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大宜味の港
1. 大宜味の港
 大宜味村は名護市の北、国頭村の南側に位置し、集落の多くは西海岸沿いに発達している。1673年に田港間切が新設され、後に大宜味間切となった。田港間切の頃は、田港村に番所が置かれていたようである。17世紀末頃に大宜味間切と改称され、番所は大宜味村(ムラ)に置かれるようになった。さらに番所は塩屋へ移った。明治44(1911)年、塩屋にあった村役場を字大宜味に移転し、現在にいたっている。
 現金収入は薪の切り出しが多く、山原船によって那覇あたりまで運ばれた。藍や樟脳などの栽培が行われていたが、統計書には余り表われていない。大宜味の港は塩屋湾が主港となり、船持ち達は各村の前に船を着け、荷の積み降ろしをしたというが、『琉球国旧記』(1731年)には港名の記録はない。
 大宜味間切の渡野喜屋村地船、大宜味船、根路銘村地船など明治17年の「津口手形」(『大宜味村史』資料編所収)があり、当時の様子の一端が伺える。津口手形には船の大きさ、船主・乗組員、積荷の品目などが記されている。津口手形は、近世の積荷検査証のことで通手形ともいわれている。国頭地方の杣山から禁止されている木が切り出され、必要以上の林産物が運び出され乱伐されないよう、国頭の港(津)を出港する船に津口手形が発行された。船が那覇や泊、あるいは与那原などの港に着くと船改所で積荷の検査が行なわれ、津口手形と相違ないか調べられた。違反すると罰金または船が没収されることがあった(『沖縄大百科事典』)。
 「津口手形」は船に税を課すのであるが、杣山の保護が主な目的である。
 大正2年の『琉球新報』の記事は、大宜味村の様子を次のように伝えている。古くから山原の薪取りを家業として生活を営んだ。砂糖が有利の物産であるとわかるのは近年のことである。労力を費やして原野を開墾するより、手近の山林の樹木を伐採するのが便利で、目前の利益は砂糖に勝る。薪取りの商いは一日40銭ないし50銭の利益がある。砂糖は10挺製造するのに年百円である。大宜味はそれだけ山林に依存していた。もちろん、薪や木材の移出は山原船を使っての海上輸送であった。
 山林依存率が高かったため、山林保護や育成に力を注ぐことになる。日露戦争の戦勝記念の造林が村をあげてなされた。その頃楠木の造林がなされ、楠木を原料とした樟脳(防虫剤)が製造される。大正10年頃の大宜味の山々は薪木や材木の切り出しで荒廃していたという。
 明治以前の頃の大宜味間切の交通事情は大宜味から名護をへて那覇にゆくには、海路と陸路があり、海路はサバニで羽地の源河、あるいは仲尾次までゆき、そこから陸路で名護までいった。陸路は塩屋湾を渡し舟で渡野喜屋(現在の白浜)に渡り、そこから津波グスクを越えて平南川へ、渡しの舟があり、山越えで源河へ抜け出た。それでも海岸(浜)、山、川を渡っての往来であった。明治の後半頃から名護から那覇へ汽船が航行していた。大正になると乗り合い自動車と競合した。大宜味出身者が安く泊れる大宜味宿が名護や那覇にあった(『大宜味村史』)。
 
塩屋湾に面して大宜味番所があった(現在、塩屋小学校)
 
【大宜味間切の輸出品】(明治31年)
割薪・砂糖樽板・仝底蓋板・松薪・仝技
木炭・皿木・製藍・砂糖樽・棕櫚皮
板木・又柱・角木
 
【大宜味間切の輸入品】(明治31年)
焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶
白布・瓦・唐綛・雑品入・白米
 
・汽船が名護−那覇間航行する。
・大正7、8年 乗合自動車が登場する。
・大正11年名護から源河まで自転車。以北は人夫にかつがせた。
・昭和4、7年にかけて塩屋から辺土名までリヤカーが往来する。
・昭和6年塩屋と喜如嘉の間に南陽自動車が運航する。
・昭和7、8年郡道が整備される。白浜から大保経由塩屋へ。その頃、大宜味と那覇間を動力船が就航する。30トンほどの三島丸が就航したが、薪や炭などの運搬は山原船が主流であった。
 
樽板と蓋底板
(明治34年3月9日 琉球新報)
 本間切に於ては樽板と蓋底板砂糖樽皮を製造する樽板並に蓋底板は大宜味国頭辺より輸出するが故に運輸丸に搭載するは殆んど稀なるか今去る二月一日より一昨日迄山原船にて那覇港へ輸入したる樽板並に蓋底板の数を取り調ぶるに樽板は総計十三万一千五百枚にして蓋底板は七万四千枚にして続々輸入し居れり
 
船舶取締規則違反者
(明治35年3月13日 琉球新報)
 去る十日午后五時頃のことなりき国頭郡大宜味間切仝村×××番地平民大城△△(当29年)は自分所有の琉球形四反帆船に薪木亦は雑木を仝津口より積載して当港へ入港したりとて手形を那覇船舶取締に差出したり依て仝所は例の如く臨検したるに豈に図らん其の手形面外に梛角木5本仝桁50本仝橡8木槇椽6本都合69本を積載し居るに付き此は全く船舶取締規則違犯なれば直に現品は差押えて仝所に保管し本人は告発されたり云う〈番地、氏名は伏字にした−注〉
 
徒歩、駕籠、刳舟の三便
(大正2年10月12日 琉球新報 大宜味村より)
 名護より大宜味に行くには徒歩、駕籠、刳舟の三便がある、何れによるも旅行者の勝手であるが一等安全なるは徒歩に如かず、駕籠は一歩過ては断崖絶壁の下に落つる危険があり、刳舟は夏の海なら知らず秋期の海は北風強く危険に遭遇せし例決して少からずと也
 
刳舟に乗る
 名護の一夕沖縄支店長の大宜味氏に注意を与えられ、更に県会議員の仲里金五郎、上地福清両氏は自己の経験をも陳べ嘗ては命拾いの祝などしたこともありと説いて刳舟に乗る危険を熱心に諫めるのであった
 
刳舟の危険の有無
 名護より大宜味までは行程七里、何程安全でも徒歩はちと考え物だ、船着き場の羽地仲尾次迄行きての成行きに任すべしと、名護より俥に乗り仲尾次迄一里十七町の行程を車賃三十銭で無事着す、仲尾次には友人山川文信君が医業を開いて居る、山川君の家に寄って今日の天候と刳舟の危険の有無を聞くとナニ大丈夫さと答えた、地獄に仏の形容詞は当らんが確かに運命の神の宣告程に力を得て刳舟で航することに一決す
 
 何日ぞや社の梅山君が他人の泥酔した経験を知らんが為、瞬時にビール二本を平げ大いに苦しみ妻君を驚かせたと云う話しは甚だ奇抜であった、割舟の危険を自己も覚えて見たいと云う考えは泥酔の経験より無謀で馬鹿げて居るが、危険の刳舟に乗って見たいと思った僕の決心は山川君の言葉も大いに頼りにしたが梅山君奇抜の真似も亦与って力ありだ
 
松木の舟
 刳舟の客は僕一人で大宜味まで七十銭の約束だ、刳舟は杉舟でなく松木の舟で引っくり返えれば海底に沈む、故に引っくり返えるが最后だとは名護で聞いたことだが、乗って見ればそれほど危険も感ぜず二人の舟子が片袖抜いで肩の筋肉を怒らして漕いで行く有様は壮快だ、舟が次第に進んで今しも源河口と云う所に差しかゝるとサア事だ
 大波小波は遠慮容赦もあらばこそ、宛然大洋に木ノ葉が弄ばる如く寄せては返す其の瞬間にアハヤ海底の藻屑と叫んだこと一再ならず、実は原稿用紙に万年筆を乗せ「刳舟の中より」と題して感想を物せんと企てしかと今や其の騒ぎにあらす天の一角を拝して助けて呉れ!を叫ぶの大惨劇、舟子二人は我輩を顧みて旦那大丈夫源河口を出れば安全ではなさそうな面地をして居る
 
舟子二人は額に汗
 尾籠の話だが山川君宅で午御飯を呼ばれた馳走は遺憾にも源河口の魚腹に奪われ連もジット坐って居られんから運を天に任せて低伏せに転んで、サア此の五尺の運命を勝手にせいと、冷汗流して閉口頓首の間にも窮鼠の勇気を出して波のまにまに任せて行く、時に顔を上げて見ると刳舟は何時まで現場を離れるともせず舟子二人は額に汗を流して刳舟を操縦し怒濤と戦って居るばかりだ
 
浜には真裸の村童
 暫時夢幻の境に世を離れて居た僕の魂は耳朶近く「旦那旦那」と呼ぶ声に驚いて顔を抬げるとヤハリ舟の中だが、何時しか浜には真裸の村童が集ってニタニタ笑って居る、刳舟が転覆して僕□溺れて仮死して居た所を今人事不省の中から起こされたのではないかと、懐中に手を入れて見たがナニ濡れて居ない熱がある、それで刳舟が無事着いたなと思った時覚えず太息を吐いて上陸した、村童共はニタニタ笑って居るが誰れに聞いても笑い事ではないのさ
 
 大宜味の友人の家を訪ふて刳舟で来たと云ったら色を変えて驚いて居た、僕がナニ大丈夫さと威張ったら君はエライエライと褒めた、但し先刻のことは一切内所にしたからである、学校の先生に風呂を呼ばれて夕飯を食しビールを飲んで寝て朝六時に起きて元気が附いたから此の通信を認めました
 
刳舟の海路
(大正2年10月14日 琉球新報 大宜味よりの帰途)
 羽地仲尾次より大宜味まで刳舟の海路は臍の緒切って以来の一大冒険で先回申し述べし通りだ、更に諸兄に冒険的たりし実際をお話せんに僕等と前后して航し居たる刳舟が怒濤の為にき込まれてアレヨと云ふ暇もなく見る見る内に海底に沈んだことである、其の刳舟は幸ひ人の代わりに瓦を積んで居た、二人の舟子は瓦と共に見えなくなったが少時して首だけ浮んで命カラガラ浜に泳ぎ着いた、瓦を余計に積んで操縦に困難した結果でもあったろう□不思議に僕の舟が助ったのは死神に未だ縁遠しと云うの外ない
 
大宜味村の物産
(大正2年11月5日 琉球新報 大宜味村)
 大宜味村の物産は米、山藍、甘藷、黒糖芭蕉芋、芭蕉布、大麦、大豆、漁獲物等であるが其の中輸出品として主なる物産は下の数種である
(明治40年調査)
・薪 24,125円
・砂糖 2,940円
・搏板 4,000円
・米 1,950円
・建築材 1,200円
・泥藍 600円
・炭 5円
(合計) 34,820円
 
而して同年間に他より輸入せるものは
・泡盛 22,500円
・大豆 1,900円
・素麺 750円
・米 1,000円
・石油 560円
・茶 480円
・昆布 175円
(合計) 27,365円
 
輸出入貨物
 上輸出入貨物を差引計算すると七千四百五十五円の輸出超過となる、之は数年前の調査にかゝり之を以て大宜味村の経済状態を知ろうとするは余りに時日の懸け離れて居るが而も当時二千九百四十円しかなかった砂糖は毎年増えて今では一万円に上って居る、其他の物産は薪、摶板が重なるもので大した増減もなく、輸入品に於ても殆ど大差がなく現状維持を保って来て居る、砂糖の増収が多くなった丈大宜味村は数年前より輸出超過の増加を来し経済もそれだけ潤沢になって居らねばならぬ、所が実際に於て大宜味村の経済は年々不振を生じ小学校教員の俸給さえ二三ヶ月未不払いのものがある、小学校教員の俸給を支払えない村は支払を延期し他に村が支払うべき金の延期をもサッサとやって憚らない、教員等は殆ど全部居村の出身だから俸給を延期されても幸に日々の生活に影響を受けて居ないが内々村理事者にこころ宣からず思うて居るのは一般村民と同じである、吾々は理事者諸君が大宜味村と云う大きな家庭の台所を司りながら其の家庭の中堅となりて働く小学校教員の空腹を余所に眺め台所役の役徳で自分等一人満腹して済し込んで居るのを見ると大宜味村の有志が村役人に対する誠意の有無を疑うのも決して無理でないと思うた(素月生)


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