日本財団 図書館


久高島と山原船
船上からセーファーウタキ方面をみる
 
 久高島(知念村)をゆく。久高島は2002年1月にも訪れている。今回、久高島の祭祀場を多く見たのであるが、久高島の祭祀を王府に関わる祭祀と、かつてあった島の二つの村(久高村と外間村)の祭祀が重なっているのではないか。それらを区別して見ていけるのではないか。二つの村の祭祀に王府の祭祀が重なっているために、複雑になっている。
 今回の渡島は、山原船の航路と津堅島(現在はうるま市)がかつて西原間切の島であったことが気になっていた。『正保国絵図』に「西原間切之内 つけん嶋 人居有」とある。『琉球国高究帳』でも西原間切の内である。間切の領域の組み換えがあったようで、津堅島は勝連間切へ組み入れられている。いずれにしろ、津堅嶋が西原間切の内だったことは、海上交通による便利さからきたのではないか。もちろん久高島は知念間切の内である。
 知念村の安座真港から久高島に渡る船上、津堅島の位置を確認してみた。津堅・久高と併称される意味が船上から実感できる。沖縄本島の東海岸を往来する山原船は津堅島を通り過ぎると、久高島と本島との間を目標に南下していく風景が浮かぶ。さらに久高島の土地が気になっての渡島でもであった。短冊型に区切られた土地は個人所有ではないとのこと。明治36年の土地整理で地割地(共有地)が個人有地になるが、久高島は個人有地にしなかった。それは近世の土地制度(地割配当地)を今に引きずっていることになる。土地を耕している年配の婦人との会話である。
「この土地耕している方のものですか?所有権をお持ちでしょうか?」
「いや、この土地はマチ(知念村?)の、字(アザ)のだよ」
「もし、土地を耕している方が亡くなると誰にさせるのですか?」
「息子であったり、親戚だったりだよ。ダー年寄りだけだから草ボウボウさ。昔はよ、もっと細かったよ」
「土地狭いですが、男の人たちは何をしていたのですか?」
「昔はよ中国への船もっていたさ。それとよ海(漁業)ださ」
 ちょっとした立ち話であったが信じ難い場面に遭遇した。明治36年に廃止された地割が久高島にまだ生きている。細長く区画されて土地利用をみると、今では集落の近い場所は耕されているが、お年寄りが多いため放置されている土地が目立つ。個人有地であれば、それらの土地は地割の痕跡は消えていたのではないか。もう少し土地所有について確認する必要がある。土地制度(地割)で生活していた社会や人々の生活を踏まえたところで祭祀もみていく必要がある。
(帰ってから久高島の土地について調べてみた。興味深いことばかり。地割の実態を膚で知る必要あり。『知念村史』第二巻資料編2知念の文献資料に久高島の土地に関する詳細な資料がある)
 知念半島と久高島との間を通る山原船については、調査を必要とする。
 
水平線上に津堅島が見える
 
徳仁港の船着場
 
集落は石積みが多く見られる
 
外間殿と外間根屋
 
バイカンヤーと神アサギとシラタル宮
 
西威王の産まれ屋
 
以前はもっと狭い区画だったという
 
ワク地の境界は小石で


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION