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5. 離婚を選ぶとき
1)離婚手続き
 DV被害者にとって、「DV=離婚」では決してありません。離婚という選択肢を選び、解決へ向かう被害者の例を見ると、支援する側は、ついその事例を他の被害者にも当てはめて、先回りをする状況に陥りがちですが、離婚は、DVを解決する有効な手段の1つに過ぎないことを、きちんと認識しておく必要があります。
 もちろん、どのDV被害者も、最初から離婚を意識して結婚生活を送っているわけではありません。被害者が、積極的に離婚について考えていたり、判断の材料が欲しい、という場合には、離婚手続きや離婚後に受けられるさまざまな社会制度について、正しい情報を提供することは、支援者の重要な役割です。
 日本では、離婚する場合、次の4つの段階(手続き)のいずれかで成立することになります。
 
(財)女性のためのアジア平和国民基金『夫やパートナーからの暴力対応マニュアルI&II』に掲出されたものを加筆修正
 
 DV関係でなくとも、離婚は、結婚するとき以上にエネルギーがいると言われています。夫がDV加害者である場合はなおさらです。彼らは、妻を自分の所有物、あるいは、自己の一部、ととらえていることがほとんどであるため、話し合い(協議)で離婚に応じることはまずありえません。日本では、「調停前置主義」がとられているため、裁判の前に必ず調停での解決を図ることになります。DV関係にある場合、調停を被害者側から申し立てることが多いことは確かですが、夫側から起こされることもあります。そうした場合は、夫側が反対に慰謝料を請求してきたり、子どもの親権を主張することがまれではありません。
 調停は、男女2人の調停委員が、双方の言い分を聞き、合意に向けた条件の調整が試みられます。被害者1人で調停に臨むことも可能ですが、被害者の不安が大きい場合、また、相手方が弁護士を立てて子どもの親権を主張してきている場合などは、被害者側も弁護士を依頼することも一案です。経済的に弁護士費用の負担が厳しい場合には、法律扶助の制度を利用することも可能です(日本司法支援センター=法テラスが窓口)。調停が合意に達すると「調停調書」が作成されます。裁判の判決と同等の効力をもつ重要な書類となります。
 調停が不調となった場合でも、裁判をするまではない、と裁判所が判断した場合、調停委員の意見を参考に裁判所が判断を下すことがあります(審判離婚)。しかし、双方の意見に隔たりが大きい場合には、裁判へと手続きを移行することになります。DVは、「婚姻を継続しがたい重大な事由」となり得るものです。離婚裁判となると、DV問題に理解のある弁護士に依頼することが良策です。支援する側も、弁護士とのネットワークを日ごろから作っておく必要があります。
 また、DV被害者の中には、敢えて離婚をせず、別居の形をとりながら、婚姻費用の分担を受けて生活する人もいます。被害女性の意思や加害者との関係を理解しながら、被害当事者が最も納得できる方法を選択できるよう努めていく必要があります。
 
2)子どもの親権と面接交渉
 DV被害者に子どもがいる場合、離婚手続きを進めようとすれば、親権の問題は必ずついてきます。アメリカの11の州では、DV加害者には、子どもの監護権を認めない、とする法律の規定がありますが、日本においては、そのような考え方はとられていません。「DVは犯罪である」という認識は徐々に広がりつつありますが、刑法上の犯罪には当たらず、DV加害者であるからといって、子どもの親権を失う法的根拠は何もない、というのが日本の実情です。
 前章でも見た通り、DVがある家庭の中で、子どもはさまざまな形で暴力に巻き込まれ影響を被ります。年齢や性別にもよりますが、父親と母親との間に挟まれた子どもが、いつも被害者である母親の味方になるとは限りません。また、子どもの親権が調停や裁判で争われることになると、どちらが親権者にふさわしいか、それぞれの精神状態や経済状態が、重要な判断材料となります。被害者が、どのような苦境にあっても子どもを自分で育てたい、と強く願っていれば支援者もその覚悟に寄り添い、全面的に支えていく体制をとっていくことが大切です。
 また、被害者にとって「親権」があまりに重大な問題であることから、「面接交渉」(子どもとの面接権)の問題がつい後回しになりがちですが、離婚手続きのなかで、「面接交渉」の条件も、できればしっかりと取り決めておきたいものです。離婚後も、父親が子どもに会い続ける環境を認めることは、母親も何らかの形で巻き込まれる可能性があることを意味します。アメリカなどでは、DV加害者が離婚後に子どもに面会する際には、監視者のいる「子ども面会センター」の利用を義務づけているところもあります。しかしながら、日本にはまだ、そうした施設も制度もありません。子どもだけを面会させれば、父親が子どもを連れ去ったり、新しい居場所を無理やり聞き出したりする危険性も否定できません。
 面接交渉は、子どもの権利です。父親が執拗に子どもとの面会を要求してくるときは、子どもが父親に会いたいと思うときまで、面接交渉の停止を求める調停を申し立てることも可能です。傷ついた母親を見てきた子どもは、自らSOSを出しにくくなりがちです。支援者は、そうした点に目を向け、子どもが心理的に安定する最も適切な方法を、被害者とともに考えていくことが必要です。
6. 自立支援に携わる
 DV被害者が、一時保護所やシェルターにたどり着き、安心したのもつかの間、一時保護所やシェルターの滞在期間は、どこもおよそ2週間を目安としています。もちろん例外はありますが、被害者には、その2週間の間に、次のステップに移る準備を整えることが求められます。
 DV被害者が自立を図るうえで、鍵となる項目は次のようなものです。
(1)住居
 DV被害者の多くは、それまで長年暮らしてきた住居を離れ、人間関係や身の回りの物などあらゆる関係を断ち切った中で、新しい土地で生活をスタートさせなければなりません。当事者の実家や親族が迎え入れるケースもありますが、夫の追跡が可能な親族の家は、決して安全な場所とは言えません。一時的な保護状態から出るには、次の生活地を決めなければならず、被害者にとって住居の問題は、時に大きな難問題となるところです。
 資金的に余裕があったり、親や親族の支援が受けられる場合には、民間のアパートに入居する方法もあります。DV防止法が施行されたのを受け、国土交通省は、2004年3月に各都道府県知事宛てに通達を出し、DV被害者の公営住宅への優先入居を促していますが、自治体により、対応の格差があるのが現状です。茨城県で策定された基本計画には、DV被害者の住宅確保について、市町村レベルまでの働きかけを実施していくことが明記されています。支援者も、積極的に運用を求めていくことを忘れてはなりません。
(2)就労
 就労への支援は、自立支援に向けた計画の中でも特に重要視されていますが、まだまだ被害者の自助努力に委ねられている現状があります。ハローワークヘの同行はもちろん、被害者のスキルや希望に応じて、公的な職業訓練に積極的につなげていくことが大切です。
(3)生活費
 就労を制限されていたり、生活費を渡されていなかったり、といった経済的暴力にさらされてきた被害者にとっては、就労が、即生活費すべてをまかなう状況になるとは限りません。子どもがいる場合、離婚が成立していなくとも、6か月以上別居が続けば、児童扶養手当の支給が受けられます。また、さまざまな条件が付されますが、収入や財産の状況によっては、生活保護制度の適用を受けることも可能です。被害者の勤労への意欲を落とさないように配慮しながらも、経済的な支援制度について適切な情報提供をし、時には、支援者が同行するなどして福祉事務所につないでいくことが大切です。
(4)子どもの就学
 DV状況下でのストレスに加え、友達と別れて新しい生活環境に入ることは、子どもに強い抵抗感をもたらすのが普通です。転校手続きがスムーズにいくように支援機関と公的機関が連携をとり、子どもが快く学校に迎え入れられる体制をつくらなければなりません。また、DV防止法は、母親とともに子どもも「接近禁止命令」の対象に規定しているので、学校側とも、十分に情報を共有しておくことが不可欠です。できれば、担任の先生にはこれまでの事情を話し、子どもの様子などを細かく報告してもらえるような関係をつくるよう、被害者に促すことも大切です。子どもは地域社会で育てるもの。支援者も「地域の社会資源」となって子どもの成長を見守りたいものです。
(5)医療
 DV被害者やその子どもが、夫の被扶養者であった場合、夫の保険証を使用して通院すると、夫に通院先などの情報が通知されることになり、新しい居所の判明につながるということで問題となりました。DV防止法の改正を受け、2004年12月、厚生労働省は地方社会保険事務局長宛てに通達を出し、DV被害者が被害の証明書とともに申告手続きを行うことで、夫の被扶養者から外れることを可能としました。
 しかしながら、医療の問題点はこれで解決したわけではありません。被害女性やその子どもたちの心の傷については、ほとんど有効な公的施策がないのが現状です。専門家による母子それぞれへの力ウンセリングなどが、適切な時期に無料で提供されるような制度づくりが待たれています。
 
 以上に述べてきた点は、被害者の自立にかかわるポイントの一部に過ぎません。「自立」は、DV被害者だけに問われている問題ではなく、社会に生きる1人ひとりに課された問題です。支援者がDV被害者とともに手を携え、力を分かち合う姿勢が求められています。
 
被害当事者の手記〜T・Wさんのケース
 私は見合いでDV男性と結婚し、8年間我慢して、子ども2人を連れて家を出ました。私は幼少から父の虐待を受けて育ったため、見合いなら幸せな結婚ができると信じていました。しかしその男性はDVでした。そして後から知ったのですが、しゅうともDVだったのです。
 夫の暴力は結婚1か月前から始まりました。ほんのさ細なことが原因です。結婚後は料理がまずいと言ってキレて、妊娠3か月の私の顔面(右目)を殴打、顔面を骨折しました。離婚を考え、実家に戻り堕胎しましたが、夫は自分が悪かったと土下座し、二度と暴力は振るわないと約束したので、その言葉を信じ、再び元に戻りました。
 夫は私が戻ってからしばらく静かにしていました。再び妊娠し、今度は妊娠6か月になるころ、キレて暴れだしたのです。「あの時の約束は何だったの?」と問うと、「信じて戻ってきたお前がばかだ。お前が悪いから殴ってやったんだ」とば声を上げました。その言葉を聞いて、やはりDVは治らないと確信しました。
 その時点で離婚すれば良かったのですが、妊娠中で堕胎もできない時期にあり、仕事も辞めさせられてしまった私には、DV夫との生活を我慢し続けるしかなかったのです。その後も夫は私に対する暴力や暴言を日常的に行い、生まれてきた子どもに対しても、自分の機嫌次第で虐待するようになっていました。
 いま私は2人の息子を育てています。子どもたちは父親の虐待を受けて育ち、特に長男は体の傷もさることながら、心に大きな傷を受けてしまいました。私も虐待を受けて育ったので、子どもの気持ちが痛いほど理解できます。
 DV夫との生活は、監禁生活といっても過言ではありません。現に、夫は私に対して、「お前は奴隷だ。俺の言うことを聞いていればいいんだ」といつも言っていました。自分の支配下に置かないと気が済まないのです。DV夫にとって妻や子どもは単なる玩具でしかないと身を持って実感しました。
 夫はストーカー気質で、避難している今も身の危険を感じおびえて生活しています。
 DV被害者の安全な生活を守るためにも、日本の社会、行政、警察、裁判所、裁判官、調停委員などがもっとDVに対する知識を高めてほしいと思います。
 
被害当事者の手記〜Y・Sさんのケース
 私が離婚したのは、まだ「DV」という言葉が日本でそれほど浸透していなかった1998年、長男が小学1年のときでした。
 私は、その9年前、家族の猛反対を押し切り、外国人男性と駆け落ち同然で結婚。まもなく、相手の国の実家で暮らし始めましたが、「自分で事業をやりたい」という彼の意思で、2年後、資金作りのために日本に戻り、東京で共働き生活を始めます。
 元夫からの暴力は、ある日突然起こりました。彼の友人が自宅を訪ねてきたときに、短い時間ながら家に入れたことが原因でした。「俺以外の男を、留守中に家に入れやがって」とどなりつけるや、こぶしが数発、力一杯顔面に飛んできました。気がつくと、私自身、台所の包丁を手に取り、「死んでやる」と叫んでいたことを覚えています。
 その後しばらく、暴力は息をひそめますが、長男が生まれると、彼の機嫌は非常に変わりやすく、私の行動に何かと制限をつけるようになりました。そんな時、一人暮らしとなった実家の父から同居の申し出があり、元夫は、その条件として父から資金援助を受け、実家近くで飲食業を始めます。
 “一国一城の主”ともなれば、イライラからも開放されて、前向きに働いてくれるだろう、という期待は、1年も経たないうちに裏切られます。子どもの目の前でも、さ細なことを理由に激しい暴力を振るわれ、顔や背中にあざが絶えなくなりました。
 「絶対離婚はしない、逃げたら必ず不幸にしてやる」と言われ続け、諦めと我慢がいつまで続くか、自信が消えかけていたとき、時代の風は、確実に私の元にも届きました。「夫の暴力が原因で離婚」という雑誌記事が目にとまったのです。
 それからです。相談した友人に力づけられ、離婚を真剣に考えるようになりました。そして、2年間の葛藤を経て徐々に気持ちを切り替えた私は、彼の仕事場に出向き「離婚して欲しい」と土下座をして頼んだのです。引き下がらない私の態度に、相手は渋々と離婚届にサインをしました。
 その後も、子どもが小学校を卒業するまで、元夫は「父親の権利」と称して、子どもに会いに来続けました。子どもが中学生になり、父親からの電話や面会を一切拒否するようになって、私は、初めて子どもの父親に対する憎しみを知ることになります。「子どもが会いたい、と言うまで、父親から面会に来ない」という条件で、面接交渉の調停を起こし、その条件のまま決着しました。
 その調停を機に、子どもは重圧から解放されたように明るくなりました。もっと早くに調停という手段を取ればよかったのでしょうが、職場や自宅への執拗な電話や嫌がらせに怯えていた私にとって、離婚から調停を起こすまでの6年間は、どうしても必要な年月だったのだと感じています。
 離婚の時、ピカピカのランドセルを背負っていた息子は、現在高校生となり、大好きな野球に打ち込んでいます。DV被害者支援にかかわる今、表になり陰になり支えてくれた仲間たち、友人たち、家族への心からの感謝を胸に、支援者としてのスキルアップに努めていきたいと願っています。


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