日本財団 図書館


表紙説明◎名詩の周辺
楠公子に訣るるの図に題す―頼山陽 作
大阪・島本町桜井
 文部省唱歌「青葉しげれる桜井の、里のあたりの夕まぐれ・・・」で有名な楠木正成・正行親子の桜井の駅での別れは、「太平記」の名場面としてよく知られており、戦前は教科書をはじめ、浪曲や講談、芝居などでしばしばとりあげ、上演されていました。
 唱歌は明治時代の歌人・国文学者、落合直文の作ですが、頼山陽作のこの漢詩も、楠公がわが身を天皇に捧げたのみならず、身代わりの子までもつかわして他日の挙に備えた、その二重の忠義を賞讃したものです。
 
 
 楠正成は、建武三年(延元元年・一三三六)五月、死を覚悟して湊川の戦いに臨み、壮烈な自刃を遂げます。足利尊氏の大軍との決戦を前に、正成は一子正行を桜井の駅に呼び、「今生にて汝が顔を見んこと、これを限りと思ふなり。正成すでに討死すと聞きなば、天下は必ず将軍の代になりぬと心得べし。然りといへ共、いったん身命を助からん為に、多年の忠烈を失ひて、降人に出づること有べからず」と正行にさとし、涙ながらに別れたといいます。
 その後、正行は父正成の志を継ぎ、各地で北朝方と戦いましたが、貞和四年(一三四八)一月五日、四條畷(しじょうなわて)で高師直(こうのもろなお)の軍と戦い、弟正時とともに戦死します。
 桜井駅跡は、現在は樹木の茂る小公園となっており、園内には、乃木希典大将筆になる『楠公父子訣別之所』の碑と東郷平八郎元帥筆になる明治天皇の御製「子わかれの松のしずくに袖ぬれて昔をしのぶ桜井の里」の碑が立っています。また、「滅私奉公」と題した楠木父子の像もあり、当時をしのぶにふさわしい場所です。
 江戸時代、芭蕉もこの地を訪れており、「なでし子にかかる涙や楠の露」の句を残しています。
 なお、世上の図では楠公父子別れの場面は多く桜の下でのわかれになっていますが、実際は青葉のころのことで、そのため今号で取り上げました。
 
謡曲「楠露(くすのつゆ)」に因んだ楠木。題の「楠露」は上記に紹介した芭蕉の句に由来する
 
乃木将軍筆による「楠公父子訣別之所」の石碑は公園の中心、周りを茂木に囲まれた、まさに「青葉茂れる」中にあります
 
【国史跡・桜井駅跡】JR東海道本線山崎駅より車で約10分、阪急電鉄水無瀬駅からは徒歩約10分です。
 
吟詠家・詩舞道家のための
日本漢詩史 第23回
文学博士 榊原静山
江戸時代の展望―(一六〇〇〜一八六七)―【その三】
 朱子学、陽明学とは別に、中国の古代にかえり、孔子、孟子の古典に直接ふれようとする古学派として京都の伊藤仁斉および江戸の荻生徂徠の存在も無視できない。彼らは孔孟の古文書の研究だけでなく、礼楽刑政の道を本質として儒教にのっとって政治、経済、あるいは文学の面にまで影響をおよぼそうとした。いっぽう政治の面では太宰春台(一六八〇〜一七四七)が出ており、詩文の面では服部南郭をはじめ、多数の人材が出ている。
 徳川幕府はこのように鎖国をしながら二百余年つづき、十九世紀に入ると急速に幕府の権力が衰えてゆき、それに加えて日本が鎖国をしている間に、欧米の諸国は産業革命により、工業近代化と海外貿易を行ない、さらに近代的に装備された海軍力をもって幕府に開国を迫って来る列国の動きが手伝って、幕府滅亡への方向へ歩みはじめる。
 まず北方からは、ロシヤの艦船が十八世紀のはじめ頃から盛んに千島、樺太、蝦夷地(北海道)沿岸に出没しはじめ、ロシヤ帝国の使節ラックスマンが国書を持って根室に着き、幕府に通商を求める。幕府はこれを拒絶して急に北方の海防を固め、箱館(今の函館)に蝦夷奉行を設けて対策を講じさせている。
 この間に間宮林蔵が樺太の実態調査を行ない、さらに未知の大陸の黒竜江の下流までも探検している。そのため、戦前は樺太とシベリヤとの間を間宮海峡と呼んでいたのを、ご記憶のむきもあろう。もう一つ、この時代で思い出されるのは、海運業者高田屋嘉兵衛のことである。これは日本人の誰もが行き得なかった未通の海路を開いて択捉島へ渡り、択捉島はわが国の領土であるという標識を立てて帰った人物である。
 またロシヤ艦の艦長ゴローニンを国後島で幕府の役人が捕えて箱館に拘禁した事件の報復として、高田屋嘉兵衛は船を襲撃され、カムチャッカヘ連行されたが、ここで彼はロシヤ語を研究して、ロシヤに両国の融和を説き、後に祖国へ送還され、松前藩を説得してゴローニンをロシヤヘ返送するという、町人でありながら日露両国の対立緩和に大きな貢献をしている点も見逃せない。
 一方、イギリスも東インド会社を作って、全インドを植民地にして東洋に手を延ばし、オランダ船を追って不法にも長崎へ入港したり、千八百十八年には浦賀へ、千八百二十二年には江戸湾に、千八百二十四年には常陸の海岸や薩摩の宝島と、次々に上陸するという事件をおこしている。さらにイギリスはシンガポール、マレイを占領して、中国に対してはアヘン戦争をおこしてこれを破り、香港、広東、上海等の港を確保し、いよいよ徳川幕府へ鉾先を向けてくる。
伊藤仁斉
 
 アメリカもまず千八百四十八年にはビッドル司令長官が浦賀に来て、開国を迫っている。幕府ではこれを拒絶するが、つづいて千八百五十三年には軍艦四隻を率いてペルー提督が浦賀に入港し、公式に日本へ開港を要求している。はじめ幕府はこれを拒絶するが、近代的な軍艦である黒船を見て、翌年返書を出す約束で一度ペルーを帰すが、翌年再び江戸湾に黒船が来て強硬な交渉の結果、遂に幕府はアメリカと、最恵国条約としての日米和親条約を締結している。それによって、千八百五十六年にはアメリカの初代総領事として、タウゼンドハリスが来任し、下田の玉泉寺を領事館にさだめ、日米通商条約を結ぶのである。
 もちろん、修好通商条約ではあるが、わが国にとっては不利益、不面目、不平等の面が多く、王道政治を理想とし、皇室の尊崇を説く尊王論者達にとっては到底承服できない条約であり、従って尊王思想と攘夷思想が結びついて尊王攘夷運動が唱えられ、これが実力行動として大きな動きになっていく。
 くわえて幕府では、十三代将軍家定が病弱で廃人同様であったため、十四代将軍にすべき候補者をめぐって意見が大きく二つに分かれていた。松平慶永、島津斉彬、徳川慶恕(尾張藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らの大名は徳川斉昭の子で一橋家を相続していた一橋慶喜を推し、保守派の大名や幕吏らと、彦根藩主井伊直弼は紀伊藩主の徳川慶福を推した。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION