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未来を拓く
 ハンセン病にかかると、病気に対する誤った考えや、周囲の無理解のために学校に通えなくなることが多々あります。偏見や差別の対象は、病気になった当人だけに留まりません。ハンセン病患者や回復者が家族にいること、定着村に住んでいることが原因で、いじめの対象となって通学や進学できない子供もいます。また、親が物乞いや慈善に頼った生活をしており、教育費を支払うことができないために、通学や進学できない子供もいます。病気を直接に体験していない世代である子供たちや、その次の世代も、ハンセン病に関する偏見や、ハンセン病が理由の貧困のために、教育の機会を奪われているのです。
 学校に通うことができず、自分の能力を見出し、これを切り拓く機会を持てない子供たちが成長すると、教育を受けなかったために、一般社会で定収入に結びつく仕事を得ることは困難です。このため、その子供たちも季節労働や肉体労働を生業とするようになり、教育と貧困の悪循環が数世代にわたって続くのです。
 しかし、回復者である親は子供たちの教育を重要視しています。自信回復ワークショップでは、どこの国の回復者もが、子供たちの学ぶ機会について、自分たちの働く機会と同様に、高い優先順位をつけています。子供たちが教育を受け、一般社会で仕事を得ることは、親の世代にとっては老後の生活保障になります。また、教育も定職もある子供たちが増えていくことにより、物乞いの村という定着村のイメージは徐々に薄れ、一般社会に溶け込む日がやってくるのです。
 
 定着村には小学校しかないことが多く、中学、高校は村の外に通わなくてはならない。通学距離や交通費、いじめなどの問題から、通学を断念する子供も多い(中国)
 
 子供たちの末来のために、定着村に住む回復者も子供たちの教育を重視している(ミャンマー)
 
社会の役に立ちたい
 
 私の名前はチャリヤ・タマンです。17歳です。ネパール東部シンドゥリ地区で生まれました。私の父は、結婚後しばらくすると、ハンセン病にかかりました。住んでいた村は山奥にあり、近くには病院もなかったので、治療を受けることができませんでした。故郷では迷信や言い伝えだけが知られており、ハンセン病の本当のことは誰も知りません。この病気にかかると、誰もが避けるようになり、人間として接してくれなくなります。どんなに仲がよかったとしても、病気にかかっただけで、人間扱いをされなくなるのです。病気にかかった人だけではなく、家族も差別されるようになります。私たちもたくさん辛い目にあいました。村の誰もが私たち家族を避けるようになり、話してもくれなくなりました。思い出したくないことばかりです。
 治療が受けられなかったので、父の手足の障害は深刻です。母はそんな暮らしを見限ったのか、ある日、私たちを捨てて家を出て行きました。母が出て行ってから、生活はますます悪くなりました。父は働くことができなかったので、すぐに食べるものも買えなくなり、私も妹もひもじい思いをしました。父は私たちに食べ物を買うため、物乞いに出かけました。恵んでもらったお金や食べ物で、私たちに食べさせてくれたのです。
 しばらくすると、村にいられなくなりました。それからは、物乞いをする父と一緒に、町から町へと転々として暮らしました。物乞いの生活は本当にみじめでした。もちろん学校に行くことなど、夢のまた夢でした。1994年にハンセン病支援団体の紹介で、療養所で暮らすことができるようになりました。この療養所で、私のような貧しいハンセン病回復者の子供が学校に通えるようにと、日本の競艇選手の方々が寄付を下さったと聞いたのです。奨学金をもらえるようになったときには、本当に嬉しかったです。奨学金がなければ、学校に行くことなんか、とてもできませんでした。いま私は一生懸命に勉強をしています。そして、いつか学んだことを生かして父を助け、社会の役に立ちたいと思っています。
 
チャリヤ・タマン(ネパール)
 
隔離の歴史
 1873年のらい菌の発見により、それまで世界各地で根強く残っていたハンセン病遺伝説は打ち破られました。しかし感染症であることから、公衆衛生上の対策として、ハンセン病の「隔離政策」が採られるようになりました。患者を療養所に隔離するため、また一般社会の人々をハンセン病の脅威から守るために、各地で隔離が推し進められるようになりました。
 アメリカ・ルイジアナ州のカーヴィル療養所は1894年に開所され、ハンセン病患者が登録され、療養所に隔離されるようになりました。ダミアン神父の奉仕で有名なハワイ・モロカイ島のカラワオ地区では1866年にハンセン病患者の隔離が始まり、1895年にはカラウパパ地区がハンセン病患者の隔離地区と制定され、収容される患者数は増加していきました。アジアでは、フィリピンのクリオン島が1906年にハンセン病患者隔離所として制定され、今でも患者や、初期の医療従事者の子孫が中心となって生活をしています。このような隔離政策は世界的に見られました。ハンセン病療養所や特別病院は、現在でも総合病院やその他の施設として使われていることがあります。
 療養所は外部との社会的な接触はなく、逃亡を防止し、一般通貨の所持は禁止され、所内のみで使える通貨が支給されるなど、全くの別世界として扱われてきました。また、特に隔離政策の施行初期は、薬剤、機材、資材、人材のいずれも充分ではありませんでした。治療のために療養所や特別病院に収容されても、満足な治療が受けられず、患者が患者の看護にあたることも少なくありませんでした。このため、モロカイ島やクリオン島は「生ける死者の島」や「絶望の島」と呼ばれたほどです。日本を始め、アジアの国々にも、一世紀近くに及ぶ隔離の歴史があり、今日の社会に深い問いかけを残しています。
 外来治療が始まり、一般の病院や保健所での治療が可能となり、ハンセン病特別病院や、療養所は閉鎖されていきました。しかし何世紀にもわたって社会の人々の心に根付いてきた偏見や差別はなくなっていません。このため、病気が治っても故郷に戻ることができず、病院や療養所の周辺に回復者が集まって暮らしているハンセン病定着村が、世界各地にあります。その正確な数は把握されておりませんが、インドだけでも1000近い定着村が、また中国にも約625の定着村があると考えられています。定着村で暮らす人たちは、ハンセン病を体験したこと、ハンセン病を体験した家族がいること、ハンセン病定着村に住んでいることから差別を受けています。また、隔離を目的とした療養所の周辺にある定着村は、現在でも交通のアクセスが極めて悪い土地にあることが多いことから、就学や就職の機会は少なく、定着村自体の経済的発展の可能性も限られています。
 病気が治った後も、偏見や差別のために、隔離された状態での生活を余儀なくされているのは日本で起こった差別問題などをはじめ、世界でも同様です。治った人々の生き方・社会復帰もまたハンセン病の非常に大事な問題です。
 
クリオン ―生ける死者の島から―
 世界最大級のハンセン病隔離施設として恐れられたフィリピンのクリオン島には、現在も回復者とその家族、初期医療従事者とその家族が約2万人暮らしています。クリオン島は隔離施設となった1906年より保健省が直轄する療養所でした。しかし1990年代初めになり、クリオンに暮らす人々の中に、ハンセン病というレッテルをはずし、一つの地方自治体として、一般の市民として生きていきたいという気運が高まっていきました。住民による熱心な運動の結果、1992年にはアキノ元大統領によって、クリオンは正式に地方自治体として承認されました。
 クリオンに最初のハンセン病患者が収容されて100年がたった2006年5月に、大規模な100周年記念式典が開催されました。式典の目的は、クリオンが歩んだ100年の歴史を記憶すること、そしてクリオンが踏み出した、一地方自治体としての新しい一歩を称えることでした。クリオンの過去の100年の歴史は、ハンセン病と切っても切り離せない歴史でした。しかし、クリオンはハンセン病に対する差別、患者や回復者に対する差別、療養所であるクリオンに対する差別、そしてクリオンの中での差別、それらすべてを乗り越え、新しい歴史の一幕を開けたのです。
 
隔離の島から自治体へ生まれ変わったクリオン島


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