状況では、常に「社会のお荷物」は棄てる他はなかった。部族を守るためである。余裕は一切ないのだ、「それ以外の名案があったら教えてくれるか」と言われるか「それなら食物やお金を送って救ってくれ」ということになるだろう。キリスト教は(決して他人には強制しないが)一つの態度を示し続けている。理想としては「友のために命を棄てる。それより大きな愛はない」という命題である。それができない、とわかる時、私たちは卑怯者の群に立つ自分を自覚し、少なくとも人道主義着だという体裁のいいことを口にするのを憚るようになる。
 未亡人が弱い、などということは先進国家ではあまり考えられない。「メリー・ウィドウ(陽気な未亡人)」という表現は外国製だが、全くよくできた言葉だ。事実私の廻りには、家事に無能だった(?)夫の世話から解放され、太って生活を楽しんでいる明るい未亡人たちがいくらでもいる。
 しかしもともと男手がないと、自分の家族が食べるものも手に入れられない社会なのだ。そこに女や子供だけが残されたら、村は更に苦しい重荷を背負うことになる。それでも幼い子供を持った未亡人を社会から追放するより、子供を失った女性を追放する方がいい、ということになる時もあるのだろう。
 しかしこうしてほとんどの場合、あらぬ罪を着せられた人の落ち行く先は悲惨であった。彼女たちは町へ出て物乞いをして生きて来た。しかしその前に打たれたり、家に火をつけられたり、毒殺されたりする人もいないわけではない。
 町で乞食をする他なかった人たちも、今ではここに「神のみ心に任せて」生きていけるセンターがあると聞いて、ここへ集まるようになった。年齢は三十五歳から百歳というが百歳というのは間違いなく嘘である。多くの人は、自分の正確な年を知らないのが普通である。
 センターには現在三百五十人もの女性たちがいた。見学者は構内に入る前に二つのことを厳重に申し渡された。カメラの撮影をしないこと。女性たちに家族のことや過去のことを聞かないこと。辛い思い出を忘れて立ち直るまでにずいぶん時間がかかっている。インタービューを受けることで、突然忘れていたそのことを思い出し、再びショックに落ち込む人もいたのだそうだ。しかし彼女たちの多くはモシ語しかできないから、私たちがへたなフランス語で質問しても、とても複雑な過去を聞き出すことはできない。
 この施設は一九五六年に出来た。土地も主な家屋もすべて寄贈されたものを市が管理しているという。ただしマネージメントというか、運営は、昔から世話をしていたカトリックの修道女たちに委ねている。見学には保健省の許可が必要であった。
 広い構内には四角い箱のような土色の壁に黄色いブラインドを嵌めた家が見える。池のような洗濯場、煙突の付いた料理用のへっついも見える。女性たちは主に戸外で手作業をしていた。ほとんどが、綿花を糸にする工程で働いているが、別にベルト・コンベヤーがあるわけではない。思い思いにコンクリートの床の上に坐って綿の種を取る人はそれだけ、糸を紡ぐ人は糸紡ぎだけを専門にやっている。彼女たちはここへ来ると、まず二百円から四百円程度の元手を与えられる。それでお小遣い稼ぎの道具をまず買う。綿紡ぎ用の長い糸巻きや、靴磨きの台に似た木製の台の上に金属の棒を転がして綿から種を出す仕組み一式を整える。
 胸から上は、何も着ていない人も多いが、これはこの国だけでなく、西北方にあるマリという国の田舎などでも同じようなトップレスが普通だから、むしろ健全で貧困の故の姿とも私には思えない。
 過去のことは聞かないけれど、私がしゃがみこんで仕事を見ていると、得意そうに道具を見せたりする。香料にする葉っぱや、コラという年寄りの好きな実を売っているささやかな商売人もいる。一包十中央アフリカ・フラン、つまり二・五円くらいの小売商である。全く働けない人にも二週間に一度六〜七十円のお小遣いがでるので、それでタバコやコラの実を買って嗜好品にする人が多い。
 同じような境遇の人たちがいるから、ケンカをすることはあるだろうけれど、少なくとも淋しくはない。食事は昼の一食は政府からただで出る。ミレット、ご飯などにオクラとトマトと唐辛子のソースを掛けたり、青豆が出たりもする。夕方のご飯は、糸紡ぎや畑仕事などで稼いだお金で自分で煮炊きする。そのために市場に行くことも自由だ。知らない人が彼女を魔女だと認識する標識はどこにもない。
 私は家の中も見せてもらった。中はただ倉庫のような大きな空間が続いているだけでただ一つの家具もなかった。ベッドもテーブルも椅子もない。蛍光燈があるにはあるのだが、つけていないので暗い。一メートル×一メートルの大きなサイズの区切りを付けた床板一枚、つまり一平方メートルが一人分の私物を置ける場所だと決められているそうだ。そこに、ホーロー引きのボウル、乾いた豆の葉、袋、ジェリカン、寵、寝る時に使うゴザ・箒などが山のようになっておいてある。荷物の山かと思っていると、その中で人が蠢いた。それが「百歳」のお年寄りだそうだが、百歳でない証拠には、耳も反応もいい。
 たいていの人は夜もそのむっとした臭気のする暗い空間には寝ないそうだ。暑いので、多くの人が星が降るような、月光が水のように流れるような戸外に寝るという。そこで彼女たちは昼間の喧嘩の結末がつかないことの方を重大に考えているか、それともセンターの名前の通り、「これが神のみ心」「これが人生」と淡々と思い、静かに神と語っている人がいるのかどうか。
 時々、そうして追い払われた母を見舞いに、息子が来ることもある、という話は僅かな救いだった。しかしそうなれば、訪ねて来ない家族を持った母はもっと悲しいだろう。何ごとも忘れることが最大の知恵だ。どうせ人はいつかは死んで人生を終わることができるのだから。
 ブルキナファソでは水の不足が農業の根本問題だと農業大臣は語られた。しかし首都ワガドゥグでは、毎夕のように凄まじい驟雨が大地を洗った。せっかく播いた種子と豊かな表土を洗い流す雨であった。
(九八・九・九)
 



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