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ナチヂナーと山原船
 那覇市松川(一部首里山川町)にナチヂナーの地名があり、今帰仁とどう関わる場所なのか興味がある。この地名はどうも舟や港を介して名付けられた地名のようである。
 
 万歳嶺(現在首里山川町)と官松嶺(現那覇市松川)の碑がある。万歳嶺(ばんざいれい)は別名ウィーナチヂナー:上今帰仁那)、官松嶺(かんしょうみね)はシチャヌミヤキヂナー(下今帰仁那:シチャナチヂナー)とも呼ばれている。那覇にあるナチヂナーと今帰仁(間切)とどんな関係にあるのか。
 以前、考えたことがあるが定かなことはわからなかった。確か『南島風土記』(東恩納寛惇著)にあった「往昔者、板橋ニテ、橋本迄、山原船出入仕リタリトナリ。中古、矼ニ成リタル時、潮與水行逢所ニテ、橋名ヲ指帰橋ト、名付タルト也」(『琉球国由来記』)であった。東恩納氏が「この橋の辺まで山原船が出入りしたと伝ふ由来記の説は事実と思われる」と述べている。
 万歳嶺(上ミヤキジナハノ碑文:1497年)と官松嶺記(下ミヤキヂナハの碑文:1497年)の二つの碑文にミヤキヂナハ(今帰仁那)と一言も登場しない。官松嶺記に「・・・三府在坎曰離曰南山府在其両間曰中山府可謂海上之三山矣中府之西有丘・・・」とあり、山北府は出てくるがミヤキヂナーとはでてこない。碑文が建立された時、あるいはその後かもしれないが、一帯がミヤキヂナハ(ナチヂナー)と呼ばれていて、そこに二つの碑が建立されたのであろう。
 碑文が設置された場所はナチヂナーの地名がつく場所であった。ナチヂナーの地名は二つの碑文の内容とは直接関係ないように思われる。東恩納氏が述べているように、安里川(近世、安里川から崇元寺より上流あたりまで舟が遡っている)から遡り、嶺の麓あたりまで舟の往来があり、港として機能した場所であったのかもしれない。そうであれば、今帰仁(北山)からの舟の発着に由来した可能性は十分ある。
 果たして「嶺の麓一帯が港として可能な場所だろうか」の疑問はあるが、指帰橋あたりまで「潮水ト逢所ニテ」とあるので、満潮時には海水がそこまで遡流していたのであろう。一帯の標高が5m以下なら十分可能性がある。というのは、今帰仁あたりでも標高3〜5mにあたりにトーセングムイやトーシンダー、あるはハキジ(舟綱をかける)など舟に関わる地名があるからである。11、12世紀ころの付近の様子が彷佛してくる。
 
 『独物語』(蔡温69歳のとき、国の将来のことを考えて首里王府の中枢部の役人達に語った書)に、当時の港や船についての様子も記してある。先日伝馬船の浸水式に立ち会った。その伝馬船についても触れている。伝馬船は『独物語』には浦漕船(ウラコギフネ)とある。『独物語』から1700年代の船や湊について示唆が得られる。船や湊について記された文面(口語)を掲げる。
 那覇泊は馬艦船(マーランセン:山原船)を準備してあるから是で山原並に諸離島を走り廻って生計を立て、なお同地所在の人々の便宜にもなっている。だが首里は船乗りについて不案内で那覇泊とは様子が別である。右に述べた浦漕船(伝馬船)は首里人であっても櫓の押し方さえ稽古したら大丈夫乗ることが出来る筈である。その上各地の浦々に湊を作って置くならば天候の悪くなり次第どの浦へでも走り入り少しも心配がないと考えられる。
 茶湯崎に湊を築修し置いたら首里全体の便宜は無論のこと山原並に離島からの首里向き上納物並に地頭用の荷物類も茶湯崎で陸揚げして便宜がよいし、また首里からの支那行きや日本行きの貨物も積み下し積み上げがたやすく如何にも重宝になることは決定的である。
 但し諸船着場の湊の作りざまはその法式がある。水源の無い所は湊を作っても又々泥土が満ち塞る筈だ。水源のある所は其の法式で作っていたら雨のある度に泥土を引き流し浅くはならない。幸い茶湯崎は水源がある。
 
 
山原船


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