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●紙芝居、覗きからくりから絵物語、赤本からのマンガ家起用
 紙媒体を使った大衆娯楽として紙芝居があります。戦前の街頭紙芝居は、資料として、めぼしいものが見つかっていません。戦争中は、国策紙芝居が非常にはやりまして、大体450点制作されています。子どもたちとか、庶民に何かを訴える場合に、国策宣伝用の紙芝居というのを流すのが、とても有効だったわけです。それくらい戦前は紙芝居があった。
 紙芝居は、もともと立版古(たてばんこ)と、錦影絵という、江戸の末期からはやったものにルーツがありそうです。立版古というのは何かというと、歌舞伎の舞台をそのまま立体の紙のおもちゃにしたものです。大人を対象にした紙媒体の大衆娯楽です。錦影絵は幻燈の一種です。アニメの江戸、明治版という人もいます。覗きからくりも、すごくはやりました。
 これらが合わさって紙芝居が生まれ、雑誌の時代になって絵物語になります。紙芝居の絵の裏に書いてある説明文を絵の横に持ってきて、表はこっちへやって、これは昭和10年代の前半からもう登場しています。街頭紙芝居がそのころから相当はやっていたということは証明できると思います。戦後は「黄金バット」や「少年王者」のようにやっていた紙芝居を取り込んだものが絵物語でヒットします。例えば、戦後、非常に人気を集めた雑誌「冒険活劇文庫」は、のちの「少年画報」のもとですけれど、当時人気の加太こうじ、永松健夫の「黄金バット」をメインに据えて、あとはほとんど絵物語です。戦後、小学館が経営困難になったころ、先々代の相賀社長は、紙芝居の人気を当て込んで絵物語本を出すアイデアを社内に提案します。ところが、小学館は、子どものための良質な雑誌や本を出す会社とされていましたから、社員の皆さんは「そんな紙芝居をうちでやるわけにはいかんでしょう」という反応だったわけです。相賀さんは「今そんなことを言っている場合じゃない、とにかくやろうよ」と言って作ったものが、集英社の「おもしろ漫画文庫」や「おもしろブック」です。集英社は、当時は個人商店として、小学館の中に存在しました。そして山根一二三の人気紙芝居をマンガ化した「孫悟空」なども出しました。紙芝居の人気作品をどんどんマンガに取り込んで、紙芝居の絵描きをマンガ家にしていったというのが、一つの大きな流れでしょう。
 もう一つの流れが、赤本マンガからのマンガ家起用です。
 手塚治虫先生は、大阪の赤本マンガからスタートして、デビュー作品は「新宝島」です。ところが、手塚先生が「新宝島」を持って東京の出版社を訪ねても、なかなか相手にしてくれないわけです。なぜかといいますと、東京の出版社というのは、いきなり新人を起用するということは当時してなかったのです。マンガ家を目指す人は、一つ通信教育、一つ誰かの弟子になる、一つカット描きから出版社に入り込んでいくというような大体三つぐらいのパターンで、いきなり手塚さんみたいに長編を書きたいといっても、相手にしてくれません。
 当時は、今みたいな新人募集もやっていませんし、「持ち込み歓迎」もやっていません。マンガのページもあまりありませんでした。戦前の子ども雑誌でも、マンガのページというのは全部あわせても20ページくらいで、あの「のらくろ」でも、1回8ページ。いきなり長編ものを持って行っても、おいそれと使ってくれるような情況ではなかったのです。しかも、戦後まもない時期は紙がなくて、大体16ページとか、24ページで雑誌は一貫していました。
 けれども、そのときに大阪では単行本で出しているものですから、ページものが欲しいわけです。そこにうまく手塚さんたちの存在は、はまったわけです。しかも、大阪の場合は、特に赤本の場合は、子どもたちの教育上の是非とかは、あまり考えて無くて、売れればいいという考えでした。とにかく子どもが喜べば、売れればいいということで、ずいぶん気楽にいろんなものを出していたのです。そういう状況下で、手塚先生は、大阪の赤本マンガの世界でたくさんの作品を書いて、子どものファンをつかんで行きました。その子どもたちが、今度は自分が読んでいる大手出版社の雑誌宛に「どうして手塚治虫は出ないのですか」というお便りを書いてくるわけですね。そうすると、編集者のほうも無視できなくなってきます。最初に「漫画少年」の編集部に、石田英助さんのインタビューをとるために、手塚治虫さんが大阪から派遣されてふらりと立ち寄ったときに、加藤謙一編集長は「ああ、君が手塚君か、あがりなさい」といって、上へあげたという有名な話があります。おそらく加藤さんは、手塚先生の名前は知っていて、目を付けていたのですが、どう連絡を取ったらいいのか分からなかったのではないでしょうか。東京と大阪が距離的にも、市場的にも、とても離れていたからです。手塚先生が自由に書けたというのも、逆にいえば大阪にいたからで、東京へさっさと行っていれば、東京のマンガのスタイルに合わせざるを得なかったと思います。
 昭和22年に「新宝島」を書いたところから、3〜4年の間は大阪でずっと仕事をしているわけですけれども。その間に長編マンガの自分なりの世界観のつくり方とか、見せ方などを試行錯誤していく機会があったわけですね。
 
