日本財団 図書館


国民の意識変化に遅れている日本政府
 この一年で日本人の意識変化が鮮明になった。
 
 第一に、共同体精神が復活した。
 日本では、昔から「共同体精神が失われた」ときは必ずあっという間に復活する。今や共同体精神に基づかない議論には、世論の支持が集まらない。そこでメディアは、意見を変えた。外国も日本における共同体精神の復活に気がついて、一部の国は日本への対応を変えた。日本人が一つに纏まれば恐いことを、日本人以上によく知っているからである。この現象を外国では「日本におけるナショナリズムの復活」と表現している。
 
 第二に、一人一人が自分の言葉でしゃべり、発信するようになった。
 自分の言葉でしゃべる人が評価されるようになったので、自民党では安倍幹事長を選挙の顔にした。若者の世界ではだいぶ前から発信力が問われていて、例えば、大学入試の和文英訳では「以下の日本文を英文に翻訳せよ」というタイプの出題は激減し、「クラブ活動のメリット、デメリットを英語で述べよ」というタイプが主流である。先ず何を言いたいかが問われる。
 
 第三に、日本の現実に即して考えるようになった。
 アメリカ経済学は過去のアメリカ経済から生まれたもので、今の日本には当てはまらない。そこに日本人は気づいて、ビジネス書や経済書は売れなくなった。新聞も、アメリカ経済学の試験を受けて入社した人たちが書く経済記事は読まれなくなった。そして本屋では、武士道やユダヤ人に関する本が店頭を賑わしている。
 今は地方分権の議論が盛んだが、分権が実現したら、自治体は第一に産業を呼び込み、第二に自力で税金を取って自立しなければならない。そのとき、自治体職員には経済学や財政学でなく、産業振興のためにはユダヤ精神、徴税円滑化のためには武士道精神が参考になる。地方分権は武士道とユダヤ人の勉強から始まるのである。
 
 このように、日本人の意識が大変化したのは、なぜだろうか。
 「日本経済は過去十年間停滞の時代であった」と言われるが、経済停滞時代は文化創造の時代でもある。文化創造が終わると文化普及の時代になり、経済は再度繁栄の時代を迎える。そして、まさにこの一年が転換の年であった。
 
 二十一世紀の世界は軍事力とテロの時代だが、その一方では経済と文化の時代で、それには日本が断然トップの力を持っている。
 日本の経済力がトップなのは、その勤労観によるところが大きい。また共同体的な社会観がその原因として大きい。日本には千年も昔から「皆で仕事をして皆の役に立つ」という勤労の思想がある。「ハタラク」とはまわりの人が楽になるのだという説明がある。「ハタ」とは周辺という意味である。
 日本の文化がトップなのは、外国に侵略されることがなく、イデオロギーの強制を受けず、自ら好きなモノを好きなだけ受け入れ咀嚼して、創造的に文化が発展してきたからである。フランスの印象派の画家達は、日本の絵画に宗教のしばりがなく自由に思うままに描かれていることに衝撃を受けた。
 
 日本国民は、世界トップの経済力や文化力を自在に使っているが、それは世界を変える力をもっている。たとえば、粗野な商品は主婦が買わないが、そうした日本の輸入力は相手国の産業を変える。文化でも、日本のまんが・アニメは世界に広がっている。ピカチュウで育った外国人はその国の伝統文化を変えてゆく。
 
 しかし日本政府には、日本の経済力、文化力を「武器」として行使する意思がない。日本は五十三兆円を輸出し四十三兆円を輸入していて、これはいつでも武器として使えるが、相変わらず「国際社会で日本は無力」との前提をおいて、外圧を日本国内に取り次ぐのに汲々としている。政府は日本人の意識の変化に遅れているのである。
 今や、日本人一般が行政に求める構造改革は、
(一)共同体の利益を守ること(=国益の自覚)
(二)官庁用語で考えないこと
(三)理想より現実で考えること
の三つになっている。
(二〇〇三年一二月「突破力」)
 
ゼネラリストの効用
 日本では「一芸に秀でる」はプラス・イメージのことばである。
 人に秀でるのは大変なことで、たとえ一芸でも人に優っていることがあればたいしたものだという意味らしい。
 
 そこで先生が子供に言う。
 「まず、一芸に秀でた人になりなさい」と。
 子供の方はどうして一芸に限るのかと不思議に思って聞いているが、それは、一芸だけでよいという意味なのか、それとも二芸、三芸に手を広げるのは後にしなさいという意味なのか――である。
 もしも子供がそういう質問をしたら普通の答は、「まず一芸に秀でてからにしなさい」である。
 そこで子供が努力してある程度の結果を出し、成人したとする。そこでさらに新しいことに手を広げるかというと、それは場合による。
 
 広げない場合を言えばまず「慢心」がある。自分は一応のことは成しとげたと思ってまわりを見下ろすので小成に安んじてしまう。
 そのときある程度の地位か収入が得られていればなおさらで、新分野へ挑戦する好奇心や積極敢為の精神がなくなり、自ら「安心」してしまう。
 そしてその人も後輩に対して「まず一芸に秀でなさい」と説教するようになる。それには集中と専念が大切だと説くので勢い、レオナルド・ダ・ビンチや平賀源内のような万能才人はお手本から落ちてしまう。
 たいして努力もせず、専念もせずにつぎつぎと手を広げてしかも成果を出す人は実際にいるのだが、そういう人はあまりほめられない。
 
 戦後の日本は民主教育や平等教育の成果だと思うが、ともかく一芸礼賛の社会になったので、一芸に秀でた専門家はたくさんいるが、それらを総合するゼネラリストがいない国になってしまった。
 科学教育のせいもあるだろう。
 「科学」は細かく分けるという意味である。医学の世界で言えば、外科、内科、小児科の科で、人間科とか病気科というのはない。
 行政や政治の世界もそうなって族議員やタテワリ官僚はいるが、日本国全体を考える大政治家がいない。
 国民の方も科学教育の弊害で細分化信仰になり、細部の専門家を無条件に尊敬するようになっている。
 
 そんな日本になってもう三十年も経過した。幸い国内・国外に大問題がなかったから今までは良かったが、この数年は大問題続出で、大所高所からの総合的思考や判断を求める声が高まっている。
 しかし、それに応える人材がいない。
 大型のリーダーを待望する論はあるが、もしも誰かが名乗りをあげると、その人は必ず足をひっぱられて潰されることになっている。
 
 これは、そもそも「ゼネラリスト」の効用を知らないからで、スペシャリストやプロフェッショナルばかりを礼賛してきた結果である。
 ゼネラリストとして日本人がイメージするのは器用な万能才人かまたは温和なバランス屋で、それは「積極的には何もしない人」とか「無能な人」とかの印象に通じている。
 
 しかし、欧米でのイメージは違う。
 ゼネラリストは何十もの専門分野に通じて、しかもそれを越える発想や見識をもつ人のことである。そういう天才や英雄はこの世にいると彼等は思っているので、子供に対しても飛び級があるし、育英制度がある。また、成人に対しても大抜擢や全権委任の習慣がある。
 欧米ではそういう社会になっているから子供も自ら発奮し努力して、自分の潜在能力を開発するのである。
 その結果、誕生するゼネラリストがリーダーになって多数のスペシャリストを率いている。
 その人は一芸に限らず、いくつもの芸に秀でていることがあるし、また、何の芸にも秀でていないが、ただ一つだけ総合判断力やリーダーシップに秀でているということもある。
 
 その昔、カーター大統領を評して、
「彼は優秀で努力家で五十二の分野でその道の専門家と対等に討論できるだけの知識をもっているが、借しいことに彼はそれぞれの重要性の比較ができないのだよ」
という悪口があったが、その意味は、「それが大統領の任務なのに・・・」である。
 今の日本にもあてはまる話だと思う。
 
 個々のスペシャリストを越えるゼネラリストの存在を認め育成したり登用したりする日本になろう。
(二〇〇四年一月「総合力」)


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION