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金ぴかの下駄
 三週間の任務を終える「おじか」と、われわれの「のじま」は予定通り太平洋上で交代した。定点圏の荒れ狂う闇の中で、お互いの船影も見えなかったらしい。
 「ご安航を祈る」「ご苦労さま」
 両船の儀礼的なあいさつは「トン、ツー」の無線電信(モールス信号)で行われたと後で聞いた。衛星のお陰で世界中から絵も声も送れる今は「無線電信」も死語に近い。
 皮肉なことに、船が定点で漂流を始めた夜明ごろ、海のご機嫌は少し良くなり、雨は止んでいた。体調は良くなかったが仕事にかかる観測員につられて甲板に出た。船に慣れない身である。手すりがあっても揺れる船べりなど怖くて歩けない。大波ごとに海水がデッキを洗う。船は傾く。濡れた甲板は滑る。
 「客船と違ってこの船は突起物や器具が剥き(むき)出しになっている。慣れないうちは半ズボンと半袖シャツは止めた方が・・・」の甲板員の忠告は素直に耳に入った。ぶつかってけがをしてもこの船に医師はいない。
 「浮かぶ気象台」の作業はマニュアルも分担も決まっていた。気圧、気温、風向、風速、高層、波浪・・・二十項目の海上・海洋・高層観測を十三人が三班に分かれて三時間ごとに行う。もちろん夜中も。台風が近づくと観測は一時間ごとになる。いちばん動きたくないときに働くのである。私の乗った船では台風接近態勢をとるケースはなかったが、データを無線電信紙にまとめて、通信士に渡すとすぐに次の作業だ。
 通信士はキーを打ち続け、徹夜になる。頼信原稿を帰港の途中見せてもらった。発信だけでざっと六百枚、厚さ六、七センチあった。着信は別綴じだから作業量は膨大である。
 気の毒だったのは、私と乗ったのが初航海という、海上気象担当の寺田君である。岩手県の高校を出たばかりの十八歳。少年らしい初々しさが残っていた。先輩に「初めてにしてはしっかりしている」とおだてられ、海に向かって吐きながら観測を続け、青い顔でグラフを書き、器具の手入れをしていた。
 互いに打ち解けるようになったころ、私は気象庁で聞きかじったヨタ話で寺田君を煙にまいた。
 「気象庁の屋上に小さな神社がある。ご神体は金ぴかの下駄だそうだ。知らなかった?予報官は予報に迷うと、その下駄を蹴って決断するんだよ。ひっくり返ると雨、表なら晴れ。子供のころやった遊びはそれを真似たんだね。本庁じゃ君の資料なんかあてにはしてないよ」。残酷な冗談を寺田君は知ってか知らずか、黙って聞いていた。そして私の問いに「これじゃ、勉強はできないし、デートもできません」と訴えた。
 働きながら大学に行きたいと言っていた彼に数年後、電話をしたら職場を辞めた後だった。希望の大学へ進んだのだろうか。
 
汚染された海
 照っても降っても「のじま」は船首を風上に向けて漂っている。少しぐらい海が荒れても体が揺れに慣れると、メーンエンジンを止めての漂流は静かで快適だった。
 ただし、船は錨を降ろしていないので、半径五〇カイリ(九三キロ)の定点圏から一日で潮流や風のため圏外に流されてしまう。せっかく落ち着いたというのに、船はまた波と風に逆らい、ピッチングしながら元の位置まで戻らなければならない。毎日必ずこの「位置修正」がある。荒れた日ほど位置修正は体にこたえる。船内マイクでこの予告が流れると仕事のない人は急いでベッドにもぐり込む。小林記者と私はいつも真っ先だ。
 そんな時でも作業はする。前年から修正移動中の観測項目が増えた。「廃油ボール」の採取、調査である。大気や水の汚染問題が高まってきたころであった。
 船のデッキから目の細かい捕虫網のような「たも」を垂らし、海面を漉し(こし)ながら移動する。船を微速に落として十五分間。たもを引き揚げると、ゴマ粒より大きい黒いタールが幾つもべっとりと付き、袋は毎回汚染を記録した。三六〇度見渡す限りの水、定点観測期間中、船に出会ったのは二度だけという広い海に漂っている数多い公害の塊。きれいに見える海に油かすが浮いているとは。
 観測員はたもを洗いながら「悪質なタンカーが油の残った船槽を海で洗うためばかりではあるまい。世界中の汚れた生活用水、工場廃液が長年にわたって『流れ、流れ、積もりつもって』のことだろう」と解説する。夫人が薬害で病床に伏し、公害、薬害に関心が強い福迫船長は「きれいな海を汚しおって」と鹿児島弁で怒っていた。その福迫さんの訃は数年前に新聞で知った。
 荒天時の写真欲しさに位置修正のとき、操舵(そうだ)室に入れてもらった。ビル三階の高さに相当する、船でいちばん高い室を波と雨が滝のように襲う。四方の大窓から外は見えない。正面大ガラスの一部がワイパーになっていて、猛スピードで回転するその丸い小窓からだけ辛うじて前方が覗ける。
 山のような波に船が乗ると、船は立ち上がるかと思うほど。背後のてすりに体は預けたまま。ワイパー付き小窓からは船首と空が見えるだけである。波が後部に移ると逆に床はすべり台で体は前にのめる。スクリューが空中で空回りするガラガラという音と振動が船尾から響く。船首が波の底に突っ込んだかと思うと、次の水の山が窓の視界一杯に迫り、船はまた波に乗る。よくぞ船体が折れないものだ。窓が波に潜る度、室内だから濡れるはずがないのにカメラを本能的に両手でかばい、思わず言葉にならない声をあげた。
 
凪ぎの日
 何日も海が荒れた後の凪ぎ(なぎ)の日の夕食後、仕事のない人は言わず語らず甲板に集まる。久しぶりの宴会だ。暮れなずむ空の下、釣り人の近くに食卓代わりの新聞紙を敷き、ぴかぴかの板敷甲板にあぐらの車座が幾つかできる。飲み物やつまみとコップは銘々持参だ。新聞紙に載せた酒、缶詰、ピーナッツなどはだれの物を飲み食いしようと自由だが、酒は飲みたいだけ自分で酌ぐ。深酒をして、後で海が荒れたとき苦しむのは自分だ。自ずと節度を守る。
 冷蔵庫はサロンに家庭用が一台あるだけ。個人の医薬品保存が優先的で、ビールや果物を大量に詰め込むことは物理的にも許されない。製氷能力はしれている。甲板で古参乗組員が古参厨房係の顔色を見ながらおだて、すかさない限り冷凍室の氷は出ない。
 二人の漫才のようなやり取りの後、厨房係長のOKが出ても氷用の器を持って船底の冷凍室に降り、幾つもの宴会グループ分の氷を抱えて甲板に出るのは面倒だ。貰いに行く殊勝な人が何人かいないと氷は諦めるしかない。
 それやこれやで、宴会に氷が出たのは一、二度だけ。最初の一杯はサロンの冷蔵庫で冷やしただれかのビールだが二、三杯目からは常温になる。ウイスキーや焼酎の水割りは最初から生ぬるい。オンザロックはまず無理だ。お茶とたくわんで宴会をする落語の「長屋の花見」を笑えない。
 宴会で大いに期待される刺し身は釣り人の腕と魚の寄り方次第となる。釣りの名人は小魚だと提供しない。竿を振るそばで「早くつまみを出さないと客は帰っちゃうよ」と挑発しても「夜は長い。三分間待て」とその小魚を餌にイカや大物を狙う。小さなトビウオを「食べたかったのに」とぼやいても名人は取り合わない。「貧弱なものは客には出せない。当店の信用にかかわる。やたらに出すと値崩れしちゃう」とくる。
 ギターや尺八名人の演奏は絶好のバックミュージックである。リクエストがない限り、車座から少し離れた風下で遠慮がちだ。カラオケのないのがまたいい。静かな演奏が流れ、月でも上がればムードは最高。海洋の月光は水面の反射もあって意外に明るい。ゆったりした語らいに観測用補助光などは野暮である。
 酒を飲まない人は寝る間も惜しんで趣味に熱中する。海の男たちは趣味人ぞろいだ。子供のセーターを編む人、尺八師匠の免状を持つ人、彫刻をする人、スケッチのうまい人・・・。漁師ではないかと思わせるほどの釣りの名人、包丁を持たせれば魚河岸の職人そこのけの腕自慢は掃いて捨てるほどいた。マグロや大型魚をビニールか新聞紙を敷いただけで、甲板を汚さずにさばいてしまう。彼らは良い包丁と砥石(といし)まで持っていた。
 釣りの名人が船の回りをうろつくシイラを私の要望で釣ってみせた。鮭より大きい立派なものだ。しかしせっかく釣ったのに私の写真撮影の後、海に蹴落としてしまった。「ソテーにしたら旨いでしょうに」と言っても笑うだけ。調理で厨房員を煩わす物や土産用に干す、冷凍、などの加工が必要な物は海に返す。シイラとサメは他の魚類を追い払い、釣りを妨げるので釣り人は目の敵にしていた。
 延縄(はえなわ)にマグロがかかった。
 「カジキは旨くねえからなア」と言いながら手早く解体すると、この大物だけは船底の冷凍室に持って行ってしまった。ひそかに心待ちにするマグロの刺し身は二日たっても三日たっても甲板の宴会に出ない。後日、東京港に着いて上陸しようとする小林記者と私に海洋観測員のハッチャン(春日秀樹さん)が冷たい大きな紙包をくれた。
 「奥さんに土産にどうぞ。カジキだがいいところだ。ご要望のシイラも入れておいた」。シイラは私の知らない間に改めて釣ってくれたのだ。マグロをさばいた長谷川礼三さんと延縄の仕掛人・ハッチャンは上陸の際、魚の包は手にしていない。「あんな物、いつでも・・・」と、欲しがる人に分けてしまったのだ。
 釣りの名人、囲碁と競輪が好きな中年独身男、ハッチャンも病に負けたと数年後、風の便りで聞いた。「おか(陸)に上がったら公営ギャンブルに行こう」と約束していたのに仕事にかまけて果たせないまま。残念だ。
 「釣りは漁師もはだし。包丁持てば板前並」の腕を持つ長谷川さんは元南極観測隊員で、「ペンギンも頭を下げた」といわれる。ハッチャンとは名コンビで二人の周辺はいつも笑いが絶えなかった。照れ屋でニヒルなハッチャンとは逆に太めで、陽性な口の利き方といい、人相といい、やくざ風だが根は優しい。白い歯の笑顔が魅力的だった。
 「あなたは盛り場の地回りが本職で、観測はアルバイトなんでしょう」とからかうと嬉しそうだった。退官後、奥さんを亡くし、娘さんの家に身を寄せているとの便りを貰った。
 口の悪い長谷川さんのような「偽悪者」もいるが、なべて温厚で人が好い。仕事のことで「使命感、責任感が強い」などの大上段な賛辞を口にしようものならそっぽを向いてしまう。船には南極を経験したベテラン乗組員、観測員が六人いたが「荒れた海を往復しただけ。荷揚げで上陸しただけなのに、南極だなんておこがましい」と謙虚である。
 選ばれた人たちばかりだけに人格、識見も際立っているように見えた。
 狭い、恵まれない空間で男だけが三週間。それを年間五回、海上保安庁と気象庁の別組織の人が計百日以上も生活を共にする。気の合わない、虫の好かない人もいるだろう。序列のはっきりした階級社会でもある。言いたいことも多いだろうに、船の人たちは「和」を保つことについてはさりげなく繊細だった。好ましくない話題は避ける。他人の心の領域は侵さない。悪ふざけ、嫌みなことはしない。口には出さなかったが「本当に紳士の集団なんだな」と感じ入ったことは数しれない。そんな世界で一度だけ「事件」を知った。
 若い船員が深夜、延縄を切って流し、備品のバケツを海にたたき込んでしまったのだ。
 犯人が分かると、事件は船長の意向で不問に付された。縄は船長が仕掛けたものだった。犯人にとってはそれが幸いした。若い仲間の縄だったら温厚集団の「なんてー」でも争いになったかもしれない。失った品物は寄港するまで補充できない。どんな物でも大切である。船のごみを海に捨てたり焼却するときは、公害防止もあるだろうが船長の決済を経て、甲板長なりそれなりの責任者が中身を点検し、立ち会うほどである。
 船長と甲板長は「縄とバケツが流された」一報を聞くとかんかんだったが、犯人を知るとその若者が海に飛び込まないよう、次の事件、事故を起こさないよう心を配っていた。
 「長い航海では、一人か二人たまに出る。荒れる海と単調な集団生活、緊張の重みに負けたのだろう。いわゆる船ノイローゼだ」と中年乗組員が小さな声で教えてくれた。


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