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●源氏物語絵巻は少女マンガ
 「源氏物語絵巻」のシーンは少女マンガ的です。平安期の絵巻は宮廷の女性向けのメディアでした。少女マンガには台詞がなく、「恋人は一体どうなるのでしょう!」といった言葉を散らした心象風景のコマを多く見かけます。徳川美術館の「源氏物語絵巻」の「竹河」のシーンは蔵人少将が桜咲く壷庭をめぐって美しい女性たちが集まっているのを覗き見しているのですが、その視線を克明に追いながら描かれています。
 「竹河」のシーンを出現させている眼差しの主体は画面の右端の御簾の後ろに小さく描かれた少将で、詞書を見ると、「蔵人少将が友人の藤侍従の部屋に来ていた。けれど侍従は出かけていない。廊の戸が開いていたので、近寄って覗いてみると・・・」とあるだけで、禁断の盗み見のドキドキ感が伝わってきます。
 このシーンの遠近法が変っていて、少将が見たい所へ、見たい所へと視角が移っていきますが、少将が憧れる大君の顔は御簾に隠れ、その囲碁を打つ白い手の周囲は逆遠近法をとって強調されています。すなわち少将の盗み見の視線を、シーンの外から観賞する女性は仮想体験しながら、見られる画中の女性に自らを仮託して羞恥と快感を覚え、少将の心象によって強調された大君の手に禁断の恋を感じるというわけです。
 絵巻物は日本人の視線の特徴をよく現しています。それは絶対的な神のような存在があって、その世界観を一点に収束する遠近法で表そうなんて全く考えていません。シーンを見る人物の心象が移りゆくに従って、カメラが回り込んで映していくように描いていく。非常に複雑多岐な多焦点で複合的な心理遠近法を活用しています。
 筑波大学の中村英樹助教授が『アートジャングル』に、『源氏物語絵巻』の「柏木」のシーンを、我子を抱く柏木に焦点を合わせた定点カメラと空中を移動するカメラを想定し、画面の展開、構成を解説しています。その複合的で移動を伴う視角が、絵巻物を外部から見る人の心象を動かし、納得させる絵に仕上がっているわけです。
 このような絵巻のシーンには、1コマに視線の文脈を織り込み、視線の文脈によってたゆたうように見る人の心が動かされて物語性を感じる、実はこれは男性が苦手なのですが、現在の少女マンガが駆使する手法の原点があります。ちなみに少年マンガでは心理的な視線の文脈を分解し、いわば論理的なコマの展開にします。手塚治虫のコマ展開はその典型のようです。手塚ファンの80%以上が男性だそうで、女性は苦手みたいです。
 これはなんとも不思議な画像認知の性差です。
 
●「道成寺絵巻」に吹き出しがでてくる
 次は有名な「道成寺絵巻」です。すごく愛らしい美人の女性が山伏みたいな修行僧に一目惚れしてしまいます。ところが彼は修行の身ですから、女性に気を取られてはいけないので逃げ出します。すると女性が追っかけてきて、どんどん追っかける度に女性は蛇体に変身していきます。
 女性が変身するたびに、詞書が画中に添えられて、「あなたをどこまでも逃がさないないわ」と、台詞が入った部分などはかなりマンガの吹き出しに近いものになっています。最後は修行僧が道成寺の鐘の中に隠れ、龍蛇に変身した女性が鐘に巻きつき、修行僧は非業の死をとげ、龍蛇は鐘を抱えて日高川に沈んでしまいますが、道成寺の本尊の功徳によって成仏し、二人があの世からお礼に来るという結末になっています。日本人はこういうアニメ的な連続変化の表現が大好きです。
 
●絵巻物を段組に切って編集
 絵巻物はシーンに連続的な視線の展開が起こるのを利用して、動的なイメージを実現していたのですが、視線の文法が失われると分かりにくくなります。そこで絵巻物のシーンを平坦化して段組にし、段ごとにまとめていく手法も現れます。
 室町時代に描かれた「聖徳太子絵伝」(本鐙寺)は聖徳太子信仰を盛り上げるために絵巻物の絵画を段状に編集し、掛軸にした視覚メディアで、十本一組になっています。これは語りに合わせて、上から下へ、起承転結の4段で追えるので理解しやすい。屏風仕立ての「地獄図譜」は、各種の地獄を紙芝居のように平板な調子にして、二曲屏風に展開しています。これを見開きページに構成すると、今のコマ割りのマンガみたいです。
 こうした段組のメディアは、貴族が1人で見るメディアから庶民の男女が集まって語りを聞きながら見るメディアヘの変換によって現れたもので、中世から幕末まで、このような段組で構成されたヴィジュアル・メディアが持続しました。
 「伊勢物語図色紙貼交屏風」(サントリー美術館)は絵巻の絵画部分を段組にしたものをイラストにまとめて、朝顔の垣根の下地を描いた屏風の上に配置したものです。伊勢物語の各段を集約的な、象徴的なシーンに描き、それを自由に並べて、どこからでも楽しめるようにしたわけです。屏風に貼られたいくつものシーンから『伊勢物語』が再生され、この屏風でほとんど『伊勢物語』は語れるということになって、持ち主が自慢するわけです。京都の祇園祭に行くと、いろんな種類の貼交屏風が出てきます。「源氏物語」の屏風では全帖のシーンが貼り交ぜになっているものがあります。
 
●平安時代以降のリアリズムから本の形式へ
 平安時代が終わり、12世紀末になると源平の大争乱が日本中を焼き尽くし、死体がその辺にゴロゴロ転がっているような時代になりました。そうすると目が非常にリアルに変わってきて、似せ絵が出現します。これはポルノグラフィーであり、見てはいけないとされていたものを見るようになったわけです。ポルノグラフィーとはエロではなく、見たり考えたりすることが禁止されたタブーを破って暴きだすことです。
 似せ絵の達人、藤原隆信が描いたと伝える「伝源頼朝像」(衣服から足利直義像ともされる)や「伝平重盛像」(神護寺)などを見たアンドレ・マルローが「この時代にこんなリアルな肖像画を日本人は描けたのか」と言って感嘆しました。そのくらい日本人の目がリアルになったわけです。当時の宰相、九条兼実が日記『玉葉』に、1173年、最勝光院の障子絵に後白川法王の御幸に従う人々がリアルに描かれ、「自分は行かなくて冥加なことだ」と書いています。そっくりに描かれるような恥ずかしい目に合わなくてよかったというわけです。宮廷に絵描きが待ち構え、参内する人たちがリアルに描かれるようにもなる。「公家列影図巻」では、服装は決まっているので、顔だけがリアルに描かれています。すると「今度の天皇陛下、丸顔で」とか、「今度の太政大臣は赤っ鼻で」みたいな噂が拡がるわけです。
 こんな個性を噂することは平安時代には許されず、高貴な人は引目鉤鼻という無個性に描かれました。だから顔や容姿をリアルに描れたり、それを見ること自体がポルノグラフィーで、恥ずかしかったのです。ところが、そのタブーが破れて、描かれる方がもっと個性的にリアルに描いてくれと言う様になると、肖像になるわけです。
 この見てはいけないものを見たいという欲望から、「勝絵」というポルノ絵巻が登場します。鎌倉時代に出現したのですが、室町の模本が多い。女陰が災難除けになるという俗信があって、武家が戦争に行くとき、その絵を所持すると弓矢、刀槍を避けるとされ、合戦に勝つ絵で「勝絵」といったそうで、いわゆるポルノ絵を「勝絵」と言えば、弾圧されないだろうというわけです。
 「勝絵」の定番は男女のセックス勝負をリアルに描いた絵巻物で、宮廷で男女対抗セックス勝ち抜き戦が展開し、勝ち残った男女がもの凄い技を駆使し、ついに女性が勝って天皇に誉められ、「やっぱり女性は強い」という落ちになっています。「勝絵」は幕末までポルノ絵を意味しますが、明治以降、兵隊さんのお守りに先祖帰りしました。
 この時代はアートの規制が利かず、「烏滸絵」(おこえ)という絵画も出てきます。「烏滸」は歌舞伎の台詞に「言われて名のるも烏滸がましいが」というように、でしゃばりという意味で、本来は画家が描かない絵のことです。とぼけた絵、笑わす絵、無意味な絵、批判の絵、カリカチュアなども含むジャンルです。これは後世のマンガにとって重要な先達となりました。鳥羽僧正の「鳥獣戯画」は「烏滸絵」の名作で、仏をカエルで描いて仏教をコケにしたり、ウサギは雪の上を滑らせたらうまいだろうとか、サルは高飛びだとかいう無意味な機知や笑いを誘発する表現になっています。なお、この豊かな動物の擬人的表現はマンガやアニメに受け継がれます。
 それから室町時代に、「本」というメディア様式が現れ、「奈良絵本」という絵本が出現します。これは絵巻物の絵を切ったものを、物語の文と交互にブック形式に綴じたものです。奈良の寺院が経典を出版していたのですが、酒呑童子や一寸法師などの庶民が好きなお伽話を絵と文をまぜた本にして売ろうとしたんです。
 最初は絵巻物でしたが、ジャバラのようにビローンと広げられる経典式になり、文宇の部分と絵の部分が切り分けられました。それは紙がかさばって順番が分かりにくいので、本形式が出現します。本が出現すると、ページをめくるという動作が出てきて、新たな情報の分節が発生したわけです。あるページを読み終わると別のページに行くとか、あるいは飛ばし読みするとかいうことが可能になりました。
 だから当時、絵巻物に慣れた脳の働きと本をめくって読むために要求される脳の働きは違うので、はじめは本を読むのも大変だったと思います。これは非常に大事なことで、恐らく今のマンガもそうですが、本というハードウェアの開発によって見開きページで情報を分節して見るという新しい脳の働きが生まれたわけです。
 
●博物学の絵解きからマンガ的発想へ
 そこに博物学がでてきました。博物学書には、物を描いて解説やそれにまつわる話、効能書きがついています。日本の博物学は鎖国のせいで発達しました。基本的に外国から輸入しないのですから、国内の物産を調査し開発する必要があったのです。
 もともと中国の万歴帝の時代に(朝鮮半島で秀吉が戦っているころです)、中国が強くなるには博物学の強化が必要だというので、李自珍に『本草綱目』を編さんさせたのですが、日本はそれをワンセット輸入して上手に日本版にしています。
 本草学者の稲生若水が幕府の要請で『本草綱目』を補う『庶物類纂』(しょぶつるいさん)という博物全集を作り、日本の物産を網羅した図典がいろいろ作られていきました。これをベースに多様な物産情報を精緻化して流通させ、人が興味をそそるように物語化したり、画像化するようになり、そこに新たな価値が生み出されます。宝暦8年(1758)、大阪の道頓堀で外国産の珍鳥の見世物が大当りし、外国の鳥類解説書『奇観名話』が出版されています。このようなイベントが総合されながら、博覧会が整備されはじめ、宝暦13年(1763)、平賀源内が東都物産会の絵入カタログ『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)をつくったのが元で、多様なカタログや商品パンフレット、絵入りの技術解説書が登場します。ここにイラスト、挿絵、図解などが発展し、文学や芸能なども巻き込んでいきます。
 例えば、俳句の季語の図典が出版されます。『誹譜名知折』(はいかいなのしおり)を見ると、例えば季語の綿の花の見開きを見ると、それが精密な線画で描かれ、綿の花の名句がピックアップされています。俳句は体験性を生かして詠むので、これは優れた絵入りの生活事物事典です。それに俳画というのも、ちょっとした1コマ漫画的です。これらは情報を画像的に理解し、身近にまで持ってくる引用力、理解力を非常に高めたわけです。
 さらに江戸で狂歌が盛んになると、狂歌を画像的に絵解きする狂歌絵本が現れます。歌麿は禽獣虫魚の狂歌を集めて、彩色版の四部作を出版しようとして、虫部「絵本虫撰」、魚部「汗干のつと」、禽部「百千鳥狂歌合」の三部を世に出しました。ことに「絵本虫撰」は虫を題材にした狂歌に、従来の浮世絵にない肉眼では見えない虫たちの細部まで描き添え、しかも酒脱に満ちています。これはレンズが普及して細かいものが見えるようになった目の革命が影響していました。
 こうした情報装置の発展はSF化されています。18世紀末の三東京伝の『人心鏡写絵』(ひとごころかがみのうつしえ)では、何でも映し出す鏡(空想的なのぞき眼鏡)が開発されると、心の中まで写るようになる。すると綱渡りする芸人が落っこちないかという心配が見えるとか、遊女と客の違った思惑が見えるとかいうことが、吹き出し的な台詞や状況図を絶妙に交えて表現され、読者を大笑いさせたわけです。
 こういった馬鹿馬鹿しいけれど、洒落れた笑えるページが連なる和綴本が次から次に出版されました。これが「黄表紙」です。しかし黄表紙は悪ふざけが過ぎるというので、寛政の改革で発禁となり、読本時代に移行します。読本は幕府が許可する武勇や忠義を題材に歴史に典拠を置くよう定められました。これに対抗した江戸の戯作者は幕府が出した条件をクリアしながら、奇想天外な絵入りの伝奇物語とでもいうべき読本を作り出したのです。滝沢馬琴は葛飾北斎と黄金コンビを組んで、物語と挿絵を相互参照的に解き進める独自な読本を確立します。その代表作が『南総里見八犬伝』です。
 この葛飾北斎はマンガという言葉のルーツになった『北斎漫画』(1814年、初巻刊行;全15巻)を世に出しました。漫画の「漫」は漫遊記の「漫」で、漫画とは気の向くままに脈絡も気にせず、筆のおもむくままに描いた画という意味です。通常、マンガはストーリーに沿って描くのですが、ストーリーを決める前の自由が北斎の漫画です。ストーリーを組み立てたら、もう自由を捨ててシーンを特定しなくてはなりません。その前に自由な素材をたくさん作っておくことが多様な発想を生み出すというわけです。
 『北斎漫画』は、江戸時代の身体表現、感情表現から興味の対象、知識の対象までを網羅した大百科図鑑、絵解きデータ全集みたいなものでした。そうしたデータベースをたった一人で作ったのですから凄かった。これは1830年代にヨーロッパにもたらされ、フランス印象派の絵画など西欧の絵画にも多大な影響を与えたのです。なお、北斎は波の瞬間を描くことができました。複雑系を研究する先端的な科学者はダヴィンチと北斎だけが波を正確に描いたと評価しています。北斎の波は自由な漫画精神が捉えたもので、漫画はそういう自然への深い洞察をも孕んでいたのです。


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