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久志の港
 旧久志村は太平洋に面した沿岸に各部落が点在し、就中大浦湾に面した大浦港、汀間港及び辺野古港は帆船や漁舟の出入停泊に便利で昔から帆檣が林立する景観でした。其の他の部落も帆船出入の便があり農林水産者等の輸出には帆船が唯一の輸送機関で村民の首里那覇初め中西部への旅にも帆船を頼りにしていたが今次大戦で大方被害を蒙り戦後は僅か数隻が昔の名残の姿で航海していたが陸上輸送機関の目覚ましい発展に押され、最近其の影は見られなくなった。(『久志村誌』91頁)
 
1. 辺野古の海上交通
 ヒヌク海は自然の環境に恵まれ、長崎地先東海上の長島より南の久志海域に至り、サンゴがつくるリーフ群が形成され、その礁原は外海から打ち寄せる荒波を緩くする役目を果し、その作用によってイノー(海)もおだやかな流域となり、リーフの切目は外海からの船の出入り口となっている。
 また内海東方には広大な大浦湾と接し、湾曲状に入り込んだ入江は、古来東海域を航海する船の避難港としても広く知られ、『琉球国旧記』(1731年)でも「辺野古港」と見られ、自然に形どられた良港であるといわれた。
 陸路交通の未発達な時代は、輸送機関もすべて海上交通によるものの外はなく、その主軸となったのが山原船といわれる帆船であった。山原船にはマーラン船(馬艦)とカウチーの二種があり、それぞれ構造も異り馬艦船などは帆の反数をもって船の呼称をしていた。海上輸送機関としての山原船の歴史は古く、シマに於いても地船(じぶね)と呼ばれる公用船を所有していた。
 資料によると、1864年(元治元年)久志郡辺野古船一隻人数六名折江省定海県(中国)に漂到する(『中山世譜』)や1870年(明治3年)辺野古地船不審につき検問報告との記事も見られる。それによると、六反帆久志間切辺野古村地船船頭勝連間切浜村玉城築登之親雲上は八重山島へ航海途中順風続かず多良間島へ来着し、島の目差(役人)等に不審船として取調べを受けているなど(『多良間島往復文書控』)、更には1875年(明治8)にも辺野古村地船十一反の大型帆船が与那原村の喜屋武筑登之親雲上が借る所により、航海中嵐に遭い朝鮮に漂到する(『球陽』)と記されている事でもわかり、当時こうした地船は村(字)の租税の搬送や役人の出張等に使用された公船で、いわば村の共有船であった。
 間切各村々では一隻以上の船舶を建造、所有していたといわれ、こうした地船も近世以降は他間切村の商人に賃貸借させ盛んに交易船としても活用していたようである(『沖縄大百科辞典』)。
 その事は、前述の他村出身者が船頭として乗組み遭難している記事でもわかり、地勢険悪ゆえに各村々ではなくてはならないものであったのであろう。また明治後期頃からは山原船を個人所有する者もあり、林産物取引きに辺野古を津口(港)とした他村の船頭も多く、平安座や泡瀬、与那原船籍が最も盛んに交易していた。その船数も、ヤニ浜やナービグゥを含めると拾数隻にもおよんでいたといわれ、夕暮れ時にもなるとトングヮ周辺のウキスー(船浮所)や高瀬岳前方の海上に浮ぶ山原船の光景は僻地村の情景を映し出しているかのようであったと古老は伝える。
 
2. 山原船の交易
 シマを津口にする山原船は、主要産業でもある薪炭や竹茅、キチ材などの建築材の取引きに加え、黒糖の輸送や時には那覇旅の便船としても利用され海上交流は盛んに行われていた。平安座・与那原・泡瀬・佐敷船と生産者(地元)との取引相手は特定されていたが、平安座船籍はグループごとに津口を決めて運航していたようである。
 山原船は型や反数にもよるが、普通二〜三名が常時乗組員として働き、責任者をシンドゥー(船頭)その下級船員をカク(船子)更に下使いで食事の世話や雑役などする者をクイゼ(給仕)と称していた。船頭は津口より林産物を載せて仕向地(寄港地)の那覇、泊与那原方面でも特定の商人と取引がなされ、その復路には生産者の注文に応じて生活物資や雑貨等を購入して交換する事もあり、山原船交易は日常生活は元より字の経済を支えた重要な流通機関であった事にちがいない。
 林産物の積荷は船の大小にもよるが、カウチーなどの小型船になると満潮時には仲毛(現儀保幹雄宅)あたりまで入港して満載しても航行は可能であったといわれるが、マーラン船の大型ともなると、前嘉陽や新垣屋、ウーギドゥ前のナートゥ(港)の積荷場に接岸、半荷程積込むと船をトングヮ周辺の船浮場に移動して、岸からは小型で物資運搬等に使用される伝馬船で運び積荷をした。
 こうした作業も一隻に何千把という薪の量であった事から相当な労力を費いやしていたといわれ、中には夜遅くまで積込む船頭もいたという。また林産物が少なく積載量に達するまでは四〜五日も碇泊しなければならない事も多々あり、満載して出航準備が整っても帆船の為、天候に左右され順風が吹き起るのを持たねばならない時もあった。しかも天候が崩れたり、東海岸線を航海する船舶の夜間航行不能の場合でもスガキと称して辺野古港には数多くの船籍が係留され山原船でにぎわいを見せる事もあった。
 このように何日も碇泊する内には、船中で、「網引行事」や「鬼ムーチ」などの節日を迎える事もあり、その日の夕方になると船頭はカク達を使い、ターグ(水桶)やティル(竹かご)を担がせ家々を廻り、「カシキーヌハッ」又は「ムーチヌハッ」などと唱え「喰うらしみそうリー」とごちそう乞いをして歩いた。
 これは山原船の習慣的なもので、日頃は芋を常食にしていたが、この日ばかりは、時節の恵みをうける事になり、住民も心得えたもので、スンカン(おわん)の一杯づつ水桶に入れてもたせたといわれ、船員達もカシキメーをいただきながら折目の祈願をしたという。またムーチ等は船上で陰干しにして保存食にしたりして、角力大会にも飛入りするなど津口の住民とは溶け込んでいたといわれる。
 古老によると、交易の為の航海は仕向地となる那覇泊へは月二回程で泡瀬方面には四回ほど往来したという。
 そして山原船交易がもっとも盛んに行われたのも大正時代であったと伝えられている。
 
宜野座の港
 
1. 宜野座の港の概要
 宜野座村の各字と与那原や那覇の間を結び、貨物の運送をしたのは船が主であった。その船は帆船がほとんどで、馬艦船(マーランセン)と呼ばれている。マーラン船は那覇などでは山原船と呼ばれていた。古風のカンバンブニのことをマーラン、和船はカウチーと呼ぶ。宜野座では徳村船とか仲泊船など所有者の名で呼んでいた。
 造船は地元で行うこともあり、材料は松で龍骨(カーラー)に助骨材(タナジャー)を取りつける。中央にフンブ(本帆)柱、前にヤフ(矢帆)柱を立てた。帆は木綿布を竹桟に縫いつけ、古くは蒲の葉を編んで用いた。帆はヒルギや車輪梅を煎じた汁で茶褐色に染めた。
 帆の大きさは七反帆船から十反帆船まであり、特に八、九反帆が多かった。帆船の大きさは帆の大きさで二反帆や四反帆などと表現し、七反帆船は七枚帆の幅の船で45,000斤(27屯)積むことができた。薪の数で8,000束、砂糖樽で200丁であった。漢那の船は糸満・泡瀬・那覇、惣慶の船は泡瀬・糸満・那覇、宜野座の船は泡瀬・糸満・那覇、古知屋の船は糸満・那覇・泡瀬など、それぞれ船は決まった取引先があり、それを結ぶ航路を運航していた(『宜野座村誌』638〜639頁)。
 一隻の船が周辺の村(ムラ)に寄港することもあったが、船主の多くは平安座の人が多く、宜野座を出航すると平安座で一泊し、翌日那覇に到着した。航海は一ケ月に二回が普通であった。マーランやカウチーは、元来貨物船で客船ではなかった。順風のときは、那覇まで一日で行くこともあった。
 惣慶あたりでも、戦前から戦後昭和30年代まで薪材の伐りだしが盛んであった。戦前は「前の浜」に出入りする山原船によって中南部に運ばれていた。大正時代になると与那原と宜野座や金武の間に発動機船が就航するようになったが長くは続かなかった。中には、奄美諸島〜古知屋(松田)〜糸満・那覇をつなぐ船もあった。
 
