日本財団 図書館


箕面市
 箕面市は、東経百三十五度二十八分三十五秒北緯三十四度四十九分十五秒に位置し、東西七・一粁米、南北十一・七粁米、海抜最高六百三十三米、最低四十六・二米、総面積四十八・三五平方粁となっている。本市は、明治二十二年四月一日町村制の制定に基づき、箕面村、萱野村、止々呂美村、豊川村として発村、昭和二十三年一月一日箕面町制施行、同年八月一日箕面町萱野村、止々呂美村が合併、昭和三十一年十二月一日三島郡豊川村を合併して市制が施行されて今日に至っている。
 本市は、大阪府の北部に位置し、名勝箕面公園を有する文化観光都市として発展、近時は大都市大阪の衛星都市として、また昭和四十五年に開催される日本万国博覧会会場を東に控え、宅地の造成、住宅の建設等が進められ急激な発展を見るに至り、合わせて交通機関の発達に伴い大阪の都心から僅か短時間で到達する近代的都市へと脱皮しつつある。また名勝箕面公園は、大阪の幽谷境として大阪府民最大の「憩」の場所であり、その風光明媚は自他共に認められているところである。また勝尾寺を中心とした山岳地帯は、昭和四十二年明治百年記念事業の一環として「明治の森、箕面国定公園」に指定され、その名声は全国にとどろき名瀑、紅葉、野猿、渓谷の自然美を観賞する観光客は年間百二十万人を越えている。そして、今一つは競艇の生みの親、育ての親である日本船舶振興会並びに全国モーターボート競走会連合会の会長である笹川良一氏の出生地である。本市では、氏を名誉市民に仰ぎ、偉大なる功績をたたえるとともに大いなる誇りとしており、誠に競艇には縁の深い市である。
 さて、本市における競艇の歴史は、昭和二十六年六月にモーターボート競走法が制定されたことから始まる。それは戦後の荒廃から立ち上るために財源を必要としていた地方自治体の財政の改善と、四面が海に囲まれた日本の海事思想の普及、造船工業の振興による輸出の増進等に寄与することを目的としたものであった。いち速く大阪府下では昭和二十七年九月金剛山系の麓にある風光明媚な南海電気鉄道高野線沿線にある狭山遊園地に所在する狭山池において、その産声をあげ、大阪府都市競艇組合主催のもとに初レースの幕が花々しく切って落されたのである。かかる状況下において、本市は昭和二十三年八月、合併による新町建設計画を策定し、教育、観光施設の整備及び道路の拡充並びに住宅建設の推進をはかった。しかるにこれが実施については莫大なる財源を必要としたが、大都市周辺の町として財源極めて乏しく新町建設計画の実施は極めて困難なことであった。こうした見地から、これが財源確保の方途として昭和二十八年十二月本市は豊川村とともにモーターボート競走の施行を申請し、施行権獲得の第一歩を踏み出し、昭和二十九年八月七日待望の認可が自治庁告示第三十五号により決定され、ここに一町一村の箕面豊川競艇組合を設立したのである。本市競艇事業の歴史を飾る第一歩は昭和二十九年十一月十一日、大阪府南河内郡狭山町の狭山競走場において輝ける初開催を迎え、町村民一同、一喜一憂のうちに開幕されたのである。
 この本市開催第一回第一節の売上金及び入場人員は次のとおりである。
 
開催年月日 売上金 入場人員
昭和29年11月11日 1,906,100円 983人
 〃  11月12日 1,495,130円 1,026人
 〃  11月13日 2,200,000円 996人
 〃  11月14日 3,713,000円 1,911人
 〃  11月15日 2,334,300円 1,126人
 〃  11月16日 2,958,700円 1,356人
合計 15,116,600円 7,398人
 
 開催第一節(六日間)一日平均売上金は二百五十一万九千四百三十三円、入場者一日平均千二百三十三人という成績であった。この珍しい競走の誕生は、静かな田園町にこだまするモーターの爆音に、野良仕事に精出す人も、ひととき手を休め、道行く人々も思わず立ち止まった。ここに苦労話の一例として、当時は無料バスを難波まで繰出し宿屋の番頭よろしく「見るだけで楽しい、狭山池の競艇へどうぞ。狭山競走場行きの無料バスでございます」と客引きをしたものである。しかし当時は大衆のモーターボートレースに対する関心度の低調および交通の便等、場所的な問題もあったことにより、開催の都度、赤字が増加累積される状態であった。また一方競走場として使用した狭山池は、農業用水が本来の目的であり、面積十万平方米、周囲約四粁の「府下最大の溜池」とはいえ、渇水期には水位の下がるのが目に見え、レースの間隙を縫って、ピット、ターンマークの移動等、競技面においても筆舌には尽し難い苦難の連続であった。その後一進一退の売上経過をたどるうち、昭和三十年一月第一節の売上金は一躍三千百二十九万七千六百円となり、入場人員も一万三千六百十八人と初開催当時に比べ二倍強の成績を収めるまでに発展した。しかしながら、関係者の努力も空しく、開幕当初からの赤字の累積は莫大な額に上り、競艇事業の維持を困難におとし入れ、その存続すら危ぶまれる状況となった。初開催から昭和三十年度末まで使用してきた狭山競走場ではあるが、立地条件等を考慮した場合、このまま狭山で競走を続けることは、業績不振をばん回する余地がなく、これがために大阪競艇施設株式会社を中心に関係者一同競走場移転の必要性を痛感、昭和三十年早々に現競走場(住之江競走場)への移転説が話題に持ち出されたのである。
 昭和三十年度の年間売上金及び入場人員並びに一日平均売上、入場人員は次のとおりである。
 