 流通においても、マルチ構造があります。
 今、お話した赤本出版というものもそうですね。そして昭和20年代後半には貸本マーケットが隆盛となります。若木書房という、東京の貸本出版社があります。ここは鉄道弘済会向けに出版物を作ってスタートしましたが、貸本マンガ屋向けの出版も手がけていました。貸本屋は、全国に(主に都市部中心)推定約3000軒ありました。ということは最低3000冊、人気マンガは5冊くらい置くので15000冊は売れる構造になっていました。実際には、一番店、二番店、三番店というのがあって、貸本の棚がいっぱいになりますから、要らなくなった本を、安く仕入れてくる市が成立したのです。そういう中古の貸本が二番店、三番店に並ぶという構造もありました。赤本の出版社が、これは推定ですが東西あわせて100社くらいありまして、そこが貸本の出版も手がけていったようです。ここで育った描き手たちが、中央のマンガ雑誌を出している大手出版社にとってはイキのいい新人になっていくわけです。1950年代半ばに貸本マンガを中心に劇画ブームがあって、ここから新人として、さいとうたかおや楳図かずおが出ました。60年代前半の「少年マガジン」躍進の原動力になるのがこの人たちなのです。やがてその役目は月刊漫画「ガロ」や「COM」が担い、やがては三流エロ劇画誌というのが登場します。そこからも能力の高いマンガ家が出ています。例えば、石井隆さん、能条純一さんです。だから、大手の出版社は新しいマンガ家が欲しければ貸本屋から持ってくれば良い、月刊漫画「ガロ」で活躍してくれる奴を持ってくれば良い、なんていうことができた時代です。だから、描き手がいくらでも供給されているというのは、二重マーケットの利点だったのです。自分の出版社で育てる必要がありません。
 
●読者構造の変化
 昔はマンガの購買は親で、読者とは違っていました。ですから親の意思が反映されて、中学生になるとマンガを卒業させられていた。読んでいる子には親が「もう駄目だ」と言いました。10年前のアメリカは、それと良く似た状態でした。マンガというのは、親が子どもに買うものだから、大体中学ぐらいになると、子どもはマンガを読むことを止める。当時、アメリカ合衆国全体で、20歳以上のマンガ読者人口がだいたい15万人ぐらいだといわれていました。そういう風に、読者層を人為的に制限されるとマンガ市場には上限ができます。
 日本で読者が購買者になり始めたキッカケは貸本屋でした。貸本屋が利用できたのは、都市部の子どもですが、1冊5円くらいで借りられました。貸本屋の主力商品は、1955年頃から、それまでの大衆雑誌とか大衆小説からマンガの単行本に変りました。貸本屋向けのマンガがどんどん出回ってくるから、安く借りられるようになって子どもの小遣いでも読むことができるようになりました。余談ですが、この間、ベトナムヘ行って面白かったのは、ベトナムでもやはりマンガ読者の3分の2が貸本屋を利用しているということです。韓国も1970年代後半の、マンガブームの時には貸本屋が主要なマーケットでした。
 高度成長期には、子どものお小遣いが増えていきました。1959年に創刊された「少年サンデー」や「少年マガジン」が、定価30円で月4回出ますから120円。当時の5、6年生のお小使いが100円ぐらい、もらってない子も多い時代ですから、ちょっと自分で買うのは厳しい。62年ぐらいから売れ始めるわけですが、だいぶ子どものお小遣いも増えまして、2誌買うのは無理だけど、1誌買って、友達と交換して読むぐらいのことは、だんだんできるようになったということでしょう。
 一方、出版社は、子どもが小学校の高学年から中学生になってきて、マンガをやめてしまうと困るわけです。そして小学校高学年、中学生をメインターゲットにして少年週刊誌を創刊したわけです。また、「マーガレット」という少女週刊誌の場合は、創刊号を全国の主な小学校の6年生の女の子にタダで配りました。会社を挙げての戦略として、小学校6年生の女の子にこれを読ませるということをやっているわけです。
 次に、62年くらいからはマンガのページがどんどん読み物のページを押し出していきます。ここで1947年生まれの子どもたちの成長とマンガ雑誌の動きを見てみます。彼らが12歳、小学校6年生から中学校1年生の頃、59年に少年週刊誌が登場し、15歳、中学3年から高校1年の頃、少女週刊誌が出ます。16歳の時にテレビアニメ、「鉄腕アトム」の放映が開始され、19歳の頃、「週刊少年マガジン」が100万部突破します。ここが大事なのです。親が買っていたら中学校でやめるはずのマンガを、自分で買えるものだから、ダラダラ買って、とうとう大学生になっちゃった。すると雑誌のほうもそれに併せて中身を変えざるを得なくなってくるわけです。彼らを満足させるために、マンガの中身も変えていかなければいけなかった。一方では、お色気も社会風刺もある大人のマンガというのも確かにあったのですが、そうじゃないマンガ、劇画的なものを出さなければいけなくなってきて、そこへ登場してくるのが、「巨人の星」であり、「あしたのジョー」だったのです。
 次に、彼らが21歳になったときに「漫画アクション」、「ヤングマガジン」、「プレコミック」、「ビッグコミック」といった青年コミック誌が出現します。もう少年誌の枠の中で、彼らをつなぎ止めておくのが無理だろうということになって、彼らのための雑誌として青年コミック誌というのが創刊ブームになったのです。
 一方で、71年になると、少年週刊誌の部数が一気に落ちます。150万部までいった週刊少年マガジンが一気に半減して70万部ぐらいまで落ちます。その原因は、中身が大学生を意識したむずかしいものになって子どもがついていけなくなったからだ、と言われています。最初にお話した「ジャンプ」のケースと似ていますね。
 その次に、彼らが30歳になった頃に、世間では「サラリーマンがマンガを読んでいる」という風に騒がれます。
 この頃になって、「少年ジャンプ」、「少年チャンピオン」という子ども向けの雑誌が台頭していまして、子ども用の雑誌で入門してきた人が、あるところから青年誌へ移っていく市場体系がだんだん出来上がってきています。
 77年、特記すべきことは、「ヤングジャンプ」の創刊です。団塊の世代はもう30代ですから、彼らを相手にして雑誌の年齢層が上がったために、少年週刊誌を読み終わった層との間が空いてしまったわけです。それをターゲットにして77年に「ヤングジャンプ」が出て、78年に「ヤングマガジン」が出ます。間を埋めたわけです。さらにその後、「ビッグコミックスピリッツ」が出ます。各社、上が伸びたら間を埋めるという形が、ずっと続きます。
 85年にはレディスコミックが創刊ラッシュになります。ちょうど団塊の世代も30代後半になっていますから、女性とか主婦とかOL向けを意識したレディスコミックが創刊ラッシュになります。一方で89年ぐらいからマンガの雑誌はだんだん部数が減り始めていきます。彼らは42歳になっています。子どもの教育費や住宅ローン返済負担が大きくなって可処分所得が減ったのかもしれません。
 1990年頃になって出版社のマーケティングは、団塊世代を追いかけていっても切りがないから、それよりも下の世代にポイントを絞ろう、いわゆる団塊ジュニア、いちご世代にシフトしていきます。中学生、高校生を一つのマーケット。高校生、大学生を一つのマーケット。20代、30代は一つのマーケット。この上はまあいいよというマーケティングに変わるのです。
 マンガ出版社のマーケティングが読者をつなぎ留めようとしたことによって、彼らの成長に合わせたマンガを作らざるを得なくなっている。これが、日本のマンガ市場が特殊な発展をした大きな原因ではないかと思います。マーケットが多層であることによって、新しいものを取り込むのが非常に楽だった。さらに本来親に買ってもらっている限りにおいては、途中で止めてしまうはずのマンガを中学校になっても、高校になっても、大学になっても、サラリーマンになっても、読者が購買者になったことで読み続けたという形ができ上がったことが、もう一つの大きな原因ではないかと思います。
 
●風船を膨らませるように市場が拡大
 団塊世代の成長に合わせることを、あまり意識して上へ上へと寄せすぎたことで、子ども離れしたという反省があります。山上たつひこさんの「光る風」などという、ポリティカルフィクションがあって、これはSFとして読んでもかなりレベルが高くて名作です。ところが小、中学生の子どもが読んでもあまり面白くないのです。
 子どもが読みたいマンガがどんどんなくなってきたから、子どもが読めなくなっていくという反省があります。マンガのマーケットというのは、「少年ジャンプ」の読者分布を見ればわかるように、子どもがボンと読み始めることが、一番肝心で、これが、どう減っていくかということが大事なのです。大体9歳ぐらいから読み始めて、12歳から19歳までがコアなのです。これが、なだらかに減っていく状態が一番いいのです。ところが、うちは大学生が読んでいるのだから、大学生向きでいいやということで作ってしまうと、子どもが面白くないのです。一番肝心な子どもが読み始めるこの部分を忘れてしまう。子どもは「ドラえもん」が一番いいわけですよね。
 団塊の世代だけがマンガ市場を支えたわけではありません。団塊を意識して説明しましたのは、市場の拡大を説明するときに分かりやすいからです。風船を膨らませてみてもらうと一番いいのです。風船を膨らますみたいに、真ん中から子どもがどんどん供給されて、外へと広がっていくという状況を想像してもらうと、マーケットの拡大が見てもらいやすいですね。だから、彼らが年取っていくごとに、マンガの市場というのが、風船玉みたいに膨らんでいると想像してもらえるといいわけです。
 だから、年齢が広がれば読む人が増えるわけです。ある世代だけが読んでいると市場も狭くなります。例えば「少年チャンピオン」の読者というのは、13歳から19歳ぐらいまでの、非常に高いとがった山みたいな状態ですけど。そうすると部数も少なくなる。それに対して、「ジャンプ」が300万部を維持しているのは、子どもの時に読み始めたのがゆるやかに減っているからなのです。今は、団塊の世代はあまりマンガを読んでいないでしょう。「ビッグコミック」の発行部数が80万部ですから、そんなものです。


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