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相原―記憶のアーカイブが連携して創造性を生む。脳は不確実性を乗り越えるために成長する。感情は不確実性への適応で、その過程での副産物が創造性だ。というご説明があったのですが、記憶のアーカイブと不確実性というのはある種相反する部分があるのではないか?不確実性に適応する時に創造性が産まれる過程はどういうものなのか?その創造性とはどういうものなのか?その辺りをもう少し教えて下さい。
茂木―脳の中にはACC(ACCを検索すると脳梁欠損とでるが?)という異常を感知するとシグナルを送るアラームセンターがある。大したことはまだわかってませんが、痛みを感じた時にもACCが活動しますし、何か突発事故が起こった時にこれが活動する。それと同時に人にとって、いつ来るか予測できない発想やインスピレーションを拾う役割をどうやらしているらしい。簡単に言うと不確実性に対処するためのシステムと創造性に対処するシステムが同じなのです。これがシグナルを送ると、何かいろんなトップダウンの指令を出して脳がその突然くるひらめきをちゃんと利用できるように後始末をしてくれるというのです。うまく言えないんけど、いつライオンが出てくるかわからないという状況に対応するために用意しているような、まあ不確実性に対応するシステムが、突然わいてくるひらめきを処理することにも使い回しされ、共通のシステムとして機能しているということはわかっている。でもそのプロセスについては、まだ良く解明されていません。
牧野―脳内の記憶、つまり過去のアーカイブが編集されて創造性になるとすると、素晴らしい創造作品を絶賛するのは、どういうことなのだろう。頭の中にモヤモヤっとあったものに、ある編集者が見事な編集を加えて作品にしたということなのか。絵であれ形であれ言葉でも音楽でも作品を作る場合に、ひらめきというものがある。ひらめきは、過去のアーカイブの編集作業なのか、創造はゼロ状態のところに何かを生み出す行為ではなく過去のアーカイブの編集の結果だとすると、その編集は何のためにするのか、脳の中で要求しているモヤモヤしたものに形を与えてもらいたいのか、お話を伺っていて何かすっきりしないというか、自分で理解できていないと思う。絵描きというのはとにかく絵の具を塗りたくって、これは自分の求めているものじゃないって、また絵の具を塗り直す。一生懸命に塗っている内に、先にあった構図やアイデアとは違ったとしても、よし、これだ、自分が求めていたものだっていうものに当たる。その創造に当たるものは、実は過去のアーカイブの再編集であるわけですね。ただ、これだっていう最後の決め手は、常に最初から絶対的なものがあるのではなくて、その時代とかその人の感性とか他者との相対とか、相互に影響し合って、埋めれるもので、ある瞬間のどのつかえが治ったような快感を得られるものかなというふうに、お話を伺っていて考えてみました。
茂木―確かにそのフラストレーションというのはありますね。ど忘れで思い出せない時のように創造する時もフラストレーションがあって、作品になってそれが開放される。そこら辺にも恐らく脳機能としてはすごく関わっているはずなんです。
清谷―知識のアーカイブを思い出して創造が産まれるということを、逆に知識に対するアンチテーゼとして否定すれば、新しい創造が産まれるということもあると思う。信長の場合、武田軍が強いという知識をアンチテーゼとして尾張の常備軍を創造した。武田の兵は強くて武田兵1に対して尾張兵3と言われた。しかし農民を使うので農閑期しか戦えないのに対し尾張の兵は弱いが金があったので1年中戦える常備兵を雇える情況にあった。そういう知識に対するアンチテーゼとして、尾張は常備軍とジスティックス(兵站)を創造して最後は勝った。つまり頭の中からもれてくる知識に対して対抗するというか、それを打ち壊そうというような、そういうのがある種創造性のほうに行くのではないかと思う。
茂木―そうだと思います。恐らく思いっきり前衛というか過去の否定で行ったとしても、結局アーカイブから引っ張っていることは事実で、その引っ張り方向が変わってくるということです。アーカイブに引き出し方は、全く様々に違っていて当然なのです。
 
4 身体性
 身体性について現代の脳科学の知見について人気キャラクターを引用して説明する。ガンダム、仮面ライダー、身体延長としてのモビルスーツは最近は特に、リアルで等身大になっている。基本的な知識として皆さんご存じのホムンクルス(小人)が脳の中にいます。このホムンクルスでは運動上重要な身体部分をつかさどる大脳皮質の部位が、実際の身体サイズより誇張されて大きく描かれている。我々の体の認知がこの大脳皮質の部位の面積に比例した感度で認知をしていることを示したものです。例えば運動で精度の高い認知を求められる、目、耳、指先をつかさどる大脳皮質の部位は大きく描かれている。この身体認識というのは固定化されていない、実はボディイメージというのは、全ての認識の中で最も劇的に変化する。道具の使用によって身体が延長されたと脳が認知する古典的な実験がある。サルが熊手でエサを引き寄せるケースで行いましたが、ただ熊手を物理的に持っているのではなく、アクティブに使わないとだめです。要するにゴルフの素振りとか、イチローがバットを素振りして、感じをつかんでいますけど、そういうのは実験データに基づいて解釈すると、身体イメージを延長していると解釈される。ややこしい話ですが、ファントム・リム(幻肢)の有名な事例としてはホレーショ・ネルソン(トラファルガー海戦)がある。ネルソン提督が右手を失った後でも、痛みの感覚が消えなかった有名な事例ですけど、要するに物理的に手がなくなっても脳の中にはその手の感覚や痛みが残る幻視痛という、極めてやっかいな症状です。自分のもうない手が食い込むように痛んで、精神的、肉体的に苦しい脳の障害です。今はファントム・リムを切除する手術、といっても精神治療ですが、が開発されている。身体イメージは常に運動のアウトプットと感覚フィーリングとの整合性を通して作り替えられているのですが、このフィードバックを使って治療するのです。右手がなくても左手はあって、鏡のボックスに左手を入れて、色々な動きを目で観察することによって脳内にあたかも右手があるかのようなイメージを作りあげる。左手を動かすと鏡に映った右手が動いたような視覚イメージが来るけれども、実際には右手を動かす運動指令が出てないので、脳がその矛盾に気付く。その矛盾を使って脳の中の右手を幻視していた部位が消し去られる。これはファントム・リムを切除する手術の実験ですが、非常に劇的な変化が身体イメージでは起こるということです。
 後ほどコスプレの話と関連させるのですが、キャラクターの一人称的な認識というのは、身体イメージの変化と関係していると思う。とにかく身体ほど人間の脳の中で認知が劇的に短時間で変わるものはない。だから車両感覚とかいろんなことがある。要するになぜかと言うと、視覚の空間というのは右が突然左になったり、過激に変化することはないが、身体はどんどん動くので、それだけ脳も予想していて可塑性を用意している。それに合わせて次々とマップを書き換えている。ですからキャラクターを認識する時に、脳から見た重要なポイントというのはその身体性の問題にあるのです。
 実は、身体性とコミュニケーションとは非常に深く関わっている。小津安二郎の映画『東京物語』を引用して説明する。老夫婦が尾道に帰って、おばあさんが亡くなるシーンで、医者である息子と妹とお爺さんと息子の嫁が病床のおばあさんを見守っている。この映画は最近のイギリスの映画の批評家の世界映画史上ベスト100の1位になった大変な名作で、日本人として誇るべき作品だと思う。いまの場面で息子の顔の表情から読みとれることにはすごいいろんなものがある。例えば自分の母親が亡くなるという悲しさ、しかし一方で医者としての職業意識から最期まで冷静でなければいけないという義務感、それを役の中で読み取っている周吉というお爺さんの何とも言えない、この表情、そういう複雑で繊細な心の動きが読みとれる。このように人間が相手の心を読みとれるという能力はすごい能力である。ロボットは最近二足で歩くが、それ自体は別にすごいことではない。要するに相手の心を読みとれるという人間の知力には全然及ばない。例えば、一見冷たいような美容師をしている妹が、突然脈略なく「喪服持ってきた?」と聞く、そういう予想がつかないことをやるのが人間で、感情というのは不確実性に対する適応として進化したと言いましたが、実は人間にとって一番大切な不確実性を奏でるものは他人の心なのである。女の子が自分を好いてくれるかどうかも不確実性ですけど、一般に相手の心ほど不確実なものはない。それを読み取る能力があるというのがものすごい。心の理論と言って、ご存じの方も多いと思いますが、要するに人間が相手の心の状態を読みとれる能力です。この心の理論というのが脳科学とか認知科学においては30年来の最も重要なトピックのひとつです。要するに何をしでかすかわからない人間が読みとれる心が、ある程度読みとれる完全に読みとれるわけではないが、ある程度読みとれるという理論である。
 心の理論の研究において過去10年で最重要な発見がミラーニューロンである。脳科学におけるDNAの二重螺旋構造の発見に相当するとも言われるぐらい大きな発見だという人もいる。ミラーニューロンというのは運動前野という前頭葉の領域にある神経細胞で、自分が何かをする時と、他者が同じことをするのを見ている時と、まるで鏡を見ているように同様の活動をする神経細胞である。脳の研究者がサルを調べていてジェラートを食べ始めた。ジェラートを口に持ってくる度にそれを見ているサルの大脳皮質の領域が活動したことを偶然発見した。調べてみるとそれはもともとサルが自分でエサを口に持ってくる時に活動する神経細胞だった。脳科学の発見の歴史は、大体こういう細胞があるだろうと予想して発見されるようなものは大したものがなくて、まったく脈略がない、この場合は、研究中にサルの目の前でジェラートを食べ始めたイタリア人研究者のいい加減な性格が幸いして、偶然見つかることが多い。ミラーニューロンというのは本当に人々を驚かした。他者の心を読みとる心の理論に非常に深く関与しているからである。他者の行動を、また顔の表情を、それを自分の行動に置き換えてシミュレーションできているのは、実はミラーニューロンの働きがあるからだと解釈されています。
 人間は、その発達の過程で自分に心があるという気付きと、他者に心が存在するという気付き、つまり心の理論は4歳児ぐらいで同時に発生する。アメリカの動物行動学者のギャラップが考案した、自己意識を確かめる鏡のテストというのがあります。鏡の前に動物を置いて、動物の顔の一部に何かマークを付けておく。もし鏡の中のイメージが自分自身だとわかるのなら、そのマークを取ろうとするだろうという仮定でテストを行った結果、いまのところ、テストに合格する動物は人間とオランウータンとチンパンジーとイルカだけでした。ゴリラはだめだった。この4種類に自己意識があるかどうかは判明してないけれども、この鏡のテストの重要なポイントは、自分の心に対する気付きと他人の心に対する気付きというのがほぼ同時に脳の共通のメカニズムを使って立ち上がってくるというところにあるのです。人間の発達を考える上で先ほどボールビーの安全基地という理論を例示しましたが、他者との関係、つまり見られているという関係がすごく重要な意味と影響を持っています。友人のフィリップ・ロシャというアメリカのエモリー大学の研究者がよくこの話をするんですけれども、プールで飛び込み台の一番前に女の子が立っていて、これから飛び込もうとしているけど、なかなか飛び込まない。プールサイドにいるお母さんに飛び込むところを見て欲しいけど見てくれないから飛び込まない。後ろに子どもがいくら待っていてもお母さんが見てくれるまで飛び込まない。この女の子にとっては大切な人に見てもらってない行動は起こっていないのと同じことである。つまり子どもの初期の段階から行動の意味というのは社会的に意味付けられているということで、例えば子どもって恐らく保護者がいるところでしか泣かない。どこかでケガして家に帰ってきてお母さんの顔を見た途端に泣き出すという現象はよくあることです。お母さんの顔を見て安心して泣くとかいろいろ言いますが、要するに『泣く』という行動が社会的な意味を持つので泣くのであって人間の脳というのは他者に見てもらうということを前提に発達しているのです。
 例えば最近の研究で目が合うこと、アイコンタクトすることで脳内のドーパミン系が活性化することがわかっています。上の写真の顔は皆さんと目が合っているけど、下の写真は目が合っていない。恐らく上の写真を見ると船曳先生の脳の中でドーパミンが出て、下は逆にドーパミンが低下する。皆さんが写真の女性を魅力的だと思えば思うほどドーパミンはいっばい出て、しかも目が合っていない時には魅力的であるほどドーパミンを出す神経細胞の活動は低下するということがわかっています。だから日本マクドナルドの人に聞いた話では、マニュアルの第1項は顧客と目を合わせることです。スマイル0円というのはまさにコストをかけないで顧客に満足度を与えるという、非常に脳の仕組みに合った仕掛けだというわけです。これまだ具体的な脳機構として徐々にしか解明されてませんが、実は人間には単一のセルフ、つまり自己があるかどうか、はっきり言えないらしいことがわかってきています。つまりコミュニケーションの現場の文脈によってどんどん新しい自分ができてしまう。仮想のAというものがあったとして、その人格が単一のまま留まるのではなく、他者に合わせて脳の活動が変わってA’とかA”とかどんどん変わってきてしまう。例えば、私自身の場合ですが、日本語のうまい外人に道を聞かれた時にだけ出るキャラクタ―があって、向こうが完璧な日本語で聞いてきているから、私も普通に日本語でしゃべればいいのに、何か外人っぽい日本語になってしまう。ボーイスカウトのお兄さんが子どもたちに話しかける時とか、タクシーの運転手とする会話の時にしか現れない人格というのがあります。要するに、単一の自分がいるということはどうも脳の働きからするとないらしい。それぞれの文脈において人格が作り替えられるということのほうが正しいらしいのです。その非常に悲劇的な例が多重人格、乖離性同一性障害です。これは臨床心理医学的には確定診断するのに5年ぐらいかかるやっかいなものですが、脳活動としても検証することができます。多重人格障害というのは幼少期に虐待を受けて、その後多重人格障害になる事例が多いのですが、『24人のビリー・ミリガン』が有名になりましたけど、いくつ人格があっても基本的に2つのカテゴリーしかなくて、それは何かと言うと虐待記憶を思い出せる人格と思い出せない人格です。要するに多重人格を形成する理屈は、虐待を受けたことを思い出して生きることは非常に辛いので、その虐待記憶を思い出せない人格を新たに作るということです。その虐待記憶を思い出せない人格の時に、前頭葉の右側の部位が活動して記憶の想起を妨げていることがわかっています。多重人格というのは、実は極端に言うと文脈、関係性によって新しい自分を作ってしまうというなので、軽い形での多重人格性というのは我々みんなが持っていまして、鎌田先生なんか突然シンガーソングライターになって別の人格になってしまう。(笑)。そういう意味では、コスプレはすごく興味深い。またITは、時間とか場所に依存していた文脈を携帯やモバイルコミュニケーションの発達によって、相当自由にしたという点において多重人格化を促進した。1人の人が多重の文脈を、人格を引き受けるということが多くなってきた。最近の若者は二役三役を当たり前にこなすし、お姉さんやお母さんでもモバイルの利用が進み、時間と場所の文脈から開放されている。例えば、子どもを保育園に預けて青山かカフェで、昔の女子学生仲間と完全に女子学生ってモードになってキャッキャッ話しているお母さんがいる。保育園から携帯に「誰々ちゃんが熱を出した」という連絡があると、突然キャラクターが変わって「ああ大変、お迎えに行かなくちゃ」と完全にお母さん人格に戻る。ITは時間場所依存性を取り払うってこと、多重文脈を可能にすることを補助する。人間の脳はそういうのを利用して楽しむことすらできるのです。コスプレは、そういう現代の文明の方向性と深く関係している。コスプレやっている人は実は、すごく時間と場所と文脈を超越した、何か非常に現代的なものを象徴している人たちだろうと思っています。


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