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●マンガ空間と精神医学的解釈
 いままで取り上げてきたことは、マンガ空間というものが色々な方向に進化するにつれて、ようやく精神医学的な解釈にあてはまるような図像が出てきているということを言いたいがためです。倒錯がいい悪いではなく、倒錯的な空間としてはらんでいる性倒錯的な空間です。1つの通常の事柄から外れていく嗜好性をもっているのがマンガ空間だと言いたかったのです。
 今は、なかなか手に入りませんがコンタロウの『1・2のアホ』というマンガはある意味で記念碑的なマンガだと評価しています。このマンガ以降、初めてキャラクターがギャグを演じてそれをシニカルなキャラクターが解説するという形式が始まりました。画面の中で読者に向けてツッコミを入れるのです。このフォーマットは、それ以降とり・みき、江口寿史とかいろんな人が引用して、当たり前の形式になっていますので起源は分からなくなっています。ギャグマンガの中でギャグを演じていますということを自覚的なキャラクターが存在し始めるようになります。「神経症」というのは内省的な葛藤を持つことですけれども、神経症的なキャラクターが成立します。
 つげ義春さんという人も内面的な葛藤を風景描写であるとか、一見するとストーリー性が破たんしているような物語の中の情景の連続の中に内面性をにじみ出すような、そういう『海辺の叙景』であるとか『沼』であるとか『ねじ式』であるとか、いまなお記憶される傑作の中にそういう表現形式を残したという点ではある種の神経症的な作家です。この人自身も不安神経症の発作があったと言われています。
 マンガの「境界型」というところは何かと言うと存在確認、パフォーマンスの形式としてのマンガということになります。内田春菊さんとか庵野秀明さんのマンガというのはある意味で私小説的です。自分の生活とマンガ表現が一体化して、生活で起こったことが表現として誇張されて出てくる一方、逆にマンガから生活にフィードバックされていく。ある意味で破滅型の生き方ですが、生き方自体が芸になってしまうことがマンガの境界型をもたらしたというのもあって、表現として大きなジャンルとして成長しつつあるのではないでしょうか。
 
●マンガの分裂病化
 最後がマンガの「分裂病化」です。統合失調症と言います。一般にはすげ義春さんの表現を分裂病と言うのが病理学的には正当ですが、私は実はそう思いません。
 つげさんのマンガというのは異様に見えるのは、ある意味では夢の文法をつかっているからであって、夢と分裂病とは全く違うものです。その辺のこわれ方の違いみたいなものをご理解いただくために吉田戦車のマンガ作品を取り上げます。いまのところマンガの中で一番分裂病くさいのが吉田戦車です。本人は非常に健康的で社交的で何らそういう問題はない人です。私たちにとって驚きなのは、いわゆる精神病理学ではおかしな人がおかしな作品を作れて当たり前だったところに、吉田戦車に至って、まともな人がおかしなものを作るということが成り立っていることが分かったわけで、非常にエポックなことでこのことを分析学会で発表した時、とても好評でしたが、そういうことがなかなか理解されがたい状況がある。しかし、いまやマンガというジャンルのその多様性、自由さの中においては、まともな人ですらこんな異様な表現ができてしまうんだということが自明のごとく明かしてしまっています。
 包帯をした少年が学校の先生に「新しい字を発明しました」と言って、逆さまの字を見せていて、「どういうのかね」と先生が聞くと、発音できませんと答えます。吹き出しの中も同じ字になっていますから読者も発音できません。これは『伝染るんです』というマンガの中でも最高傑作と呼ばれる1つの哲学的深みを持ったマンガです。これは、統合失調症で言う「言語新作」という症状に大変似ています。「言語新作」というのは自分だけにしか通用しない言葉を作り出し、それを自明のごとく人にも言い聞かせるので、周りの人は異様な印象を持ってしまうのですが、そこにコミュニケーションギャップというだけではとても足りないような決定的な断絶があるのですけれども、このマンガの断絶感に近いところがあります。
 もう1つ取り上げるマンガにはストーリーがありません。「店」と描いてありますが、何の店かよくわかりません。女性が店に来て「買いたいのですが」「あれを下さい」と。それに対して「ああ、あれですね」「40円くらいになります」と言っている。一体何が何だかよくわからない、非常に異様なマンガです。これは統合失調症の『もの体験』という症状そのものです。『もの体験』というのは物の表面を覆っている名前とか、用途とか、意味とか、そういうところが全部こそげ落ちてしまって物そのものの実在感のみが突出してくる状態を言います。これは分裂病の方が初期の病期に感じるらしいのです。精神病理学者がサルトルの『嘔吐』という小説の中でロカンタンという人がマロニエの根っこを見て感じる嘔吐感、そういうものの生々しさ、この突出してくる体験に非常に近い。一種異様な印象をとらす、不気味な手触りを残すという意味で2つの画期的な表現ということで出しました。なかなかこういう表現は簡単そうで難しいのです。コロンブスの卵的でもありますが通常の絵柄でこれが描いてあっても、あんまりこういう不気味さは伝わってこない、吉田さんのこの絵でないとだめなんです。
 私が好きな榎本俊二さんという若いマンガ家の『えの素』ですが、ちょうと見ただけではわかりにくい、絵柄はギャグでやはり異様な文法で進行していくマンガです。
 いろいろ例示しましたが、流れとしてはご理解いただけたと思います。日本のマンガには特殊な表現がいくつかあって、独特のマンガ空間という、際限なく自由とは言いませんが、文体や作家性みたいな表現するにはかなり融通無碍な表現のコンテンツをもたらすような空間があり、その中で1つの特性であるキャラのリアリティみたいなものが、現実に必ずしも対応していないのですが自立してリアリティを発生していくために、なおのこと豊かな虚構性を生み出すことができるという点に、特異なものがあると考えています。
 そういった空間の中で最後に示したように通常の精神病にも解釈できるような現象すら起こりつつある。これはマンガ文化のある種の自由さ、多様性の現れであって、しかもその病理的なものが病んだ表現にならず、面白いある種のジャンル性をはらみながら大変豊かなものを作り出していることを感じます。人間が病気になる時というのは、我々の臨床の現場で言いますと、精神病というのは、だいたいむしろ貧しい方向に向いて行かざるを得ないようなところがあるのですが、表現としてそういった文法が使われますとむしろ可能性を押し広げてくれるようなことにつながるのではないかということを最後に付け加えておきたいと思います。ありがとうございました。
 
 
 


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