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七 思案の秒時計
 昭和二十六年六月競走法が制定されるのを待って大村市にモーターボート競走場設置事務所が開設されたが、国内で初めての施行とあって参考となる施設一つなく雲をつかむ様なもので全く見当がつかなかったが、ともかく法律や施行規則等を一日も早く官報で知る以外になかった。処が官報の発行前に坪内代議士の心づかいにより、あらかたの書類が入手出来たので、それをたよりに先ず競走を実施するために必要な施設、備品等を検討している内に吾々の想像もつかなかった直経二mの出走信号用時計が必要であることが判った。色々と検討の結果やはりモチはモチ屋に任せる以外は無いと考えたので当時国内で最も名が売れた服部時計店に照会した処、さすがは天下の時計店だけあって早速見積書が届いたが、何とその価格が百万円以上で、しかもその見積書に弊店で過去に製作した時計は直経二尺五寸余りの時計でそれ以上のものは実績が無いとの註釈が入っていたので果たしてこちらが必要な大時計が出来るかどうか、先ず一番の心配であったが、同時に全く想像もつかなかった高価格でもあったので、いささか驚きもした。いずれにしても施設を徹夜続きの突貫工事で仕上げても肝心の出走用時計が出来なければどうにもならないと思い、考え出したことが友人のことであった。友人松永氏は市内でささやかな鉄工所を経営し仕事に対しては研究心と責任感が強く実直な方で実用新案等についても常に深い関心を持った方で後日選手の養成は勿論競走の実施についても審判員として積極的に協力し、いちじるしく功労もあったが、競走場設置のいきさつや、秒時計の緊要性を打ちあけた処、非常に共鳴し、彼が喜びつつ話してくれた秒時計新作の原理が機械をなまかじりした私にもなんとなく判る様な気がして半ば安心感がわかないでもなかった。何事も結論を聞くと、たやすい事の様に思われるのが通例で、本件も、ただモーターの回転を数段のギヤによって落すことであったが、その場合時間の刻みが正確であるか、秒時計として果たして実戦に役立つか、いささか疑問に思われないことでもなかった。それはとも角として何とかして一日も早く造り上げることが先決であったので、直ちに試作に取りかかることにした。松永氏の見積りでは概算で十一万円〜十二万円、材料が現物支給ならば、五万円〜六万円といい、服部時計店と比較して物すごく安価であったが、服部が高かったわけは秒大時計については初めてのことで見当がつかなかったものと考えられた。幸い野球スタンド建設時の残材があったので骨組となるL型鋼を現物支給して徹夜で作業にかかり、苦心の末、漸く出来上がりテストの結果、思いの外の出来ばえで当時の競艇にはなくてはならない重要なものとして使用されるに至った。この時計こそわが国はもとより世界でも初めての大型秒時計の誕生といえるであろう。
 
八 コースとマークのあれこれ
 そもそも遊びごとは、すべて一定のルールにより進められるものであるが、競走と名のつくものには、数点を線で結んだコースか、或いは円型によってコースを設け、そのコースを折り返し、又は廻って早さを競うものであることは今も昔も変わらない処である。ところが新たに発足したモーターボート競走に於ては水面上でのターンによりレースを行なう競走で、日本では初めての実施とあってなかなか名案が浮かばず、あれやこれやと種々検討がなされたが競技実施に当っての細かな点については、さらに数艇を実際に走らせ検討しなければならない問題点も残ったので最終的な検討をするために、運輸省山岸担当官が最初に実施の準備に取組んでいる大村を訪れ最後の仕上げをなされることになった。ところが担当官の来大を待たないで全連関係者を中心とする地元関係者はレースのスリル感や事故防止等について連日真剣に検討なされ、その結果レースについては丸型、四角型、三角型、直線等が考えられたが、丸型となれば全く直線が無く、終始円をえがいて廻らねばならず、追抜き等も見られぬ単純なレースに終わり、スリル感にとぼしいことが考えられた。四角の四点マークにしても四点を廻ること自体に大きな円をえがくため丸型コースと殆ど変わらない廻り方をしなければならなくなり実際走って見るとこれもスリル感に乏しいことがわかった。三点マークの三角コースにいたっては四角や丸型のコースと比較しスリル感は倍加されるが、スタンドと並行の一辺のコースのみ観戦が出来て他の二辺は殆ど見られず観客第一主義の本事業の性格からも好ましいコースでなく、且つ審判の判定上にも支障を来たすことが考えられ、最終的には二点マーク直線コースが取上げられることになった。それと並行してターンマークの作製にもあらゆる工夫がこらされ何回となく作り替えられたが前例の無い競技のターンマークであっただけにこれ又、想像以上の障害があった。最初は四斗入りの醤油樽に約三分の一余りの砂を詰めて浮かべ、真中に旗を立てて使用したが、一ヵ月も経たぬ内に水が入り沈んでしまい、マークの役を果たさなかった。水洩れのことも考慮に入れて次に考えられたものが孟宗竹を四尺余りの長さに切り、八本宛を縦、横交互に三段重ねてシュロ縄で締付け真中に旗を立てて使用してみたが接戦で艇がマークに乗り上げ浮力が余って一人でどうしてもおろすことが出来ず救助艇を繰出すなどの手ごみでこれも考えざるを得なかった。そこで自動車のチューブをムキ出しにして、その上に木製の四角錐を乗せ旗を立てて使用して見たが、ターンの場合、チューブが薄いために破れそのまま巻込んでしまうという欠点で理想とするものはなかなか出来上がらなかった。やはりぶつかってもこわれず、破れず、しかも艇に損傷がないものとして、あれや、これやと幾多の研究を重ね工夫さんたんのあげく考えられたものが自動車用タイヤ二個を重ね、上に鉄板製の円錐型を取付けた現在のターンマークが出来上がったのであったが、これも競艇史上忘れられないもののひとつであろう。
 
九 当て外れの英文ポスター
 大東亜戦争で日本が敗れ終戦を迎えるや連合軍がいち早く進駐するところとなり、本県においても長崎、佐世保、相浦、大村等の要所は総て赤毛、青目と黒色外人部隊の領土と化し、敗戦のみじめさと殺ばつさを感じさせたが、平静を取戻すに従い、進駐軍も次第に引揚げ、モーターボート競走を実施する頃は全員が引揚げて漸く元の大村の姿に戻ることが出来た。然るに長崎、佐世保、相浦等の要所には依然として駐留し、外人専用の商店、バーも軒を並べて出来る外人ブームが巻き起った。
 市に於てはこの機をあたかも当て込んだ如く、競艇に取組んだために先ずはどうあっても、フトコロ具合が良く、然も冒険を好む長崎、佐世保の外人を引きつけなければとたくらんだのが、そもそも英文ポスターの始まりであったが、ファンの層にいささか当てが外れ、ことさらに英文ポスターの必要性も感じられないままにその後立消えとなったのであった。
 
十 自信をつけたアマチュア大会
 七月五日競走会が創立されて以来、大村へ本決まりとなった八月下旬までの約二ヵ月間というものは全く紆余曲折まとまる処を知らずという感があったが、会長が大村決定を表明された後に於ては一日も早く競走を実施する方向に急ピッチで話が進み、市に対し九月中に是非競走場を設置するようとの要請があった。逐次準備は進めつつあったものの咄嗟の要請に土地の交渉から埋立ての手続等いささか面喰った。特に必要な土地の使用については所有者であられる旧藩主大村家が東京存住であられたために事前交渉もなされぬまま、手前勝手に決め手を打つ等の不手際もあったが、身に余る御理解の下に市長は直ちに議会に諮り了解を求める等、すかさず手を打たれ真剣に取組まれたので、事務局としてもこれだけは万難を排してやりとげなければならない大事業であった。光部組の好意的な計らいにより徹夜作業で土地の切り取りと埋立ても進められ、スタンドその他の施設等も全力をあげて仕事に取組み、間に合わせることが出来たが、坪内会長の言に反してレース実施の見通しは全くつかなかった。地元新聞の世論欄には毎日の如く、レースはいつやるのか、レース場は海草が繁ってレースは出来ないぞと待ち焦がれて激昂した空気が漂った。たまりかねた会長は全連と交渉させるべく三浦理事長をして二ヵ月余りに亘る長期出張を認めて上京させ、当局に対し強く交渉させたが発足当時の連合会に於ては複雑な事情等もあったものの如く、願いは中々かなえられなかった。市長はいたたまれない気持で思案したあげく一日も早くアマチュア大会を実施して幾分でも市民の忿懣を和らげたいと固い決意をされた。ポスターや宣伝ビラも一夜づけで作り上げなければならなかったので、停電時に自転車を部屋に持込んでペタルを踏みながらそのライトの光でかろうじて手探りで仕上げるという場面もあり、又書類を復写するにしても雨続きで陽画紙の感光が出来ないため、二百ワットの電球をともし、その光で感光させる等、全く泥縄式の数々があって笑い草となったが、市職員の精鋭をすぐって十一月二十五日を期し、高らかに鳴りひびく、ドラの音を合図にアマチュア大会の火ぶたを切って落したのであった。出場選手の家族、親せきはいうに及ばず生まれて初めて見るモーターボート競走大会に期待をかけた近郊一円一万余名の観客は、飛沫を上げて猛スピードで突走るモーターボートに目を見はり、われをわすれての熱援は前代未聞歴史の第一頁を飾るにふさわしい記念レースとして盛会裡に終わることが出来たのであったが、前途はあんたんとして、さすがは自他共にあやぶまれた大事業の門出だけに関係者に対する監督諸官庁の心づかいも実に慎重そのものであったにもかかわらず、ものの見事にのり切り成功させたことが競艇界のテストケースとなり事業実施に踏切るための大きな道しるべとなったことであろう。
 
十一 出走合図にドラが一役
 出船の唄の文句じゃないけれど出港の時にドラを打鳴らして壮途を祝し、志気を鼓舞したのであろうが、外国との貿易が早くから開かれたわが長崎においては中国人の往来も激しく中国人だけが住む支那町さえ生まれるという実にアチャラさんの多い街である。それだけに中国に因んだ建物その他色んな中国風の風習等も残っており、その中の一つとしてぺーロン競走がある。このぺーロン競走に使う舟は幅が狭い上に肉薄で細長くしかも前がいちじるしくそり上って、見るからに早そうな型をしているが、この舟の両側にコギ手が腰をおろして座り、両手でカイをかき速さを競うもので、コギ手の調子を整え、志気を鼓舞するために太鼓とドラを力強く打ち鳴らし、水しぶきを上げてかき進む壮観さは実に勇壮そのもので、見る者をして海の子のたくましさを感じさせたものであるが、さらに豪快なレースを展開するモーターボート競走に於てはファンの心をいさみたたせることが肝心であることから考え出されたものがぺーロン用ドラの使用であった。
 ピットを離れるボートの爆音と共に威勢のよいドラの音がマイクから流れて、やがて真白の飛沫を上げた六つのボートが一斉にスタートすれば数千の観衆はわれをわすれてカケ艇に声援を送った。場所こそ変われ、競走こそ異なれど、ボートにドラを用いたことはまさに名案であったが、その後ドラも廃止されて名曲軍艦マーチに変わり今日に及んでいるもので、今もなお、大切に保存されたドラを見るたびに大役を果たした当時のことが思い出されてならない。


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