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与那原の港
与那原のマチの風景
 
1. 与那原港の概要
 与那原港は沖縄本島南部の東海岸に位置し、「おもろさうし」に「よなはる」とある。佐敷からでた尚巴志は与那原港の異国船から鉄を買い求めて、農具を作り人々に与えたという(『中山世譜』)。大里間切の番所が南風原村にあったのを1736(乾隆元)年に与那原村に移された。そのこともあって与那原港を中心に交通交易の拠点となった。1803(嘉慶8)年に久志間切の嘉陽村と安部村の村人が楷木を納めるため、あるいは聞大君の御新下りの時の仮屋を建てるために材木を積んで入津している。また、与那原港が要津であったため中国の福建省やベトナムや長崎に漂流した記事が『球陽』や『中山世譜』などに見られる(『角川日本地名事典沖縄県』)。
 与那原港は、那覇港に次いで山原船の出入りが頻繁な良い港で、常に数十隻の船が方々から集まる。本港には船の取り締まり所があり、与那原一ケ村の出入りする山原船を検査する。同所の取り調べによると、輸出の主なものは焼酎で、主な輸出先は国頭・久志・金武で、道の島に向って航行する船はほとんどなく、また日本形船の入港も少ない。
 与那原港は、大正から昭和初期にかけて山原船が頻繁に往来し、材木商や薪炭商などの店が軒を並べ、また市場もありマチとして繁盛していた。陸路では乗合馬車や人力車、荷車などが那覇や与那原近郊を往来していた。那覇と与那原間を軽便鉄道が走り(大正3年開通)、泡瀬(美里村)まで馬車軌道が敷設され、また島尻方面へ客馬車が通っていた。
 「出港酒類取締ニ関スル意見」(明治27年)に「島尻地方大里間切与那原港」のことが「是は首里を距る僅に里許に過ぎず、且中頭国頭の東海岸に通ずる良港なるを以て船舶の出入極めて多く、随て酒類の出港亦少からず」とあり、明治20年代の与那原港の様子が知れる。
 
2. 与那原港
(「船税及焼酎税書類」)(『沖縄県史』第21巻資料編11 465頁)
 与那原港は那覇港に次ぎ、山原船の出入最も頻繁なる良港にして常に数十艘の船舶輻輳せり。本港には船舶取締所ありて、与那原村一ケ村の出入山原船を検査す。仝所の取調によれば輸出の重なるものは焼酎にして輸入の重もなるものは薪炭とす。而して其焼酎の出港先は重に国頭、久志、金武の三間切に向ふものにして、本港より直に道の島に向て航行するもの等は、未だ発見する能わず。然れども本港には道の島より日本形船の入港することも亦少なからざるべければ、是等が自然積載することあるも知るべからず。然れども是等の船舶に向ては何等の規程なきを以て、出入港の度数たに知る能わずと云う。亦遺憾極まれりと云う。本港に接続して小那覇下と唱う所あり西原間切小那覇村に属す。今回幸に本間切に一泊せるを以て輸出入の等の項を取調べたるに、仝地は首里より焼酎の仕込を為すに最も便利と見え、東海に浜せる平安座以南のものは、大概仝地より積載するものゝ如し。是等は別に津口手形(焼酎販売人は別に此の手数を要せずと云う)のあるにあらざれば輸出の高は之を確知する能わざれども、或は却て与那原港よりも多額を輸出するやも知るべからず。今本部間切が取調たる廿六年度中の輸出入の重なるものを掲げれば、右の如く廿六年中に於て焼酎の輸出あるを発見せるにあり(表は略)。尚進て廿七年分の輸出と其出先とを調査したるに、豈図らんや本当所は他府県に向て酒類の輸出を公認し、無税にて大島へ輸出せしめたることあらんとは其石数と度数と掲くれば、にして、其石数たる只津口面に顕はるゝに過されば、或は此余に輸出したるもあるべく、或は密輸出を為したるも少からざるべきを想見するに足るべしと思わる。
 
3. 与那原港(各港取調書)
(沖縄県史21巻所収 471〜472頁)
 本港は島尻地方大里間切与那原村にあり。
第一 商業者の惣数 九拾九人
第二 仝上の内焼酎販売者の数 拾人
第三 仝上販売者の焼酎仕入高
一 廿六年中 百六拾八石三斗八升
二 廿七年中 百五拾七石三斗六升
第四 仕入先及販売先の重なる者
一 仕入先
首里の製造人より買入る
二 販売先
 与那原村近郊の村民のみにして船主船頭等に売付たることなし
第五 所在船舶の種類及数
一 種類及び数
反帆船(7)・剥小舟(19)・伝馬船(4)・剥船(26)・日本形艀漁船(1)(計57艘)
二 出入度数
出港 明治26年(869艘) 同27年(353艘)
入港 明治26年(1,789艘) 同27年(833艘)
(1月〜6月)
三 出港するものの方向国頭地方金武、久志、国頭に向て出港するものを最も多しとす。遇平安座村の刳舟にして本港より大島に向て航行することあり。然れども最も僅少にして一二回に過ぎず。
四 入港するものの出先仝上国頭地方より入るものを最も多しとしす。
五 焼酎販売者の所有する船有無所有するものなし
第六、他より出入する船舶の種類及数
一 入港するものの出先惣て国頭地方より来る
二 出港するものの方向
仝上
第七 陸揚する物品の種類数量
第八 輸出物品の種類数量
 
4. 与那原と金武・久志との争議
 明治41年の琉球新報に薪の運送に関して、与那原と金武・久志との間に争議が起こった記事が掲載されている。
 
【久志・金武両村対与那原民対抗】【明治41年5.11 琉球新報記事より】
 島尻郡大里村字与那原の人々は、古くから国頭郡久志、金武、国頭の各村と産物の交換をしていたが、最近両地域とも穏やかでない状況であるとのことである。昨日本社記者が与那原で調査した所によると、与那原と久志・金武とは昔から密接な関係にあった。旧藩時代は久志・金武の両村では各字の状況により一隻か二隻の共有船があり、村民はこれで薪を与那原へ輸出し、生計を立ててきたが、廃藩置県以後、積荷船舶は与那原へ譲渡し、与那原の人が久志や金武へ自分たちで薪を求めに行くこととなり、そのついでに与那原から日用品を久志と金武の両村へ輸出するようになった。従来久志・金武両村よりの薪の代金は一束二銭であったが、久志と金武の両村において今度杣山を整理し、地代を払わなければいけないので、二厘の値上げをするとのこと。
 現行価格ですら、首里や他の酒屋から薪代が高いと言われ、石炭の利用も多いというのに、もし現在の値段以上の価格に値上がりすれば、到底販売ルートは途絶えてしまう。現行価格より一厘でも引き上げるのなら、久志・金武両村の輸入薪を拒絶すると決議し、積荷船90余隻を全部与那原の海岸に繋ぎ、決議違反者を厳しく取り締まっている。
 与那原の人々の話によると、久志・金武にて現行価格通りに戻すのでなければ、今後両村との関係は全く絶ち、久米島や八重山地方と貿易をするとして、現に同方面に船を出し始める者もあるとのことである。この後、与那原の人の「杣山整理を利用した村の議員や野心家の企てたことで、この値上げは与那原にも久志・金武の人々にとっても不利益である。何故なら薪一束二銭二厘のうち村民には一銭八厘しか払わない、残り四厘は与那原の船方から村が直接徴収するということで、久志・金武の村民も与那原村民も二厘ずつ損をするからである。村の野心家がこのような手段で得る年八千円のお金をどうするのか、疑問である。営業を止められ大変だが、各船方よりお金を募って救済費とする」との談話が続き、その後「久志・金武・与那原各村字の窮状」を知らせる記事、続いて泡瀬の製塩業者も与那原からの薪が手に入らないため塩が造れず、とんだ余波を受けたとの記事が掲載されている。
 この「薪値上げ事件」の発端は記者の調べた所によると国頭村役所の職員一名と当時久志の議員だった二名の者が中心人物らしいとのことであるが、最初の記事が掲載されて約1ケ月後、島尻郡長斉藤用之助、国頭郡長の前任者である喜入及び後任の大塚郡長などが関係者と熱心に協議を重ね、「二銭一厘をもって与那原村民が従前のごとく船積みをなすことに決定」したという。


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