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私たちが生きてきた道のり
馮可騰(フェンケーテン)(中国)
馮可騰
 中国広東省生まれ。少年時にハンセン病と診断され、以来、人生の大半を療養所・定着村に暮らす。1997年中国南部のハンセン病回復者団体ハンダの活動に加わり、現在は同団体の常任委員を務める。
 
 私は貧しい家庭に生まれました。母はたった一人で家族全員の生活費を稼いでいました。私の祖母、弟、そして私。弟と私は幼い子どもでしたが、祖母は私たちよりも母に頼り切った生活をしていました。祖母は80代で、盲目でしたから。私は飲み込みがいいほうでしたので、魚を釣ったり、農作業を手伝ったり、料理をしたりと、小さい頃からできる限り家族を助けてきました。
 私が10歳のとき、左足に何か明るい赤いマークがあるのに気がつきました。赤い斑点のようなもので、ぜんぜん気にしていませんでした。たいしたことではないので、母にも言いませんでした。中学校に入学してしばらくすると、今度は顔にまた赤いマークが出てきたのです。母はこれを気にして、医者に連れていかれました。そこでハンセン病と診断されたのです。
 何日もの間、家の中に閉じ込められました。毎日毎日、母は私を問い詰めるのです。「おまえ、どうしてこの病気になったの?」
 この病気にかかった人は、何か悪いことをしたから神様が怒って与えるのだ、と信じている人が、いまだに多くの国にいるのです。ユダヤ教やキリスト教文化でもそうだったと聞きました。母がこうやって私を問い詰め、なじったのも、愛情の表現だったと言えますね。母は、私が何をしてこの病気になったのか分かったら、病気が治せると思ったのです。私は第一子でした。母の暴力は、私よりも、母自身を深く傷つけていたでしょう。
 1963年9月1日、私は近くの山間部にある潭山医院に送り込まれました。病院とは名ばかりでした。薬すらなかったのですから。潭山医院での最初の8年間は、常に痛みを感じていました。神経作用だといわれました。痛みよりも悪かったのは、飢えです。食べるものが欲しくて、近くの農場で働きたいと思っても、誰も仕事をくれませんでした。とても真面目で、やる気もあったのに。周囲の人たちは、私たちを怖がっていました。
 1968年の2月、恐ろしいことがおこりました。病院の近くに住む人たちの怖れが頂点に達し、病院を襲ったのです。火をつけ、そして住んでいた私たちを追い払いました。300人以上の人が、一夜にして住むところを失いました。
 家族のもとや故郷に戻ろうとした人も多くいました。私は家族のもとに戻りました。しかし故郷では、近所の人も親戚も誰も私に近寄ろうとしないのです。私が近寄ると、口元を覆った人もいます。唾を吐きかけてきた人もいました。
 結局、母がこんな状態から助けてくれました。また私を家に閉じ込めたのです。今回は長いこと続きました。10カ月間です。それでも私はこう思うのです。きっとこの病院にいた人の多くよりは、私のほうがましだったんだろう、と。病院を追い払われた私たち、総勢300人以上はなんらかの差別を体験しています。しかし何人かの仲間にとって、この体験はあまりにも辛いものでした。自殺した仲間もいます。しばらくして私たちはまた潭山医院に戻りました。近くの人たちの襲撃を恐れた政府は、病院に戻る私たちに軍隊の護衛をつけました。
 1975年に医者に治ったと言われました。本当に嬉しかったですよ。もうハンセン病じゃないんだ!母に手紙を書きました。「お母さん、病気が治りました。もう感染しません。普通の人のように、社会で暮らすことができます」と。
 母は信じてくれませんでした。今でも信じていません。今日でさえ、母はハンセン病は治らない病気だと信じているのです。今日でさえ、母は、ハンセン病は何か悪いことをした人がかかる病気だと信じているのです。だから私は病院に残ることにしました。
 もう、ここに41年間住んでいます。この41年間の間に私が故郷を訪れたのは、たったの2回。死んでしまいたいと思ったことは数知れません。私はもう患者ではない。他の人に病気をうつしたりしない。それなのに、まだ私は普通の社会で、普通の生活に戻ることができないんです。家族のもとに帰ることさえできないのです。
 一度、家まで歩いて帰ったことがあります。療養所には食べるものがなかったので、何か食べさせてもらおうと思って。故郷まで一晩かかりました。明け方ようやく村に着き、家の玄関をノックすると、母が出てきました。
 あの顔が忘れられません。母は血相を変えてこう言いました。
 「おまえ、何をしに来たんだい?ここにはおまえのいる場所も、おまえに食べさせるものもないんだ。さあ、とっとと療養所に帰るんだよ」。
 それから故郷に戻ったことはありません。
 3000年もの歴史を持つこのハンセン病という病気が、人々の心に残している恐怖や偏見は、そう簡単にはなくなりません。しかし、私たちがどんなに社会に人間として認めてもらいたいと願っていることか、お分かりですか?私たちだって普通の生活を送っていいはずではないですか。この願いを現実のものとするため、私たちは頭を高くかかげ、声を挙げなくてはなりません。この病気についての正しい知識を伝え、私たちの奪われてきていた権利を主張しようではないですか。
 ハンダが誕生したことによって、長い間、孤独の暗闇の中に暮らしていた私たちは、ようやく希望の光を見出すことができました。政府、ハンダ、そして多くの人たちの尽力のおかげで、私たちの生活や状況も改善されてきました。ハンセン病に対する偏見のない世界への道のりは、まだまだ長く険しいものです。しかし今、私たちはこの目標に向かって、着実に歩みを進めていることを感じています。
 必ず明るい未来が近いうちに訪れるでしょう。皆さんと一緒ならば、自分たちに自信と誇りを持って歩くことができます。さあ、私たちと一緒に、ハンセン病に対する偏見のない世界を築こうではないですか。
 
ハンダ:中国広東省のハンセン病回復者団体
 
カラウパパの歴史を、
悲惨な苦しみの歴史として描かないで欲しい。
ここは癒しと安らぎの場所なんだ。
悲しさや苦しさがあったことも事実だ。
しかしそれだけの歴史ではない。
それを乗り越え、
このパラダイスのような場所が生まれた。
そういう創造の歴史でもあった。
クラランス・ウッディ・ケカウラ・カヒリヒワ(アメリカ)
 
苦悩と栄光の歴史を残そう
 ハンセン病の医療面での成果は目覚しく、公衆衛生上の問題として世界各国で制圧される日も目前に迫ってきています。これに伴い、これまで集中的に行われてきていた政府やNGOの活動も、徐々にトーンダウンしていくことは、容易に想像されます。ハンセン病の一般保健分野への統合、ハンセン病から結核やマラリア、HIVを含む他の保健問題へ関心が移行することにより、これまで培われてきたハンセン病の研究、データ、記録等は失われていき、ハンセン病の歴史が消滅していく可能性もあります。
 ハンセン病の歴史は、治療薬が見つかるまでの医学的な歴史、一般社会の人たちを「保護」するという名目で強行された隔離政策の歴史、神話や伝説やことわざに織り込まれた社会の慣習や文化の歴史など、さまぎまな要素が密接に絡み合ってできた差別と偏見の歴史です。地域社会レベル、国家レベル、国際レベルで紡ぎ上げられてきたハンセン病の歴史を保存することは、単に記録や文物の保存というだけではなく、歴史から教訓を学び、その教訓を将来どのように使っていくのかという面においても、非常に重要です。
 残念なことに各国の保健省あるいは施設も、ハンセン病の歴史を保存するための予算も人材もないのが現状で。ほんの少数の例外を除いてハンセン病の歴史は散逸するに任せられていたといっても過言ではありません。今という機会を逸すると再びハンセン病の歴史を保存することはできないという危機感から、1997年、日本財団の財政支援で、国際らい学会とオックスフォード大学を中心に、世界ハンセン病歴史プロジェクトが開始されました。それ以来、世界の各地に自らの歴史を再評価し、後世に残そうという動きが出てきました。この動きを受け、笹川記念保健協力財団は、2004年よりフィリピン、インド、中国、ブラジルなどで歴史・資料の復元と保存を支援し始めました。
 ハンセン病の医学的、社会的、文化的な歴史や、ハンセン病と闘い、これを乗り越えてきた個人の歴史などを、回復者、医療従事者、歴史家など多面から語り継ぎ、これからの世代に伝えていく歴史保存の取り組みが、小規模ながらようやく始まりました。
 
ビルケ・ニガトゥ(エチオピア)
ビルケ・ニガトゥ
 エチオピア・セメンシェワ生まれ。全エチオピアハンセン病回復者協会会長在任時には、同協会の基盤強化に多大な貢献をした。
 
 6歳のときに、首や顔に引っかき傷のようなものが出てきました。ハンセン病の症状ですね。でもその時は、いったいなんの病気にかかっているか分からなかったんです。私の両親は離婚していて、母は首都アディスアベバに行ってしまったので、私は父とその再婚相手と暮らしていました。父は農業をしていましたが、生活はらくではなかったですし、私の面倒を見ることができないということで、私は父方の祖母に預けられたんです。でも、祖母は一緒に住んでいても、私にはかまってくれませんでした。
 誰も面倒を見てくれず、自分で何もかもやらなくてはならなくちゃいけなかったんです。そうしているうちに、病気はどんどん悪くなっていって、いろんな症状が出てきました。かかとはひび割れ、感覚がなくなり、傷が増えていって。こんなに体が傷だらけになっても、誰も気にもかけてくれなかったんですよ。まだ子供だったのに。自分の身体にどんどんと傷が増えていくのを見て、仕方なく祖母に言ったんです。ねえ、私、病気にかかってるみたいなんだけど、って。
 それでも祖母は病院には連れて行ってくれませんでした。薬草をくれただけだったんです。そう、もちろん薬草では病気は良くなりませんね。病気が治らないのを見て、今度は教会に連れて行かれました。聖水で洗い清められたけれど、それでも病気は良くなりませんでした。次に連れて行かれたのは、保健所。そこでは10回も注射されました。でもぜんぜん良くならなかったんです。面倒を見てくれる人も誰もいなくって、病気は悪くなっていくのがどんなに心細いか分かりますか?母と父方の家族とのいがみ合いはまだ続いていて、親類は誰も私の病気のことなんか、気もつかなかったみたいです。しばらくして母方の叔父が、私が病気だと聞いて、母に連絡したらすぐに迎えに来てくれて、アディスアベバに連れて行ってくれたんです。
 アディスアベバで病院に行ったものの、何の病気かは相変わらず分からないまま。どうしたらいいのか、誰も分かりませんでした。どこでどんな治療をすればいいのか分からないまま、母は私を呪術師のところに連れて行ったんです。もちろんそんなんじゃ良くならないですよね。病気が良くなるどころか、手足に障害が出てき始めました。それからいくつか病院に行って、最後にハンセン病の病院に辿りついて、ここでようやくハンセン病と診断されたんです。随分と長い道のりでした。医師は、治療を続ければ、病気は治るから心配しないように、と言ってくれて、本当にほっとしました。ああ、これで私の病気も治るんだって。ところが母は、「こんな病気にかかった人は、うちの家族には誰もいないんだから、おまえがこの病気にかかってるなんてことは、ありえない」って、病院に行かせてくれなかったんです。治療を受けなければ治らないだろうと思ったから、母に隠れながら病院に通って、治療を受け続けました。
 病院の先生たちは、私が母に隠れて通院しているのを見て、入院患者として受け入れてくれました。足にも手にも障害が出ていましたが、治療を続けたおかげで病気はちゃんと治りました。いろいろと考えて、病院の近くの定着村で暮らすことにしました。母とは離れて。私は手にも足にも障害があるからできないことや、気をつけなくちゃいけないとがたくさんありますが、入院している間に刺繍や裁縫を教えてもらいました。エチオピアに昔から伝わるカラフルな刺繍。村で暮らし始めてから、一生懸命に働いて、この刺繍と裁縫で生計を立てられるようになったんですよ。誰にも頼らずに、自分で稼いで、自分の力で生活ができるようになったんです。
 エチオピアの女性は、残念ながら社会的地位も家庭の中の地位も高くありません。ハンセン病にかかった人の多くは、同じ病気にかかった人と結婚しますが、そういう家庭でも女性は弱者なんです。男性は外で働き、家に収入を持って帰ってくるから家庭の中での地位が高く、女性は家で家事や育児に追われますが、現金収入は夫に頼らざるを得ないので、どうしても家庭内での発言力は小さいのです。だから女性の地位を向上するために、アディスアベバの女性たちを集めて、刺繍や裁縫を教えました。かつて私が教えてもらったことを、他の女性たちに広めているのです。そして刺繍や裁縫ができるようになった女性で、小さなグループを立ち上げました。最初は数人だったんですよ。今ではこのグループは45人の女性が働くようになりました。綿を紡ぎ、織り、クッションやベッドカバー、鍋つかみなんかを作って、これに刺繍をするんです。できたものは販売して、その収入から必要経費を抜いたものを、働いた女性たちが分けます。収入を持ち帰るようになった女性の家庭内での発言力は、うんと大きくなりました。いずれこの活動を、他の町でも広げたいと思っています。


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