日本財団 図書館


キャラクター創造力研究会第5回(2005年9月22日)
茂木健一郎氏「クオリア、記憶、コミュニケーション、身体性からみたキャラクター認識の創造性の問題まで」
 
1 クオリア
 新しいところで「ネコ耳メイド」とか、いわゆる萌えキャラがある。『萌え』という要素は我々の脳科学の立場からみるといわゆるクオリアに当たる。『クオリア』というのはここ10年ぐらい非常に注目されている概念で、『感覚質』と訳される。意識のなかで「感性」という形で把握されるものすべてがクオリアです。いま脳科学で最大の課題の1つが、このクオリア問題で、脳の1000億神経細胞メカニズムにおいて、クオリアが生まれる仕組みを解明することがグランドチャレンジになっている。これが何故難しいのかというと、いままでの近代科学では数で表せるもの、つまり方程式に書けるものを扱って来た。数値で表せない質感のようなものは従来の近代科学の対象になってこなかったし、手法も確立されていない。だからそれに対してクオリアを感じるメカニズムを従来になかった手法で解明しようとして、新世代の脳科学者たちはチャレンジしている。
 
2 記憶
 クオリアにはいろんなレベルがある。萌えの中でも、マニアの萌えかたと普通の人の萌え方は当然違う。例えば船曳先生がメイド喫茶に行って萌えるのと、年期の入ったアキバのオタクが萌えるのとは違うかもしれない。クオリアには階層があって、赤いとか丸いとか見て判る浅いクオリアと、じっくり付き合って初めてわかる深いクオリアがある。この階層性ということが、キャラクターを認知する時に脳がどのように機構するのかを考える上で非常に重要ではないかと考えられる。人間がゴジラのキャラクターを認知する場合、ある程度のユニバーサリティーがあり得るが、日本人がゴジラを認知する場合には、水爆実験で被爆した第五福竜丸の記憶につながるところがあるかも知れない。アメリカ人の感じるゴジラと日本人の感じるゴジラのクオリアは違うという事がある。夏目漱石の絵を見ると我々は明治の文豪独特のいろんなことを思うわけだが、例えばイギリス人が見たら、日本人がヨーロッパの格好をしていると思うだけだ。クオリアの認識の仕方には、時代や文化の背景があるというわけだが、それを理論的に扱うにはやっぱり記憶の問題に触れる必要がある。脳科学における記憶の知見についてはいろんな考察があるけれど、一言で言うと編集だと思う。記憶については単に情報を蓄えてそれを再現するということと思われがちだが、実は脳科学において記憶が面白いのは、記憶に編集過程があるからだ。つまり一度蓄えられた記憶が徐々に、長い間側頭葉の中で変化し続けて様々な脈略、文脈が付けられて意味を持つ。この編集の過程が一番面白いわけだ。例えば母国語である日本語を私たちは辞書を引いて学ぶことをほとんどしないのは、日常のエピソードの中から意味の成り立ちをいわば編集して作り上げているからだ。脳の中にどのような記憶があるかによって当然キャラクター認知の仕方は、人によって変わってくる。ですから深いキャラクターというものを扱うためにはどうしても記憶の問題が不可欠になってくるわけだ。
 アメリカで『その時だけ有名人』という研究があった。人々の記憶に残っている、その時だけの有名人を調査して脳機能を研究するものだ。70年代、80年代、90年代その時だけ一瞬メディアで集中的に報じられて、その後はそれ程でない有名人の人たちを使うと、その人達に関する記憶はその当時に作られたものだと考えられる。報道され続けているケネディ大統領の場合、彼に関する記憶はいつできたかわからない。『その時だけ有名人』の刺激を使った研究によると、記憶の所在は時間が経つと脳内で部位を変えていく。つまり10年20年という単位で記憶というのは変容していくことが示されている。例えば、国宝の早来迎(はやらいごう)を見る、百鬼夜行絵巻を見る、世阿弥の能を見る、興福寺にある国宝の仏像を見る、等我々は見ているわけだが、このようなものを見る時々で我々日本人のキャラクター認知の仕方は当然違うものになると思われる。それは記憶の階層性というのか、記憶がずっと世代から世代に伝承される歴史のある単位によって、日本人の脳の中では、それは今側頭葉の中にあるという形での準備が違っているからと考えられる。これは日本人のキャラクター認知、創造力のユニークさを考える上で重要な視点で、やはり歴史的な視点が不可欠なのではないかと思っている。
 非常に代表的なキャラクターの「ゴジラ」では、初期のゴジラが強いインパクトを与えたので、その後のメカゴジラを始めとするいろんなバリアントや編集が継続されている。やはりキャラクターを考える場合、単にある瞬間だけの認知を扱うだけではなくて、私たちの脳の中に植え付けられている記憶を通してそのキャラクターがどのように変形され編集されていくかという過程もみなければいけないと思う。
 普通、記憶することはクリエーティヴ、創造性の反対と思われがちだが、イギリスの数学者のロジャー・ペンローズは、1989年の著書『皇帝の新しい心』の中で、創造することは思い出すことに似ているという仮説を唱えている。数学者が新しい定理の証明する時の過程を少し話すと、彼はその定理の証明が可能ではないかという感覚(Feeling of knowing)を持ち始める。こういう定理が欲しいという感覚は、ど忘れした友だちの名前を思い出そうとしている時の感覚に似ている。結局この仮説は、当時はペンローズの主観的な体験に基づくものとされていた。しかし、最近は脳科学の知見によって、このペンローズの仮説が正しいらしいということがわかってきている。
 先ほど単に記憶を正確に再現するだけでは創造にはならないと話したが、逆にそういう異常な脳を持った人を研究した例がある。ロシアの神経心理学者のルリアの研究で、非常に正確に10年前20年前に行われた会話を再現できる男の脳を徹底的に調べた。生きているので解剖はできないけど観察して調べた。結果は、この男は実は欠落が原因になって、記憶の編集能力がなくなって、そういう能力が残ったことが分かった。例えば、私が牧野先生に何回かお会いしているうちにだんだん牧野先生の人格がわかって、牧野先生との出会いのいろんなエピソードを脳の中で編集して、牧野先生のキャラを立ち上げる。ところが、この男はそういう能力が欠落している。何回だれに会ってもその人のキャラが立たない。つまり脳の中のキャラクター認識というのは編集過程の結果うまれてくるものであって、最初からアプリオリに記憶としてあるものではないということだ。劇的な例がナディアと呼ばれる自閉症の女の子が5歳の時に描いた絵だろう。一般的に自閉症というのはコミュニケーション能力や言葉の能力も低下していて、記憶の編集能力が低いと診断されているが、この子が5歳の時に馬が走っているのを一瞬だけ見て、描いた絵が左の絵である。人によってはダヴィンチの絵より優れているというくらい非常に迫真の絵を描いている。このように、機械的な記憶能力とキャラクターを創造する編集能力とは別であると考えるのが、最近の脳科学の知見である。例えばこのような普通の子が描くつたない絵が、実は人間の記憶能力のすばらしさを表しているというのが脳科学のいまの知見である。ある丸の絵は何を表しているのか、顔か胴体かお尻?もし顔だとすると、顔からすぐに手が出ているのはおかしいと思う筈だが、それも有りだと思ってしまう。指摘しなければ丸から手がでている絵を、特におかしいと思わない。このようなヘタウマな絵がナディアの絵よりもキャラクターを創造する力の核心に迫っているという考え方がいま台頭している。驚異の描写力で描かれた氷河期時代の洞窟画が、フランスのショーベというところで見つかった。約3万年前の絵というのに本当にすごいもので、氷河期のシスチーナ礼拝堂という人もいる。馬とサイを非常に精密に重ね描きした絵で、ネアンデルタール人が描いたというのが有力説になっている。彼らは言語を持っていなかったと思われているのに、どうしてこれだけの絵を描けたのかという当然の疑問がある。イギリスの心理学者、ニコラス・ハンフリーの説が有力で、要するに彼らは現代でいうと自閉症の子に見られるサヴァン効果のような、非常に特殊な能力を持った精神状態にあったのではないかと提唱している。1つの意見ですが、ショーベの壁画の馬は非常に精密に重ね描きされているけれども全体の構図を考えていない。これはサヴァンの子たちの絵の特徴と一致する。これは直接的な証拠ではないが、有力な間接証拠とされている。ショーべの洞窟は非常にコンディションが悪くて、入口から300メートルぐらい這って行かないとたどり着けないらしい。当時の人は、そういうところに行ってこの絵を描いた。この能力はキャラクターを作る能力というよりは精密機械的な記憶力に基づいていたのではないかという説が有力なわけです。
 ニコラス・ハンフリーは『The Mind Made Flesh』日本語で『喪失と獲得』という著書の中でその説を主張しているが、この本は哲学的にも含蓄が深くて、進化は一直線上のものではなく何かを獲得すると、同時に何かを失うことであるという考え方に基づいて論を展開している。つまり我々は言語能力を得たと同時に物事をありのまま精密に記憶する能力を失った、というのがニコラスの論考である。要するに手塚治虫とか、ダヴィンチみたいな天才というのはある意味ではサヴァンの様にありのままの世界を精密機械的に見る能力と、普通の人々のようにシンボルで世界を見る能力の両方を持っているのかも知れない。例えば我々は、机を見ると机だと思ってそれ以上のディテールを見ないけれども、サヴァンの子たちはそういう世界を認識しない代わりに物の形とか色をそのまま見ている。これがトレードオフの関係にあって大抵はどっちかしかできないのだが、一部の天才と呼ばれる人たちは既成のマインドセットや思い込みを越えてありのままの世界を見て、その感覚をシンボリックな世界に戻してくるのではないかと考えられる。ある意味ではキャラクター創造で天才的な人は両方行ったり来たりできて、左側のありのままの世界を右側のシンボルの世界に持ってこられるのかもしれない。
 キャラクター認知能力、特に萌えなどの、というのは、人間が進化の過程で得た妙な認知能力のひとつではないかという気がしている。そこでスケール・エラーという面白い認知現象を引用してみる。アメリカの研究者によって最近報告された、生後20から24ヶ月の子どもたちに一時的に現れる現象で、スケールを無視して行動する現象なのである。その子どもたちはミニチュアサイズのおもちゃのすべり台をすべろうと、車に乗ろうと、ソファに座ろうと、演技しているのではなく、非常に真剣に取り組みトライする。このようにスケール・エラーという現象が月齢20から24ヶ月ぐらいで観察され、また消えてしまう。ある意味ではこの子たちは『不思議の国のアリス』の世界に住んでいる。こういう現象がどうして起こるのか、まだ定説はないけれども、ひとつの有力な説として、後で議論する身体との関係を無視して、シンボルの世界が暴走する、結果として物のスケールを無視しておもちゃの車と実物の車を混同してしまう。これは、人間だけが持っている能力で、動物は間違えない。人間は、それを同じ車だと思うことができる。大人は、物と自分の身体とのスケールに関係性を持たせて認知することが当然できるわけだが、全員ではないけれども、ある発達過程の子どもに、このようなシンボル化能力の暴走が見られるという議論がある。この現象は、結局、脳が生後ずっと側頭葉に記憶を蓄えてきて、徐々に編集される過程で出てくる妙なものたちである。一般に我々が記憶を思い出す時には、先ほど申し上げたフィーリング・オブ・ノーイング、これを知っているという感覚が前頭葉で生じる。前頭葉で生じたその感覚に基づいて側頭葉に蓄積されている休眠記憶が前頭葉に持ち出されて活性記憶になる。これを失敗してしまうといわゆる『ど忘れ』という状態になる。実はさっきのペンローズの仮説、何かを思い出すということと創造のプロセスが似ているというのはこういう意味でして、創造性というと神秘化しがちですが、つまりゼロの状態から何かを生み出すということはあり得ない。恐らく脳の構造を詳細に見ていけば、側頭葉にある記憶のアーカイブから何らかの変形が加わって出てくるものが創造性になると考えられる。そうすると創造する行為は思い出す行為に極めて似ている。つまり思い出す行為の場合には単に過去の記憶がそのまま出てくるのだが、創造性となると、過去の記憶がちょっと変形されたり結びつきが変わったりして編集されて出てくる、ということである。例えばモーツァルトがシンフォニーを作る時には彼の脳の中には膨大な曲のアーカイブがあったわけで、それに基づいてシンフォニーをあれだけ作れたわけだ。つまり脳の中に記憶のアーカイブがあるということが創造性の邪魔になるのではなくて、あればあるほど創造的になる。余談だが、だから我々中年以上はアーカイブが大きい分だけチャンスはあると考えてもいいと思う。これは、脳による創造物の歩留まりがよいことも説明している。つまりコンピュータでいろいろキャラクターを作る場合と比べると、やっぱり人間の脳の歩留まりが圧倒的にすごい。何で歩留まりがいいのかというと、要するに簡単に言えば記憶のアーカイブの中から欲しいもの(価値)を作り出す情動系だからだ。感情のシステムがこういうものが欲しいというターゲットを作り、それに合わせたものを記憶のアーカイブの中から組み合わせて作り出してくるというような構造になってと考えられている。
 ここで記憶のパートは終わりなので、ご質問をお受けする。
清谷―アフリカなんかに行くと、字はないけど言葉でずっと長い間、しかも非常に正確に部族の話を伝承している人たちがいます。そこにはサヴァンの子どもたちみたいな脳の発達があるのでしょうか?
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンス・サピエンスの違いは、シンボリックな能力とあるがままの機械的能力の差という説がありますが、脳の中はどうなっていますか?
茂木―いいポイントですね。そうかもしれないがその点に関する研究は記憶にないですね。ネアンデルタール人とホモ・サピエンス・サピエンスの脳は、非常に大まかに言っちゃうと左脳と右脳の違いですよ。左脳のほうでシンボリックなものを考えるのがホモ・サピエンス・サピエンスです。面白い事例で、ボケで左の側頭葉の先の部位が衰えた人たちが突然サヴァンのような絵画能力を出すことがある。左の側頭葉が右脳を抑制していたのが、とれたために右脳がいわば暴走してそういう能力が出るという説がある。そういう報告がアメリカで何例かあり、どうもそういう脳の働きのバランスの問題はあると思う。
鎌田―スケール・エラーというのは人間が持つ、抽象化する能力におけるブロセスの間違いですかね?
茂木―報告されたばかりで研究がそこまで進んでいない。普段我々の周りでの事例がなくて、実は家庭用ビデオの発達によって随分解ってきたところもある。佐々木正人さんが詳しい、マイクロスリップの研究も最近は随分増えた。こうやっている時にも、実は微少な揺らぎとか淀みとか、変な軌道が見えるという研究によれば、以前は普通の人は1日1回ぐらいマイクロスリップすると言われていたのが、今はみんな1分間に1個ぐらいやっているらしいと言われている。この手の事象って見逃されがちである。一瞬しか出ないし、みんなやっているのかもしれないが、観察するのは難しいし、わからない。
鎌田―スケール・エラーには、ある程度僕らに共通する部分があると思う。あんな小さな椅子には座らないとは思うけど、小さな三輪車とかトラックとか乗りたい衝動に駆られたり、ままごとして遊んだり10歳ぐらいまでしていました。そこら辺のこととは違うんですか?
茂木―非常に重要なポイントです。つまりそれは、ごっこ遊びという普通の遊びで、スケール・エラーとは根本的に違っている。要するに一言で言えばこの子たちは本気である。ごっこをしているんじゃなくて本当に車の中に入ろうとしているところが根本的に違うと言われている。ただそれは別のカテゴリーとして扱っていい可能性をもっている。ご指摘のように、この子たちは本気でそれをやって遊んでいる。我々はこの子たちと同じようなことをやっているんだけど、それをごっこ遊びをやっているんだよというふうに納得させている、かもしれない。非常にここら辺が面白いところです。
牧野―マンガ家のほとんどは、一瞬ごっこ遊びをしている意識がありながら、すぐにまた元に戻っていって現実の世界に入り込める大人です。つまり「私はいま仕事として作品を描いている、採算を合わせながらやっていると思いつつ、実は自分の描いている世界に入り込んで、性や暴力の世界に耽溺していくということがあり得る。一瞬の動きとか意識の変化というものを測定することはできませんが、臨床医学的に私たちがそのマンガ家と付き合った経験で言えば、そういうことは日常的に起きている。そう考えないと京都精華大学マンガ学部の学生たちの行動を説明できない。舵取りを間違えるとひどい世界に入っていく可能性もあり、非常に怖い部分ではある。一方で逆、抑止力にもなっていて、ゲームやマンガがなかったらもっとひどい世界にはいっていくかもしれないことも、私たちは皮膚感覚でとらえている。社会で異常な犯罪が起こったりすると、安易にマンガやゲームの過激な描写のせいにする人たちがいますけど、僕なんかは制作者側の視点から見ているので、本来ならもっとひどい状況が起こるかもしれない、マンガを描くことによって抑えているというように実感している。人々は現象だけしか見ていない。なぜこういうことが起こるのかという、茂木先生のお話を聞いていると、様々に符号するところが多い。むしろ科学的な実証や実例を学んでいる。スケール・エラーやマイクロスリップといういろいろな現象が見えてきているのは、ある意味で必然だと思う。おもちゃの車に乗りたい子供も、『不思議の国のアリス』の作者も実際にはそういう感覚を自分が持っている。おとぎ話を書いて子どもたちを楽しませるという左脳的な次元ではなくて、作家という以前の個人をして、本当にそういう感覚を持って、右脳的な次元でああいうものを描いていると思う。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION