日本財団 図書館


暁闇
 戸田競艇組合について語るときは、当組合には過去において、大きく分けて二つの試練期があったことをまずとりあげ、この小史の核心に入る前に大方のご理解をいただきたい。
 試練の第一は、開設前の運動期を含めて、その後しばらくの間における業績不振のための苦難に満ちた時代である。さらにもう一方は、昭和三十九年第十八回オリンピック東京大会開催により、その前後三年にわたって中止のやむなきに至り、しかも再開が危ぶまれるという死活の岐路に立たされたときである。
 そのどちらも、多くの関係者の筆舌につくせない労苦によって切り抜けることができたが、とりわけ後者の、競走再開の是非が中央で問題とされた一時期にあっての、当組合管理者である野口政吉戸田市長及び副管理者大野元美川口市長の精力的な活躍は、大いに銘記する必要がある。もち論、問題の微妙な政治性から別な方向から運動をバックアップされた栗原浩埼玉県知事、あるいは独自の力量を持っておられる全国モーターボート競走会連合会笹川良一会長、そして埼玉県モーターボート競走会阿久津喜三専務理事等の絶大な力も忘れ得ないものである。
 そこで以上の大きな区分点を二つの柱にこの小史の筆を進めたいと思うが、これらの場合でも、ボートコースの存在が常に大前提となるのはやむを得ない。なぜなら、この存在が競走場の開設に預かって力のあったことは、すでに述べたとおり、これまた否めないところだからである。したがってボートコースが、当時の地主、地元農民等多数の関係者の大きな協力と、土地の犠牲の上に建設された事実に対しては、これが直接モーターボート競走を目標につくられたものではないとしても、結果的には今日、関係三市に繁栄という名の果実をみのらせる種子となっていたことにいま当組合は深い感謝の念と敬意を表するものである。
 モーターボート競走法の成立経過については、すでに多くの知るところであり、また施行者がこれについて喋々すべきでもないので話は、いかにして戸田に競走場を設けることができたか、また当組合設立の経過はどうであったかについてふれてみたい。
 競走法―ボートコースと、この二つを並べると、いかにも連想ゲームめくが、まさにそのとおり、競走法が当時の戸田町首脳部の胸中に「ボートコース活用」という命題を想起せしめたであろうことは、十分に考えられる。これについて、最も積極的姿勢と意欲を見せたのは当時の助役である。山椒は小粒でぴりりとからい―ときの助役は余人ならぬ阿久津喜三氏、つまり現在の埼玉県モーターボート競走会専務だから、さてこそと思われるのも道理というもの。
 そんなところへ、日本漕艇協会顧問宮木正常、同理事久保勘三郎の両氏が助役室を訪れ、ボートコースを利用してモーターボート競走を実施してはどうかと進言するに及んで町当局の構想は、一挙に具体化へとエスカレートするのである。
 その頃、ボートコースは荒れるにまかせられ―工法上独特な、波返しの曲面を持った護岸もほとんどくずれ落ちて水没し、周辺にはあしが繁茂するという荒涼たる有様の上、戦中戦後を通じ一回も浚せつをしていないので水深を減じ、本来の潴水池の役目すら危ぶまれる実情にあった。これをこのままにしておく手はない、無用の長物を転じて金の卵を生ませたら―競走法の成立が見込まれているそのとき、誰もがたどる当然の帰結であろう。
 実は、宮木、久保の両氏訪問は、競走会設立についての政治的運動の展開が主眼であったらしい(この間の事情は競走会の部に詳述してある)が、何にしても具体化への一石を投じたことはまちがいない。それに加えての熱血漢阿久津助役の情熱は、ときの金子庄五郎町長や議会を説得しついに競走施行者としての一部事務組合設立の方向ヘレールを敷いてしまったのである。あれよあれよという間のことだが、しかし、その裏面における苦労は尋常ではなかったと、阿久津氏はいまも述懐している。
 で―戸田町は、一部事務組合設立のため前向きの運動を推進することになったが、それというのも、施行自治体の人口要件三万以上に対し、戸田のそれはこの半数に満たなかったからである。事態は急を要した。県内のいくつかの自治体も、モーターボート競走の実施に興味を持ち始めたのである。元荒川を利用してなどという情報もあったから、運動は急ピッチで推し進められた。
 手始めに隣接の美笹村(現在戸田市に合併)を加えることに成功した。しかし同村の人口は約六千、これを合わせてもやっと二万である。そこでさらに北隣りの蕨町へ飛んだ。「戸田と美笹とでモーターボート競走を実施したい。ついては貴町もお仲間にどうか、もしご加入の意思なきときは、川向うの大和町を勧誘するから、さよう承知されたい」
 当時の高橋庄次郎町長(のちの蕨初代市長)は、否も応もない二つ返事であった。
「隣り町のよしみではないか、大和町などと言わず、ぜひ蕨を盟下に加えさせてほしい」
 戸田にはなかなかの政治家がいたのである。阿久津助役をはじめ豪の者が蝟集していた。町長は代わって武内勇助氏となったが、氏は組合設立資金の調達に敏腕を振るったし、職員ではあるが当時の町企画課長加藤光芳氏(現戸田市総務部長)も、裏方として力量を示した。一部事務組合設立にあたっての彼の活躍は見るべきものがあったのである。
 さて、人口要件はととのったのだが、他の自治体でも競走実施の動きがある以上、機先を制していち早く認可をとりつける必要があった。この頃、すでに公営競技に対する批判は高まり、特に埼玉県はボートを加えると、すべてがそろうところとなるので、これを二ヵ所以上に許すはずはなく、そうなれば、強力な政治的力関係と推進力で早急に勝ちを制さなければならない。このような意味から、高石幸三郎川口市長(のちの衆議院議員)も加わって、最後の追い込みをかけ、昭和二十九年六月、戸田町、川口市、蕨町そして美笹村を打って一丸とする戸田競艇組合が設立された。
 競走はボートコースで行なう―これは絶対的な原則であった。しかし、コースは長大である。いったい二千四百メートルのどこで実施するのか・・・
 これに対する当初の答えは簡単であった。戸田橋寄りに競走場を設けよう―地の利と宣伝効果を考慮に入れたらこれ以外の答えはない。当事者のすべてはそう考え、町に利益をもたらすものであるから、さして問題はあるまいと安んじていたのである。
 実際、戸田橋寄りで実施していたら、今日でも売上は大分ちがっていたろうと思われる。そこの十七号国道から歩いて、おそらく三分とみたらよいであろう。しかも戸田橋からはいやでも見えるという、視覚上の宣伝効果がある。
 が―スムーズに、ことは運ばなかったのである。
 もともと一部の団体には、競走実施の動きを早くから察知しての、反対の下地はあったのだが、戸田橋寄りで実施することが明らかとなるに及んで、反対運動は一層高まりを見せ表面化したのだ。
 予定水面の北岸近くに中学校のあったのが、わざわいの発火点でもあった。
 公聴会は荒れ、P・T・Aは何回となく反対集会を開きついに地元労働組合や革新団体まで乗り出して、ハチの巣をつついたような騒ぎに発展していったのである。
 目抜き通りでは、メガホンを口にした人々が、朝に夕に「競艇反対」をわめき、署名を求めていた。モーターボート競走は、のっけから思わぬ伏兵に戦いをいどまれ、あわや一頓挫をきたすかにさえ思えたのである。
 もち論、町当局は説得にこれつとめた。
 町財政事情は、いかに悪化しているか。しかも人口は急増しつつあり、これに伴って教育施設は不足をみる。民生事業もなおざりにできず、道路の改善も・・・であるから今回、法をもって認めた競走を行ない、その収益で行政の追いつきを図るのだ、と。考えてみればこれは、二律背反の論理におち入りやすいのだが、だと言って、誰が現在の苦境を救ってくれるのか・・・理くつ抜きの素朴な説明が何回もくり返された。辛抱強く、そしてねばっこく・・・
 反対運動側の倫理的理論は、たしかに強いスジを持っている。しかし、政治の貧困をさけんでも、明日にも国から補助金がくるのか、と反論すれば、それがあり得るはずのないことは、わかり切っているのである。
 ここでも阿久津助役は、先頭に立っていた。求められればどこへでも説得に出かけたし、みずから進んで反対派の陣営へ飛びこみさえもした。
 北越製紙労働組合―当時町内で最も大きなこの組合は同時に最も強力な反対運動の拠点でもあった。これをして賛成派に転向せしめるのは不可能としても、少なくとも沈黙を守ってくれれば、町内の反対運動は、事実上終息するものと期待されていたのである。
 阿久津助役は、沼田一男町議会議員を伴って、あえてこの反対派の牙城へ切りこみをかけたのだ。沼田議員は、その後故人となられたが、生前は消防と競艇のためなら、からだを張っても措しくはないというこれまた血の気の多い好漢であった。この二人が労働組合の委員長に体当り的説得を行ない、ついに彼らの手を引かせることに成功したのだから、関係者は驚いた。ここにも阿久津氏の面目、躍如たるものがある。
 しかし、これですべてが終ったわけではない。戸田橋寄り―すなわち中学校に近い水面に競走場を設けるという点に反対する声は、依然として根強く残っていたのだ。この一事でわかるように、反対運動には、競走実施全面反対派と、地理的環境から戸田橋寄りに設置することに反対する側との二つの流れがあったのである。後者は厳密な意味から言うならば、条件付賛成派と称すべきかもしれないが奇妙なことに、これらの反対運動に日本漕艇協会も加わっている事実があった。漕艇協会は当初、競走の実施を当局に進言して、積極的な姿勢を示していたのに、この豹変はどうしたというのであろうか。これは競走会設立にからんでの政治的問題が、漕艇協会をして反対の側に立たしめたということであるが、このこと自体は施行者の関知するところではないのでここでは省略する。
 一方、県においても県営で競走を実施しようとする動きがあり、県議会特別委員会に問題を付託していたが、県議員のごく一部には「埼玉県を、モナコのようなギャンブル王国にするつもりか」と、知事に喰いつく向きもあって、一時は県、戸田ともども反対の種々相に騒然としたのである。
 さて―残る反対派は、主としてP・T・Aである。この中には、全面反対の分子もかなりいたが、コース西端ならばやむを得ないのではないかとする意見が、最終的な詰めに至って台頭した。
 それでは商売にならん、と、県当局は不満であったが、戸田としてはこれ以上、馬鹿押しをしては、元も子もなくなるとして、その線に妥協せざるを得なかったのである。けだし、両者ともにかけ弓きの妙を心得ていたというべきであろう。
 もし、このようなときに、戸田町教育委員会が反対派に同調していたら、事態は絶望的な方向へ進んでしまったろうと思われる。しかし、賢明な委員諸氏は、町財政の窮状を十分に知っており、この際、静観すべきであるとして、賛否いずれにも組みしなかった。野口管理者は、当時教育委員であったが、同氏が中立論を堅持したことは、結果的に大きなプラスとなったのである。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION