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著者: 曽野 綾子  
記事タイトル: 地下鉄事故?人間の運命に真剣な思いを  
コラム名: 自分の顔相手の顔 319  
出版物名: 大阪新聞  
出版社名: 大阪新聞社  
発行日: 2000/03/15  
※この記事は、著者と大阪新聞社の許諾を得て転載したものです。
大阪新聞社に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど大阪新聞社の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。  
   三月八日の朝、地下鉄日比谷線の脱線事故があった九時少し過ぎから十時までの間、私の家は不安で辛い思いをした。
 秘書の一人から「先行の電車が事故で止まっているので、目黒駅廻りをしています」という報告があったが、彼女が一番先に気にしたのは、もう一人、一日おきに通って来てくれる別の秘書のことだった。電車は当然混乱しているだろうに、彼女の方からは「遅れます」という電話も入っていない。事故に巻き込まれたのだろうか、と私たちは心配で仕事を放り出した。
 彼女が十時少し過ぎに我が家に無事に着いた後の報告では……事故の少し後で、渋谷方面から事故現場に差し掛かった電車の中で、彼女たちは長く止められた。駅と駅との間なので、外へも出られない。彼女は自分をも含めて、視野の中にいた八人の乗客のうち何人がケイタイ電話をもっているかを観察して、時間をつぶした。事故の大きさもよく把握していなかったから、のんきなものだったのである。
 驚いたことに、実に八人中六人がケイタイを持っていた。「かなりのおばあさんまで持っていました」と彼女は笑っていた。しかるに、わが秘書は二人ともケイタイを持っていなかったのである。薄給のせいか、流行のものは避けるというこの家の空気にほんの少し染まったせいか、うちの電話が多過ぎると感じているせいか、二人とも電話が嫌いなのである。
 彼女が我が家に現れた時、私は安心で涙が出た。しかし事故で亡くなられた方たちの不運を思うと胸が痛む。いまさらではないが、人は決して「安心して暮らす」ことなど現世ではできないのである。何十年間と人身事故がなかった地下鉄で、初めての事故が起きたのだ。地震も火山の爆発もある。高速道路の上から、自動車が降ってくることもある。
 「老人が安心して暮らせる社会を作ること」など誰も決して約束しないことだ。それは人間の運命に真剣に思いを致していない証拠だ。
 電話と言えば、移動式が間もなく普通の電話の台数を抜く、という。私が作家として出発した頃、私は小説の注文をよく手紙でもらった。作家志望の人の家などには、電話がなくて当たり前だった。
 今は「いのちの電話」さえある。自殺する前に一言声をかけてください、ということだ。こういうシステムのために働いて下さる人にも頭が下がる。
 しかし電話がこれだけ普及しても、人間的に信頼して掛ける相手がなければ意味がない。見知らぬ相手に身の上相談をするより、普段から親しい友に相談に乗ってもらう方が自然だろう。悲しみを打ち明けられる友だちが一人もいない、ということの方が、その人にとっては問題である。しかし今の若書はEメールなどを使って、自分をほとんど出さずに交際をするのが好きなのだという。自分を見せずに、相手に近づくことも、慰めてもらうことも不可能なのに。
 



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