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競艇沿革史

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


社団法人東京都モーターボート競走会
名誉会長 笹川良一
 
会長 藤 吉男
 
モーターボート競走法の成立と東京都モーターボート競走会の設立
一 モーターボート競走法成立の頃
 現在モーターボート競走を施行している地方公共団体は都道府県二団体、市町村百六団体である。年間の総売上高は、昭和四十二年度決算で約二千億に達し、地方公共団体が得た収益は、百六十億円に上っている。売上の増加に伴い収益は年々増大しており、地方財政収入に占める比率も高まる傾向にあるが、戦後数年地方自治法の制定により中央依存を改め、地方自治の再建と地方財政の改善をはかるために各方面での新しい財源の確保が必死でさがしもとめられていた。
 昭和二十六年といえば、すでに競馬、競輪、オートレースが開催されており、その良否が世間に問われ、又新しく「ドッグレース」「ハイアライ」などの競技が先をあらそって法案通過の猛烈なる運動を展開していた。地方財政の改善については、競馬、競輪の実績もあり、相当な収益をあげ得ることは予想されていたが、この時期において出願されたモーターボート競走の実現は、一般には極めて困難であろうとみられていた。
 しかし、業界関係者の総力を結集した努力の結果、ドッグレース、ハイアライ等を凌駕(りょうが)して法案は成立し、以来モーターボート及び船舶関連事業の振興と海事思想の普及ならびに地方財政への寄与等について 偉大なる実績をあげつつ今日にきたことは衆知の事実である。ここに先人の苦労をふりかえって、今更ながら数々の苦心に対して深い感激と感銘を覚えるものである。
 昭和二十五年五月六日、神奈川県逗子の海岸で、戦後初めての日米アマチュアボートレースが開催された。この時のレースは、スタートもそろわず着順も観客にはよくわからないようなレースであったといわれているが、モーターボートレースが水に関係ある競走であるというに止まらず戦後の平和的気分が横溢するかのように海岸には数万の観衆が集まる盛況をおさめた。
 この催しは、渡辺儀重氏(元会員)が中心となって開催されたものであって、実に、これこそが今日のモーターボート競走設立の芽ばえであった。
 その後、同年十月八日に逗子とほぼ同じメンバーで江戸川において第二回日米対抗レースが行なわれた。この時は佐藤富一郎氏(元江戸川区長)、田辺英之輔氏(前副会長)等の手によって行なわれたものである。当日、小松川橋から上流は人でうずまり、新聞では十万人の見物客が集まったと報ぜられた。
 一般に、モーターボート競走といってもどのようなものであるのか知られていなかった状態から、この種の催しが重ねられるうちにモーターボートに対する認識も深まり、昭和二十五年に入る頃から公営競技化への気運が高まっていった。
 モーターボート競走の生みの親、育ての親である笹川良一氏(名誉会長)は、A級戦犯として巣鴨に捕われの身となっていたある日、「雑誌ライフのぺージをめくっていてふと気づいたことは、アメリカでは軍よりモーターボートの方が人気を集めているということだった。敗戦に打ちひしがれた日本人だが、このままではいけないし、将来の大計を立てなくてはと思い、海運立国を考えていた私のイメージのなかに海とボートといった感覚が奇妙に結びついてきた。これを競馬のように一諸に走らせたら面白い競技がみられるのじゃないだろうか」と思いついた。
 一方、モーターボート競走を競輪と同じく舟券を発売してプロレース化することを独自に着想されていた福島世根氏(元副会長)は、国会関係者に働きかけていたが、ある日、村田省蔵氏に相談をもちかけたところ、「その趣旨はまことに結構だが、これは大変むつかしい仕事だ。成功させようと思うなら笹川良一先生に相談してみなさい」と勧められた。
 福島氏は、早速笹川氏を訪ねて尽力を依頼したところ笹川氏は「四面海をめぐらした島国のわが国では、国民は海によって活き、海に発展してゆかなければ伸びる道はない。それに国民の海事思想の普及と科学知識の向上が何よりも大切だが現在の国民は戦いに敗れて萎縮してしまっている。これは一つモーターボート事業を興して青年の意気を振興し、国家のお役に立てるよう努力しよう」と快諾された。
 当時、笹川氏は先に述べた通りA級戦犯として公職追放中であって表面だった活動はできなかったので、かねてより親交のあった矢次一夫氏に話をされ、矢次氏を表面にたてて準備活動を進めた。このようにして笹川氏を中心として公営モーターボートレース実現への動きは次第に活発になっていった。
 昭和二十五年の暮、笹川、矢次、福島の三氏は運輸省に壼井海運総局調整部長を訪ねてモーターボート競走法の立案と法制化を依頼した。運輸省は早速、立案にかかったがこの種の法令を扱ったことがなく、全く見当がつかないということであった。ところが笹川氏は、すでに下書きを用意していて福島氏が各条頂について説明と意見を述べるといった状態であった。こうして運輸省にとっては、誠にめずらしい法律案ができあがったのである。
 モーターボート競走の公営競技化が発案されて以来数年がたち、全国各地で実際に競走を始める準備もようやくはじまった昭和二十六年三月十二日、モーターボート競走法案は自由、民主、社会の三党の共同提案で第十国会に提出された。審議は翌十三日の運輸委員会に委託され、三月二十四日参考人の意見を徴した上、衆議院は可決通過した。
 しかし、参議院においては、運輸委員会においてすらその通過が危ぶまれる状態であったが、ようやく六対五の一票の差で委員会を通過し、会期の最終日に本議会に上程された。だが、本議会では、白票すなわち賛成者は六十五、青票すなわち反対者は九十五で三十票の差をもって否決されてしまった。ついに「ボートは沈んだ」といわれ関係者一同が落胆したのはこのときであった。昭和二十六年六月二日参議院から否決の通知が衆議院に出された。
 この時、モーターボート法案成立の本部事務所は、銀座七丁目一、現在のヤマトビルである銀座ストアーの階上、笹川良一事務所であった。
 吉松正勝氏(大阪府モーターボート競走会副会長、本会会員)は、当日のことを後日次のように語っている。
『駄目だ、とうとう否決だ!』
 参議院本会議から帰ってきた矢次がドアを開けるなりいった言葉がそれであった。
『えっ!否決・・・』
 秘術をつくした工作に一縷の望みをかけていた私は、思わず椅子から立ち上がった。
 その私の驚きを見やりながら
『そうか、やっぱりねェ、仕方がないよ、ハッハッハッハッ』
 と笹川氏は哄笑した。
 しかしこの時、幸いにも「北海道開発法案」を成立させるため、政府は会期を三日間延長することにした。
矢次『衆議院で復活さす手は残っているがねェ・・・』
笹川『それだ、衆議院に取り戻して三分の二以上で可決すれば復活する規則になっているんだが、まだ一度も前例がないらしい』
矢次『この放れ業を成功さすのは、和尚を動かす以外にない』
 和尚とは、絶対多数の与党自由党を牛耳る当時の総務会長広川弘禅氏のことである。
 瞬間私は、現在東京都競走会会長藤吉男氏と広川氏との交友が脳裡に浮かんだ。
 東京都モーターボート競走会会長藤吉男氏は、当時全国勤労者同盟の全国組織という政治的活動を行なっていて、公営競技については、立場上むしろ好ましくないと批判的でさえあった。しかし、その事務所が笹川氏の事務所と同じであった関係もあって、法案が参議院で難航し、遂にボートが沈没してしまうに至る経過は、よく承知していた。そして残る三日間の会期のうちに何とかしてしまわなければならない状態に及んで、笹川氏より何とか尽力せよという命令を受け、その日の払暁、広川邸を訪ねたのである。
 藤会長の言をもってすれば「広川氏を口説き、何とか総務会にかけてもらうよう橋渡しをしただけです」ということであるが、これこそ起死回生―かくして自由党の総務会で再び採りあげられ、戦後の議会史上にない前例を記録して衆議院再審議という非常手段でこの法案は延長国会の最終日六月五日可決成立した。
 この口説は、実はそう生やさしいものではなく、藤会長の不退転の決意が広川氏を動かし、むしろ強引さによって成ったものであって、競艇史上の最大のエピソードとして語れば興味深いものである。
 藤会長は、現在も、この時のことをふり返って「このような非常手段まで取らなければならなかった世論の反響というものを無視する訳にはゆかない。つまりわれわれはこのような厳しい批判の下に無理押しの形で法案を通過させてきた以上は、常に自粛の線を堅持して、社会的な弊害をつとめて抑制し、世間の指弾を受けないよう公正な競走を行なってゆく義務がある」と創成期の難行をかみしめながらも自戒の念を語っておられる。
 又、笹川名誉会長も「競艇がこれまで盛大になるとは正直のところ夢にも思わなかった。それというのも海運立国という大きな目的があったからみんなの力が結集したんだ。軍備のない日本が小さな島国に閉じこもらないで海外に発展するためには海に伸びるしかない。現在、日本の造船界が世界一にのし上がったことで実ってきた。しかし私たちにとってなによりも感謝しなければならないのは一枚一枚の舟券に日頃の疲労をいやしているファンの一人一人です」という競艇報国の精神こそ今日の業績を築きあげた基礎となっていることを忘れてはならない。
二 運営開始にいたる迄の状況
 かくして昭和二十六年六月十八日、モーターボート競走法は、法律第二百四十二号として公布され、即日施行となった。
 法案通過によって、いよいよ実際に競走を始めるため各地では地方競走会の設立を行なっていった。
 東京都モーターボート競走会は、会長岡田忠彦氏、名誉会長中島守利氏をたてて東京都知事の副申を得て、設立許可申請書を運輸省に提出、昭和二十六年十一月十四日正式に設立許可の通知を受けた。次いで十一月二十七日衆議院第三議員会館において第一回総会を開催し、定款ならびに役員選出を議決し、ここに東京都モーターボート競走会が発足した。
 他方、競走場の決定については、競走会設立前から中川放水路、荒川放水路、隅田川、大森海岸、調布町等から競走場設置の希望があった。しかし、運輸省の一県一ヵ所の原則から相当の難所が予想されたが、東京都は他府県と異なり二、三ヵ所は必要として二十七年一月十九日会合を開き検討の結果、大森、中川放水路の二候補地を最良と認め連合会に推せんすることに決定、直ちに事前審査申請書を提出し連合会ならびに運輸省から条件付内示書を得た。
 その後、山名義高氏(元副会長)より杉並区大宮公園の事前審査書を提出、六月二十七日認可されたが、一部地元民の反対のため中止のやむなきに至った。更に宮本求氏(会員)より調布町の事前審査書を提出し、昭和二十八年五月七日認可された。
 大森平和島の用地決定については、昭和二十八年二月、大田区議会で誘地を決定し、地元からも積極的な協力を得て、かつて都議会議員として席を同じくしていた藤会長と吉田直治氏(元副会長)が中心となって競走場設立準備にかかった。その後、五島慶太氏の仲介で京浜急行も加わったが、一時難行し手をひく等のこともあって、大森水上レクリエーションの山名氏に引き継がれることになった。
 昭和二十八年五月十九日、東京都議会において、モーターボート競走実施条例及び大森候補地使用の件が可決され二十九年になり二月十九日に事前審査の認可を得て、直ちに工事に着工し、同年六月競走場は完成した。東京都営による第一回モーターボート競走の開始は六月五日であった。
 宮本求氏は、調布候補地をその後、府中市常久に変更し昭和二十九年二月十九日、事前審査の認可を得て、工事に着手同年六月に完成した。青梅市営による多摩川初開催は同年六月九日であった。
 江戸川は、二十九年十一月事前審査を通過し、昭和三十年八月十二日より開催された。
三 競技運営の開始
 昭和二十九年三月、大森、府中、江戸川、葛飾の四ヵ所開催を目途として審判、検査要員を公募した。
 資格与件として、旧陸・海・空の中堅将校を対象に健全なる肉体と精神の持主であることを第一に、給与条件も当時としては破格の四万五千円以上ということにした。公募の結果は約二百名の応募者があり、大井町田学園で第一次書類銓衡に合格した六十名に試験を実施、二十五名を仮採用して講習生とした。教育計画を立て、藤原専務理事を教育委員長として、三月十五日より訓練を開始し、日本橋のたもとで日朝点呼にはじまる超々軍隊式の特訓がはじめられた。更に三月二十九日より約二週間、浜名湖競艇場を借用して実施訓練を終え、それぞれ審判要員、検査要員と適性別所属が決まると、審判員となるべき十五名は津競走場において、更に実戦レースに参加する最後の訓練を受け、五月九日には全員登録試験に合格した。又放送員も約三百名にのぼる応募者の中から九名を採用し、ここに受託態勢が成った。ひき続き各部門の補助職員を採用して総員九十一名をようして初開催にのぞんだのである。
 しかし、当初の売上予想に反し、大森は、一日六百万円府中は三百万円平均の売上にすぎない状態であって、それに加えて競走場も四ヵ所開催は不可能となり債務は日に日に膨大となって、はじまったばかりの運営も新たな苦難に立ち向かわなければならなかった。
 ここに人員削減と経費縮小のやむなきにいたり昭和三十年二月、約五十二名の職員の整理を行ない、経費の節減を行なった。整理対象者に誰を選ぶか役員会では結論がでずその裁定を委ねられた藤会長の心中は「泣いて馬謖(ばしょく)を切る」の苦衷があったに違いない。しかし、就職先斡旋に奔走された結果、それぞれに連合会、施設会社、埼玉県競走会にと再就職して行った。
 その後、府中競艇はますます不振の一途をたどり昭和三十年三月第二節をもって一応中止し、同年五月、多摩川競艇と改称して再発足した。
 又、東京都は同年八月より開催の江戸川競艇を主催することとなり、大森競艇は九月から府中市営のもとに開催されることになり、ここに今日の三ヵ所開催の体制が、できあがったのである。


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