2. 惣慶の「前の浜」
 惣慶では大正時代に陸上交通が盛んになるまで海上交通が主であった。「前の浜」から山原船が林産物の薪炭、竹木を積んで、平安座湾を通り、泡瀬、与那原、糸満、那覇まで往来していた。山原船は帆まかせ風まかせに走り、那覇、糸満へ旅するには一、二週間もかかった。早旅をするには泡瀬旅といって、泡瀬まで山原船、泡瀬から陸路をとっていた。明治から大正にかけて村の人々は主産物である黒糖の樽詰めを「前の浜」まで運び、そこから山原船に積み込んだ(『泡瀬誌』20頁参照)。
 惣慶辺りでは戦前から戦後にかけて薪材の伐りだしが盛んで、戦前は「前の浜」に出入りする山原船によって中南部に出荷されていた。
 
3. 漢那湾
 漢那は集落の前に漢那湾という港を抱えており、古くから海上の運輸が盛んであった。琉球王朝時代から昭和のはじめまで、漢那の産物である薪炭類、山原竹、竹茅、キチ類、黒糖の搬出や、建築用材並びに生活物資の搬入等はすべて山原船といわれた帆船(ふーしん)であった。山原船は戦後一時期までは数隻が運航していたが、陸上交通網の整備発達によってまったく見られなくなった。船員はフナカク、またはフナトゥーなどといわれ、四、五人がふつうであった。漢那の「前ヌ浜」には常時二、三隻の山原船が碇泊し、まさに「船橋架きて」と歌われた壮観をかもし出すこともあったようだ。
 漢那と縁故の深い山原船に徳村船があった。この船が沖合に姿を見せると、子供たちは一目散にトクムラフニと声高に叫びながら浜辺へと走った。徳村船は漢那の傭船で部落民の生活物資や、建築資材、注文品などを積んで入港するので、部落民にとっては、待ち遠しい馴染深い船であった。傭船は徳村船から平安座の前門船にかわり、次に同じく平安座の当間船へとかわり、またそれが伊礼船にかわって終戦を迎えた。
 むかし、港のことを津口といったが、王府時代には、杣山保護のため、各地の港に勤番(津口横目)などが積荷を照合した。それは船や、積荷に対する課税が目的ではなく、もっぱら積荷のなかの林産物の制限、禁止された木の摘発が目的であったといわれる。漢那の住民からは、船主も乗組員もいなかった。船主と乗組員の出身地は主として、与那城、泡瀬、平安座等で、現在でも船主の子孫が当区に定住している。(『漢那誌』523〜524頁)
 
金武の港
 
1. 金武の港の概要
 金武町は屋嘉、伊芸、金武、並里、中川の5つからなる町である。金武湾に面しているが、際立った海上交通の姿が見えない。大正11年に各村が道路でつながった。石川と屋嘉との間に県道が開通すると、これまで浜辺を通っていた交通が陸路へと移っていった。昭和6年に荷馬車が通れるようになった。その後、船による交易が急速に衰退して行った。荷馬車で伊芸あたりから薪や炭などを中南部のマチに運び、帰路は日用雑貨を仕入れてきた。陸路が開通するまでは、海上航路が主で、山原船が活躍していた。
 
 『水路誌』で、「金武湾は金武崎と伊計離との間より湾入せる広湾にして北側は恩納岳の高山脈を負ひ、南東側は伊計離及び其南西側なる高離竝に平安座等を控え、稍や風浪を屏障すれども湾内南部は険礁散在し、航泊に適するは北岸に沿える一小部に過ぎず。湾の西隅石川村のある処は、沖縄島の最狭部にして、幅約一浬四分三の頸地を成せり。錨地は北岸に沿い、水深十四尋泥底の処伊計離竝に高離の西側水深十五尋の処にあり。前錨地は南風の外安泊し得べし」とあり、金武湾は港に適した所が少ないことがわかる。また、大正時代になると金武と与那原との間を石油発動機船の往来するようになる(『沖縄県国頭郡志』15頁)。
 金武間切の番所は金武村(ムラ)に置かれ、船による木材の積み出しを監視する津口勤番役がいたが1753年に廃止された。伊芸村と屋嘉村の津口改は美里間切の山筆者の管轄となり、金武間切の他の村は検者の管轄となった(『地方経済史料』9)。
 屋嘉の海岸はオモロで以下のように謡われている。
一やかの大はまに(屋嘉の大浜に)
やかのなかはまに(屋嘉の長浜に)
ておらとし ておら
(ておら年ておら)
又やかのおい人(屋嘉の老い人)
やかのもと人(屋嘉の本人)
ておらし てお(ておら年ておら)


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