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社団法人埼玉県モーターボート競走会
設立の沿革
 埼玉県競走会設立については二ツの動機があった。元参議院議員石川一衛先生が浦和の民主党県事務所を連絡所とし、蓮沼市太郎、関柢二、広森宗吉氏等と共に衆参両院議員、県議会議員の有力者を発起人とし競走会設立認可申請の手続きを県に提出した。
 一方戸田市(当時、町)の一部の人々は漕艇協会宮本正常、久保勘三郎の両氏等とモーターボート競走法案が議員立法で国会に提案されることを知り、戸田コースで競艇を施行しようと、まず競走会の設立に着手、金子得(当時町長)氏を発起人代表として申請すべく、阿久津喜三(当時助役)氏をして県内衆参両院議員を訪問せしめ、まず松永東先生(元文部大臣)に相談を持込んだが、いろよい回答がなく、福永健司先生(前官房長官)宅を訪れたところ、これ又即答を避けられたので川島金治先生を尋ね戸田側の考えている実情を説明、協力を求めたところ、始めて石川先生が今、競走会設立のため奔走していることを知らされおそらく県内の有力者は石川方の発起人になっているであろうとの事に失望、止むなく戸田側は漕艇協会の代表者等を加えて競願の型をとらざるを得なくなり、現会員の内の十数名により認可申請の手続きを県に提出した。
 ところが、大沢雄一(当時知事)氏より「設立認可申請について話し合いたいことあり、出県されたい」との通知を受け、筆者早速出頭したところ、「申請書を取り下げられたい。但し石川さんの方も同様取り下げるよう要望しておいたから、両者相寄り一体にまとめて出直して欲しい。それでないとどちらにも内申書は付けられない」との知事の意中を明らかにされてホッとしたけれど、果して合同するであろうかと心配は残った。
 川島先生に面接して、経緯を話して如何にすべきか方法手段の指示を懇請したところ、「石川先生の下で今活躍している関柢二氏にまず相談をしなさい。そして僕の意中を話せ」と指示され、関、広森両氏に面接、両者合同する方向で努力することで意見の一致を見、昭和二十六年五月頃と記憶するが、戸田ボート会館において、石川、関、広森(石川派)三名、横田、武田、阿久津(戸田派)三名が両者合同について始めて談合。両者合併して石川氏を発起人代表とし申請書を再提出し、同年六月二十五日、創立総会を浦和市内の日赤精養軒で開催し、時の会員数百三名、申込口数百八十口で議長は福永健司氏、次の役員を決定して競走会の第一歩を踏みだしたのである。
初代役員名
会長  石川一衛
副会長 関口佐源太
 〃  金子 得
専務理事 関 柢二
常務理事 原田綱嘉
常務理事 松沢藤一郎
 〃   広森宗吉
 〃   佐山耕三
 〃   蓮沼市太郎
 〃   池上尚久
理事 清水友右衛門
 〃 中島半平
 〃 西田芳雄
 〃 寺山源助
 〃 堀越正八
 〃 金川文楽
 〃 阿久津喜三
監事 大藤暉一
 〃 市川宗貞
 かくして運輸大臣から認可されたのは十月四日付であったが、いよいよ競艇場建設ということになって大きな困難に遭遇した。当初、会員になるはずの漕艇協会代表は石川氏等と合同することに反対、発起人に名を連ねておりながら創立総会に出席すること、更に会員になることも拒否して決別した。後で解ったのであるが、彼等は前田派であって笹川派になることを嫌っていたということを、ある日川口市内に居住する大泉寛三代議士に時の町長武内勇助氏と筆者が迎えの車を受け、至急来られよとのことで、伺ったところ、元本県の経済部長をしていたことのある広橋某氏他五名ほどの全然面識ない人たちがいて“石川派と手を切れそうしないと連合会に加入させない”と言うのである。
 連合会は地方競走会が単位会員で認可された競走会を連合会に加入させないなど暴言であろうと思ったので、「結構でしょう(その時はまだ認可されていなかった)加入させないことが出来るなら、やってみなさい。我々は我々でやりますよ」とはねつけ、席を蹴って立帰り、翌朝六時に広川弘禅先生(当時総務会長)の門をたたいて経緯を訴えてみたところ、「前田君はいけない。ああいう人と付き合いなさんな」“前田君はいけませんよ”と言う言葉が今でも耳の奥に刻みつけられている。「後で自由党本部にいらっしゃい」と懇切に指導して頂いた。更に「運輸大臣に埼玉県より提出されている競走会設立認可申請をなぜ早く認めないのか」と大分強く直接要請してくれたことを記憶している。で始めて上層部に二派あり、漕艇協会の代表連中は前田派であるために、我々戸田の者と共同で反笹川の線で頑張る積りでいた事など解った次第である。
 ところが戸田派と石川派とが合同したので彼等は去り、競艇場として戸田コースを使用することに反対しはじめたので、時の町長武内氏が「無用の長物であるからコースを埋めてしまう」と発言して物議をかもし新聞種にされ、町内事業所の労組からは街頭で反対運動をやられる等別の困難がやってきたというもの、それでも最後に西端六百米以内であれば止むなし、ということで話がまとまった。
 ところが、県側が西端では採算が保たれないと反対、それを県議会議員在籍の染谷、関口、大藤氏等が知事を説得し西端に建設するよう知事命令を出して現在の所にレース場建設に着手、昭和二十九年十月十四日初開催の運びとなり、昭和二十六年十月四日認可されてから満三ヵ年の歳月を費やし、待望のレースが実施出来たのであるが、その間、日漕がマスコミを味方にして猛反対した。
 県議会も、県営競艇実施意見書を昭和二十七年三月県会に、県議荒井政太郎(競走会会員)外四十名の署名議員を以て提出、議会はこれを議決し特別委員会に付託したが、一部の議員から「埼玉県はすでに競馬、競輪、オートレースのギャンブルを実施している。その上競艇を実施することは埼玉県をモナコの如きものにする気か、健全財政を堅持している知事の財政手腕によれば、こんなものを実施しなくても県財政はやっていけるのではないか!」というような反対論が出たため知事も競艇実施条例の提案を見合わせるなど、又、施設省(戸田競艇組合)は資金の見通したたずなど、さまざまの困難を克服してようやく開催したけれども、初日の売上は四百二十三万円、十月の一日平均が三百四十三万九千四百円と記憶しますが、その後毎月一日平均二、三百万円台の売上が続き、別表のような成績でようやく昭和三十年七月の売上が約五百万円台に乗り愁眉を開いた。
 然しそれまでに銀行よりの借入、ガソリン、通勤バス、選手宿舎、連合会賦課金等未拂いの累積した債務は約千数百万円になって、この借金を全額返納するまでそれから一年半の期間を要した。何しろ一日一千万円の売上をみたのが昭和三十四年八月で、開催以来の宿願であっただけに特に印象に残っている。
 東京オリンピックのため休止する(昭和三十七年十月)時は、一日の平均一千六百七十万円の売上を記録、昭和四十年十月再開するまで三年間さまざまな事柄があったが、再開後は順調に売上も増進、運営面においても、殆どトラブルらしい物議も事故もなく今日を迎えられたことは誠に幸いとするところである。
 
一日平均売上金額比較表
(金額単位 百円)
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再開について
 昭和四十年十月再開するについて、概略を記します。まず日漕の猛反対に対して非常に粘り強く、静かに力強く筋を通して交渉に当たられた県当局の態度と、体育振興特別委員会(国会)の出した結論に対し笹川連合会長の適切な政治力と、野口戸田市長、大野川口市長等の思い切った出資決意によるものと言って過言としない。ただ惜しまれてならないことは、今日の発展をみずして昭和三十五年九月一日他界なされた前会長石川一衛先生である。改めて先生の功績を偲ぶと共に、初開催当初、雨が降ろうが、風が強かろうが、糊バケツをさげ、非開催日は全員街頭に出動して、案内ポスター貼りや、案内券配りを、不平一ツ言わずに宣伝屋的な仕事を、売上向上のために頑張った職員を偲びつつ、ここに業界沿革史編纂にあたり、埼玉県競走会の今日への発展の過程を記載した次第であります。


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