年間売上金 年間入場人員
240,090,300円 182,036人
一日平均売上金 一日平均入場人員
2,697,644円 2,045人
 
 その後昭和三十一年六月大阪市の南端、大阪市住吉区南加賀屋町百九十一番地の護国神社横に巨額を投じて「住之江競走場」を竣工、本市も移転後第一回初開催を昭和三十一年七月六日に開幕、第一節四日間の売上金合計千八百五十九万八千七百円、入場人員、七千八百七十六人と、まずまずのスタートを切った。その当時は住之江競走場もご多聞にもれず、周囲の環境衛生非常に悪く、メタンガスの発生するドブ池であり、附近は至る所に蚊やハエの発生する湿地帯で、夏などは特にひどく、天井からハエがひろげた弁当の上へころげ落ちるという状態であった。また一度降雨があれば泥沼と化し、加えて附近には養豚場があって、数千頭の養豚の臭気が甚だしくファンの寄りつきも悪かった。ここで関係者はこの悪条件を打開するには施設の改善が第一義であると判断、鋭意、施設改善に努力を注いだ。
 昭和三十一年度の年間売上金及び入場人員並びに一日平均売上、入場人員は次のとおりである。
 
年間売上金 年間入場人員
227,247,000円 57,738人
一日平均売上金 一日平均入場人員
4,544,942円 1,154人
 
 昭和三十一年度は前年度よりも開催日数が少なかったにもかかわらず、平均一日売上金は向上したのである。なお本市は昭和三十一年十二月一日に三島郡豊川村を合併のうえ市制を施行するに及んで、箕面豊川競艇組合を解散、箕面市営として昭和三十一年十二月二十二日単独開催の第一歩を踏み出したのである。そして単独開催を施行するに及んで売上成績は向上のきざしが見え始めたが、過去における箕面豊川競艇組合当時の累積赤字は、すべて箕面市に引継いだのである。したがって当時の関係者は、この累積赤字の解消と競艇事業の発展対策につき日夜種々検討論議をし、宣伝広告強化及びファンサービスの徹底並びに施設の充実等に総力を傾注したのであった。
 昭和三十二年度の年間売上金及び入場人員並びに一日平均売上金、入場人員は次のとおりである。
 
年間売上金 年間入場人員
420,414,700円 111,098人
一日平均売上金 一日平均入場人員
5,921,333円 1,565人
 
 売上金上昇の気運は、顕著に現われはじめ開催を重ねる度に向上した。なお昭和三十一年「競艇事業を振興し、あわせて競走法の趣旨達成に協力すると共に、会員相互の連絡親交を図る」ことを目的として、近畿海運局、大阪府都市競艇組合、箕面市、大阪府モーターボート競走会及び大阪競艇施設株式会社の五団体により「大阪競艇振興会」を設立して競艇事業発展に貢献することとなった。また昭和三十三年、都市競艇組合、競走会、施設会社及び箕面市四団体において、ファン誘致対策について英知を集めた結果「競艇友の会」を設立し、会員に対し、一年間の無料パスの発行、無料入場券を貼りつけた宣伝マッチの配付等を実施するとともに、執行本部から隣り合わせの競輪場(現在の住之江公園)を双眼鏡でのぞき電話でレース終了を確かめて競輪帰りのファンを呼び込むといった苦労を重ね、その上レース終了後、関係者一同整列して、ファンに対して「有難うございました」と頭を下げ、ファンの誘致、獲得に奮励努力したのであった。しかし悲しいかな競輪ファンば必ずしも競艇ファンではなく、乗客は一応無料バスの手前競艇場前で下車、顔をそむけるようにして、競輪場へと足を運ぶといった誠に情けない苦難の時代であった。昭和三十二年、月間開催日数が改正され、大阪府都市競艇組合八日間・箕面市六日間となった。
 昭和三十三年度の年間売上金及び入場人員は、次のとおりである。
 
年間売上金 年間入場人員
447,748,400円 147,720人
一日平均売上金 一日平均入場人員
6,218,727円 2,052人


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION