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6. 辺野喜港
 辺野喜港は満潮時にヨリアゲ森の下まで船が遡ることができた。河口は水深深くつねに何隻かの山原船が碇泊していた。明治13年9月27日の『沖縄県日誌』に、
国頭間切辺野喜村平民大城鍋弐拾三年
一丈 並  一顔 丸キ方
一色 黒キ方  一眉 濃キ方
一口耳歯 並  一鬚 ナシ
着服芭蕉赤縞単衣物並黒木綿真田帯
 右人相書の者外に一名国頭間切辺野喜村持船に乗組同間切辺野喜港へ碇泊之際本年八月廿二日暴風の為め海中へ沈没し一名は同月廿八日同間切宜名真大口浜へ死体流着候処大城鍋儀は于今所在不分明の趣届出候条自然右死体漂着又は見聞候はゝ速に所轄役所へ可届出此旨布達候事とある。辺野喜港に碇泊中の際、8月22日に暴風のために沈没し8月28日に宜名真の大口浜に死体で漂着した。大城鍋は所在が分からず、漂着あるいは見聞したら速やかに所轄役所に届けるようにとの達(たっし)である。
 
辺野喜川沿いの木材置場
 
 『上杉県令日誌』(明治14年)に「辺野喜港に抵る、山原船三艘碇泊す、多く砂糖桶木を積み込み、那覇に運搬すと云う、舟子双舟を艚して待つ、舟に縄を付け、前岸より之を引きて渉す・・・」と記している。戦前、山から手車などで砂糖桶などを運び辺野喜川の橋元で山原船に積み込んだ。その頃集落入口の橋あたりまで山原船が出入りしていた。
 大正五年頃、辺野喜に上門、仲門小など四つの町屋があり、山原船は上門、仲門、比嘉小、門がそれぞれ一船づつ所有していた。その後、金城親吉が山原船を所有するようになるが、道具屋に譲ってしまう。道具屋小の山原船は軍に徴用され鏡地で米軍に焼かれてしまったという。それが辺野喜での山原船の最後である(『字誌辺野喜』62頁参照)。
 
 山原船の材料は村の山から松を切り出し、人力(三人引き)で割いて作り、船大工には喜如嘉の人も頼んだ。また字所有の山原船もあった。(『字誌辺野喜』62頁参照)
 
7. 奥港
 奥は王府時代から与論島への渡口であったが、他の諸港と与論・沖永良部・徳之島との間にも航路が開けていた。奥のウガミの高台から与論島が一望でき、港は与論の方向に開かれている。『水路誌』に「此崎(瀬戸崎)の西側に奥港あり。湾入三鏈にして石花礁港口を擁し、西方へ偏して僅に小船を入れ得べき水道をなす」と記す。アサギンシーという屋号の家は奥川河口付近に相当量の仕明地を開き、また山原船で那覇や与那原旅をしながら町屋を経営していた(『国頭村史』)。
 明治26年に記された笹森儀助による『南島探険』には、奥村から「薪炭、砂糖、樽木、家木、総テノ木材ヲ那覇首里ノ両市 街ニ運搬ス」とある。現在の港は昭和53年に整備され、一時与論島と奥を結ぶ船便があった。現在は漁港として利用されている。
 奥の漁港近くには、明治7年に宜名真沖で座礁したイギリス商船の錨が置かれている。潮の干満を利用して二艘のサバニで陸地に運んだという。
 「おもろさうし」で「おく」と謡われ、沖縄本島の最北端に位置する字である。奥の集落から与論島を望むことができる。奥は鹿児島の島々と沖縄本島を結ぶ重要な航路のポイントになっていた。巻13-177No.922で、航海の安全を祈るオモロである。
へとにおわる ましらて
(辺戸にましますましらて)
ましらては たかへて
(ましらては崇べて)
あん まふて(吾を守って)
此と わたしよわれ
(この海を渡したまえ)
又おくに おわる ましらて
(奥にましますましらて)
ましらては たかへて
(ましら崇べて)
《大意》
 辺戸にいらっしゃる、奥にいらっしゃる、ましらて神女よ、神にお祈り願ってください、私を守って、この渡(辺戸と与論島の間の海)を安全に航行させてください。
 
奥の集落から奥港方面を望む
 
8. 安田港
 林業はかつて建築用材や薪炭材が主だったが、パルプ材やサッポート材などがこの港を通じて売り出されていた時代がある。材木の積み出しは、ほとんど船を利用していた。シヌグイ山には航海の安全を祈願する拝所があり、かつては山頂で煙をあげてゆかりの者の渡航を見送ったという。また与那との間にトーミヤー(遠見屋)があり、かつてここで火を焚いて沖を通る唐船などへの目印にしたという。
 
安田港(国頭村安田)
 国頭村安田港ゆきは、乾隆59(1794)年に朝鮮人十名が安田村いふ干瀬に漂着した出来事があったからである。安田のシニグやウンジャミグヮーや神アサギの調査で何度かきている。今回は「朝鮮人十人国頭間切安田村江漂着ニ付送届候日記」の様子を200年前の出来事であるが、いくつか確認しておきたかった。伊部干瀬は現在の漁港付近ではなく伊部集落沖の干瀬とみられる。
 朝鮮人の漂着とは別に、1853年7月21日にペリー一行が伝馬船二艘で「あだか」にキャンプを張り、22日には出帆している。
 『国頭村史』から概要をまとめてみた。1794年1月30日明け方数十人乗りの七反帆唐(朝鮮)船が国頭間切安田村の伊部干瀬に10人漂着した。乗組人が浜にたどりつくのを遠見番が見つけ番所に報告した。番所から検者知名筑登之親雲上と在番松崎筑登之親雲上の名で飛脚を出し、三司官与那原親方に届けられ、さらに国王尚穆に伝えられた。首里王府が朝鮮人だとわかったのは2月9日である。
 2月4日に出された鎖之側富盛親雲上から以下のような「覚」は唐人としてである。それは間切在番と検者に出されている。途中から朝鮮人扱いとなる。
 
一漂着唐人へ地下人不相交様、堅固可申渡候事
一唐人罷居候近辺、女往還堅禁止之事
一大和年号又は大和人之名乗并斗升京分唐人へ見せ申間敷事
附通用之金相尋候ハバ鳩目金相用候段可答事
一村中火用心能々入念候様毎晩申渡、検者ニ而其首尾可申出事
一村中ニ而大和歌仕間敷事
一唐人滞在中御高札掛申間敷事
右之通堅固可被申渡置候以上
 
 その「覚」は、琉球国が薩摩の附庸国であることを知られないための対応の仕方である。那覇(泊)への移送は、海路と陸路の意見がでたが陸路に決定する。安田村から西海岸の奥間村(国頭間切番所あり)に出て、同村のかかんず(鏡地)の浜から乗船する手はずとなる。鏡地の浜に長さ三間、横九尺の小屋が作られ、そこが仮の宿となる。
・9日朝五ツ時分安田村を出る。夜の五ツ時分に鏡地浜に到着する。
・10日朝鮮人が順風次第奥間村から泊へ向けて出船の予定。
・18日国頭間切地船で鏡地港を出発する。
・18日本部間切瀬底二仲に到着する。
・20日渡久地港に廻船する。
・21日渡久地港を出港する。
・同日七ツ過時分に泊沖に到着する。
(外国船が漂着した場合は、乗組員を移送して泊屋敷に収容し、接貢船で中国に送るのが慣例である)
・5月朔日 接貢船泊を出船する。
・5月20日 順風なく那覇川に戻る。
・6月18日 那覇川口外にて接貢船に乗り付けて出帆する。
 
ミチブーにつくられた安田の漁港
 
網にかかった魚をはずしている
 
「国頭村安田の風土誌」(1972年)
 「・・・明治の20年頃から利にさという与那原の4、5人の人が移住。あきないの門戸をきり開いた。
 当時の生産物といえば林産物(用材、山原竹、薪)等が主で海人草、貝殻等がそれに続いていた。
 明治30年頃には字民からも小店を出す者が出て、その数12、3軒になり表面にぎわいを呈したものだ。林産物は当初与那原に出されたが、字民からも山原船を持つものが出たりして、糸満・那覇中南部各地に販路は開拓されていった。
 物資運搬のため、1952年に安田丸を購入、建築資材・林産物・竹を運搬、寄港先は安田−与那原−馬天−糸満−那覇である。しかし、安田丸も1956年に売却、これにとって変ったのが、トラックであり、1957年にトラックの運行開始、1960年に辺土名まで客車の運行が開始された。


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