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競走会事務所移転(二七・一一・一五)
 レース場が津市にある関係上事務連絡に不便を来たし法定手続をとり左に移転した。
三重県津市大字八丁三四六番地
 この時移転登記手続に手続上の誤りがあり民法違反事件となり当時の理事長安保正敏氏外五名の役員がその責めを問われたが、それに対して「処罰しない」と裁判所より裁定がなされた。
 
十三号台風(二八・九・二五)
 二十五日夕刻より暴風雨となり、加えて高潮が重なり、ために男子職員は非常態勢に入り全員待機、総力をあげて防災に努めたが競技本部を初め主審、副審、大時計、投票所等が全半壊されレース実施不可能になった。あわせて海岸堤防は各所で寸断され海水が市内低地をおかすこと一ヵ月余りに及んだ。このためレースは十一月二十日迄自粛休止した。
 
理事長が会長制に改められる(二八・一〇・二五)
 創立二周年を迎え競走法の趣旨に副い努力して来たかいがあって業績も逐次向上、更に一層の飛躍発展を期するため理事長制を今一歩陣容を強化して会長制に改めた。
 初代会長 猪熊信行
 
第一回東海地区選手権大会前夜祭(三〇・三・一八)
 三重県において第一回東海地区選手権大会を行なうこととなり、その前夜祭が午後六時より中央公民館において盛大に行なわれた。この時、出場選手四十名の紹介につづいて染井四郎、喜味こいし、夢路いとし等多数の芸能人を招いて開催された。
 
津競艇水難救援奉仕隊結成(三〇・七・二一)
 競走会副会長西山良一氏が本部長となり、水難にあたって平素の水に対する知識と経験技術を活用し統制ある活動のもとに迅速、適切な救助作業を行なう。
(注)奉仕隊は三十年七月二十八日橋北中学校生徒の水難救助、三十四年の伊勢湾台風等その都度活躍した。
 
オール女子レース開催(三〇・一一・二〇)
 午前九時選手は宿舎“さちなみ”を出発、宣伝車を先頭に行進曲を放送し乍ら徒歩にて市中を行進、塔世橋−立町−大門通を経て消防署前で選手宣誓式を行ない、岩田橋まで行進し、それよりバスで阿漕競艇場に入り入場式を行なった。
 
第二回全日本競艇記念レース開催(三一・一〇・一七)
 津市の大祭と並行して第二回全日本モーターボート記念レースを実施、この宣伝を兼ねて特別行事として撮影大会歌謡曲、ミス津競艇投票等数々の多彩な行事を盛込み盛大にレースが開催せられた。
 
伊勢湾台風(三四・九・二六)
 台風十五号(伊勢湾台風)によって受けた三重、愛知、岐阜三県の被害は史上空前と称せられるものであった。この日午後より次第に風雨を増し、三時頃より競艇場施設の被害が出初め第一副審が流失、屋根が吹き飛び主審の土台下がえぐられ、また打ち上げて来た漁船のため投票所等が破壊された。これがため東海海運局長より一般罹災者のことを考え、少なくとも十月中は競走の開催を見合わせるよう特に要請があり休止した。
 
被災激甚地の救助に協力
 三重県非常災害対策本部長の要請により、桑名市を中心とする北勢災害地救援のため競走会、施行者、選手会で結成する水難救援奉仕隊は、C級ボート並びにエンジン四隻を陸上輸送し救援隊は他の救援団体と共に数日間長島町木曽岬村方面に野営して食糧品、医薬品の輸送、巡回医療の交通に従事した。その後更に十月に入って県警本部長の要請により増員派遣し機動力により縦横に一糸乱れぬ活躍をし感謝された。
 
[故西山副会長の競走会葬](三六・一一・八)
 競走会創立以来十年余、今日の競走会を育てて来られ、またモーターボート業界のために尽力せられた競走会副会長西山良一氏は昭和三十六年十月二十二日逝去せられ、松阪市の本覚寺において笹川連合会長を始め関係者、一般多数参列のもとに、しめやかに葬儀がとり行なわれた。
 
伊勢神宮において職員研修会を行なう(三七・三・一六)
 競走会職員全員は午後四時伊勢市駅前に集合その日の宿舎である中村旅館で夕食後伊勢市青年会議所の係員より講話を聞き、西島副会長の時局講話、精神訓話を拝聴午後十一時星を仰いで宿舎を出発、暗夜玉砂利を踏んで内宮神前に業界発展を祈願し十七日午前一時頃宿舎に帰り全員眠りにつく。午前四時半起床外宮に参拝し終えた時、東の空が白み初めてきた。
 その日は鳥羽の真珠養殖場、イルカ島等を見学鳥羽琴平宮に無事故を祈願し意義ある研修会を終了した。
 
モーター部品の多量損障事故の発生(三七・七・・・・)
 競走用モーター更新の直後使用燃料の適正を欠いた(製造者側の結論)のが原因でクランクシャフト三十二本、コンロッド七十六本が異状損障を生じ、これが損害の責任について協議の結果、競走会と施行者とで半額ずつを負担した。
 
競走会事務所完成(三八・二・一四)
 贄崎レース場に近接して競走会事務所(木造瓦葺二階建)が新築落成し新町一番町より移転した。創立以来今回共に四回の移転は下の通りである。
昭和二十七年 松阪市から津市八丁
昭和二十八年 津市八丁から津市大門町
昭和三十一年 津市大門町から津市新町
昭和三十八年 津市新町から津市贄崎町
 
レースコースの浚渫(三八・四・八)
 先に行なわれた津港航路浚渫工事の排泥と異状干潮が重なりレースコースが非常に浅くなり、レースを一時中断して潮を待たなくてはならぬ事態が発生したため急遽浚渫工事がはじめられた。職員も浚渫業者のみに依存していてはレースに支障を来たすと、結論が出され交代で浚渫船に同乗、徹夜で作業に協力し、昼間はパンツ一枚になってジョレンで河底の泥土を少しでも除去すべく努力を重ねた。
 
第一回少年少女ゴムボート大会(三八・七・七)
 競走会、津市、日本モーターボート協会三者の共催で市内福祉施設の児童五十余名、外に従業員子弟百名を招待しゴムボート競技大会を催した。長さ約三米の、コム製ボートに二・五馬力の船外機エンジンを装着し二人一組として一周二百米コースを一周した。参加児童には参加賞として記念徽章並びにプラモデルを与え、付添父兄には簡単な昼食を支給した。第二回は三十八年八月十八日実施し市内小学生百五十名が参加した。
 
競技部における不祥事故の発生(三九・五・三〇)
 贄崎競走場内(レース開催中は閉鎖した市道)に駐車中の一従業員の自家用車を出場中の選手が汚損したとの理由で、その従業員が選手を殴打する事件が発生した。
 更にその後九月六日に関係者の一人が一選手に対して不正レースを強要(未遂に終る)するという事件が生じた。これがため場内取締及び選手管理に欠くるところがあるとして、当局並びに連合会より強く警告を受け直ちに改善がなされた。
 
選手宿舎の経営(四〇・三・二八)
 従来選手宿舎は、鈴木洋子氏経営の“潮”(さちなみ)を専用してきたが、この建物を競走会が借りあげ「三重県モーターボート選手宿舎」として経営することになった。
 
座礁船によりレース中止(四〇・一二・四〇)
 レース開始前「松風丸」(塩二五〇トン積載)が第一ターンマーク附近で入港に際し折柄の干潮時で座礁した。警備船「あさかぜ、神永丸」の二隻が離礁さすべく努力したが出来ず選手にレースコースを試走せしめたが、レースに支障があるとの意見であったので当日のレースは中止した。
 
善導運動
 日米安全保障条約改訂時期の一九七〇年危機にそなえて業界一丸となってこれを乗り切るべく善導運動が開始された。その一環として、津市商工会議所大ホールにおいて競走会職員とその家族、三重県選手並びにその家族を集めて競走会副会長西島好夫氏の時局講演の後『日本丸航海記』『伊勢神宮』を上映、昼食を共にして解散した。この善導運動は今後も続けられる模様である。
 
創立十五周年記念式典(四二・九・三〇)
 都合により約一年遅れてレース場開設十五周年に合わせて競走会の記念式典を市町村会館において盛大に挙行した。この日、笹川連合会会長を初め知事代理、市長、海運局長各地競走会長等百数十名の名士の御臨席を賜わり十五周年を記念するにふさわしく、いとも盛大に挙行された。
 そのあくる日は開設十五周年の式典をレース場で行ないバトンガール、ブラスバンドを先頭に競走会、施行者職員出場選手の全員一糸乱れぬ入場式にファンを魅了せしめ、はなばなしくレースは切っておとされた。
 このレースの優勝者は五九六番 瀬戸晴雄(香川県出身)
 
レース場移転問題(四三・〜)
 初開催以来十六年間岩田川口において漁船の航行、干潮浮遊物等種々の問題をかかえて実施して来たレース場もファンの増加に従って狭くなり、全国水上施設統一基準問題と合わせて新レース場を建設する運びとなった。
 
競走会選手宿舎の建設(四三・〜)
 ある時は旅館に、ある時は専用宿舎に委託し、またその建物を借り受けて競走会直営宿舎等、旧殻を破ってレース場の移転にともない鉄筋建築による最も新しい設備の宿舎並びに事務所を建設するため役職員全員が努力して居る。完工は新レース場完成と同時に新事務所、新宿舎に移転する予定である。


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