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6. 恩納間切の漂着船
 恩納間切(現在の村)の村船が暴風で漂流し中国に流れ着き、助けられ琉球に返還された記事が『中山世譜』に散見できる。その中からいくつか概略を掲げ紹介することにしよう。
 
■1794年に恩納間切安富祖村の比嘉が三反帆の小帆船に五人乗り、薪類を積載して港から出航した。ところが洋上で逆風に遭って流れ流れて中国の淅江省の寧波府象山県に漂着した。中国の地方官は彼等に衣、食事を与えて健康回復につとめた。比嘉等の小船では琉球まで行き着くことが困難と心配し小帆船を買い取り、それだけでなくまで送り届けた。
 
■1873年に六人乗りの恩納郡(間切)船一隻が中国江南省に漂着し、その船は朽ちてしまった。この船で大洋を航海して渡るには困難なので、これを売り払い中国の地方官は難民を福州に送った。布政司は難民を柔遠駅に宿をとらしめ、日常の食料や銀などを給い、接貢船で国に帰した。
 
■1842年十人乗りの恩納船が安填に漂流し入港してきた。地方官は前例に従って福州の琉球館の在る柔遠駅に送った。そこで布政司は各人に食料や銭を与えた。恩納船は小型であるため大洋を渡ることは困難である。そのため売り払って、各人に藍布四疋、棉花四斤、煙草一斤、茶葉一斤、灰麺一斤、豚羊肉を与え、接貢舟と国頭船に分乗させて琉球に帰した。
 
■1846年に恩納郡(間切)の馬艦船が二隻、一隻が中国の山東省海陽県に、もう一船が江南省撫民府に漂着した。前の船に五人、後の船に八人が乗船していたが、内一人が病で亡くなった。柔遠駅に送られ手厚い保護を受けた。両船とも漂着地で船を売り払い、接貢船二隻と接貢船二隻と大里間切船に分乗して帰国した。このとき、那覇東村の船一隻、大里間切船一隻の計17人が漂着している。恩納間切の船と一緒に保護された。大里間切の船は船体が大きく、修理され大洋の航海に堪えると判断され、首里王府の貿易船の二隻に分乗させて帰国させた。
 
恩納村の海上交通
 『恩納村誌』(昭和55年発行)に恩納村における港についての記録があるので、そのまま掲載することにする。恩納村には、かつて寄地への渡海耕作があり、貢税、藍玉の運送、それに陶土などの海上輸送があった。それらについては寄地、貢税運送、藍作、陶土の項で述べておいたので、ここでは帆掛舟、石伝馬船、マーラン船について記すことにする。
 
旅客帆舟
 多幸山の馴れぬ山道を通過して恩納区域に出ると、遥か遠く名護や本部半島が手にとるように見える。途端に旅人は自分の家や村に対する懐しさ恋しさか段と増し激しくなる。しかして陸路をとって山道や浜道を通るよりも、潮で濡れる心配と舟賃を支払わねばならないということがあるにしても海道をとって一刻も早く自分の村へ行き着きたい衝動にかられる。
 そこで久良波から舟で真直に行く渡海交通が生まれる。久良波からの帆掛舟交涌は名議行きもあったが、その多くは屋部、本部、今帰仁方面への旅人か利用した。多幸山を日暮れに通過してきた者は、久良波で宿を求め、翌日徒歩あるいは小舟を利用するのであった。したがって何時の間にか、今帰仁宿小、本部宿小というのができた。
 
山原船交通
 前と後に二本帆柱の船を普通山原船といい、白い帆を掲げているのが多かった。大正六、七年頃までの山原地域の貨物輸送は山原船で行なった。砂糖、藍、木材、薪炭、山原竹、竹ガヤなどが、那覇、泊方面に積み出され、帰路は酒、日用雑貨、壷屋の焼物などの町方製品を積んで来るのであった。
 天候不順の日には海が荒れて沖の山原船を見ることができなかったが、おだやかな南風の日には数十隻の那覇、泊で風待ちしていた船が一斉に国頭方面を目指し、陸から見た場合は残波岬から本部の海まで間断なく船がつづき文字どうり、「船橋を架け」ていたのであった。
 山原地域の津々浦々に山原船の一、二隻が見えない時はないに等しかったが、そのことは恩納の浦々も同様であった。恩納村は、山原のうちでは最も那覇、泊に近いところである。したがって藍、木材は他に比して少ない方ではあったか、砂糖も多いとはいえなかったが、家屋建材としての山原竹、竹ガヤ、薪炭類の需要が多く、その積出しの山原船か繁く往来していた。
 ところで普通山原船といっても、それには二種類があった。石伝馬船とマーラン船である。マーラン船は布帆の比較的大型船であった。この船の造船は、大樹の得られる北山原地域で行なわれ、恩納村でマーラン船が造船されたのは大正五年頃に仲泊で造られたのが初めのようで、松茂良某の造船だったとの伝えがある。
 それ以前まで、すなわち県道開通までの恩納には村公有船を別にすれば石伝馬船のみであったという。ところでこの船は龍骨の無い平底船であり、カジ取りはいたって困難な構造であった。特に県道開通以前までの仲泊は交通の要地であった。それは自己村の物資の外に現在の石川市に頼っている地域の村々、すなわち伊波、石川、山城、東恩納一帯の砂糖、薪炭類、などの積み出し港になっていたからである。
 そういったことから村の公有船のマーラン船二隻の外に個人所有の石伝馬船が九隻もあった。これら石伝馬船の帆はマーラン船と異なって石川産の蒲の葉でつくった所謂蒲帆であったがために、マストに揚げるのに七人の男が「ヤレホー、ヤレホー」の掛け声で帆綱を引っ張ったほど重いものであった。もちろん船中に宿泊できる施読もなく、積荷は熱田と名嘉真間の山手に生えている山スゲ草でつくったトマで蔽っていた。ただし、このスゲ草トマはマーラン船の場合も同種であった。石伝馬船は重く、船足遅かったのみでなく、操作も困難であった。
 現存していたら97才の仲泊の古老曰く、「仲泊から伊平屋に大量の藁買いに行ったのであるが、帰る段になったら北風無く、三ケ月も足止めを食った。丁度仲泊出船の場合は三ケ月除隊の輜重輸卒兵の入隊見送り日であったのであるが、その輸卒兵が除隊して帰ってから伊平屋から帰船した船もあった」と。また現在84才の古老の話がある。
 「南風か吹いてきたので、これ幸と那覇泊港から出船した仲泊の石伝馬帆船が、途中東風に変わったために仲泊に航路を向けることができず、とうとうそのまま本部半島渡久地港まで行ってしまった。
 数日北風を待って碇泊していたのであるがその風が無く、何時帰れるやら当がなく、『おそらく家族達は遭難したのではないかと心配しているに相違ない』と思ったら矢も楯も堪らず、山賊出没するとの噂の人家の無い樹林天を蔽う山道の『ジョーガ道』を夜間通ってきた。
 この辺名地から安和間の山道は実に恐ろしかったのであるが、家族のことを思って船乗り達は夜星歩きどうして家に着いた。そして北風か吹くようになってから渡久池港から帰帆した船もある」と。同じ古老の次のような嘘みたいな話がある。「森林繁茂の国頭村の木材を那覇へ運搬して一儲けしようと考えた仲泊船があった。当時国頭村では申請によって松以外の椎、樫などの伐採を許していた。
 仲泊石伝馬船の乗組員達は、伐採した木材を浜辺まで運搬する人夫賃の高額支払いをいとい、自分等の手で伐採、運搬、船積みまでするようにした。このようにした後に北風を待ち、そして那覇まで運送したのであるが、このために要した日数が約三ケ月に及んだ。
 しかも満載した材を売って得たその金から、国頭滞在中の費用一切を除いたら、最初の思いとは全く違って各人の配当金は僅か三十五銭であった」と。多数の隻数を誇って活躍していた石伝馬山原船もしだいに陰をうすめるようになった。それは県道が開通し、荷馬車か活躍するようになったからである。
 海上運搬で活躍していた仲泊に例をとると、今まで伊波、東恩納、石川一帯から小型の「ヂャーヂャー馬小」に150斤入砂糖二丁を載せて仲泊に来るのであった。そして浜辺には砂糖仲買人達の倉もあった。この倉は県道開通とともに県道筋に移され、荷馬車運送に代わった。船運送は潮をかぶるからであった。この仲泊からの荷馬車運送は軽便嘉手納線が開通するようになってますます盛んとなった。
 このように石伝馬船による海上運搬物資は次第に荷馬車に奪われるようになった。しかしながら大量であり、かつ潮濡れもかまわない竹ガヤ、薪炭類は海上運搬に頼っていた。しかし船足遅く、操縦困難で風まかせの石伝馬船では所詮競争は駄目である。このことから、大量運搬かつ船足速く、操縦容易な、しかも大型であるマーラン船に切り替えねばならなかったが、これには多額な資産を要する。それに町方はもちろん田舎地方にも瓦茅家がふえるようになって、竹ガヤの需要も減じてゆくのであった。
 このような社会の変化があって、それに荷馬車運送による陸上交通がさかんとなってきた恩納村であったことから、マーラン船も多くはなかった。名嘉真三、四隻、恩納二隻、南恩納一隻、仲泊二、三隻の、ごく少数であった。
 といっても恩納の海上は山原船の往来で賑やかであった。というのは名護から北の方は相変わらず山原船による郡覇との交通であったからである。したがって天候の怪しい場合は、恩納村の津々浦々に避難侍期する船が、どの浦でも数隻見ることができた。
 天候が良くなると、恩納村のみでなく、他村の港に避難していた船が、津々浦々から一斉に海上に出る場合の恩納村沿岸の海上は、遠く本部方面から残波岬に到るまで、白帆の船で文字通り「船橋を架け」た観があった(『恩納村誌』253〜254頁)。
 
7. 避難港としてのビル港
 字塩屋にあり、残波岬と山原地域との航路に近く、天候不順の際には多くの山原船が避難螺集した港であった。川口にあり、その全面に港を抱き守るような細長い小島「ヒル離れ」がある。水深もあって、東、西、南、北いずれの方向からの風があっても静穏を保つ港であった。
 この港は避難港として古代からその名の知られていたのみでなく、真栄田、塩屋の貢納物やその他の物産の積出港ともなっていた。そのような港であったものが、今では土砂の堆積によってあまりにも浅くなり、たとえ山原船交通が復活したとしても使用不能になってしまっている(『恩納村誌』254頁)。
 
8. 前兼久
 前兼久を中にはさんだ仲泊から冨着までが、壷屋行きの陶土産地をなしていた。現在でも産出している。かつては村船としてアガリ組・イリ組の二隻があり、貢納物を名護市の小瓶底に、また陶土は那覇市の泊港に運送していた。
 陶土は村人男女が東・西組に分かれ、賦役によって山から掘り出され、船着場に当る海浜の所定の場所に運ばれて積み上げられた。この場所を土真積毛(ンチャマジミモー)といった。冨着区域内の黒崎原は前兼久村の所有であったが、そこにも陶土堆積場があった(『恩納誌』615〜616頁)。
 
恩納間切の村船
 恩納間切は国頭方に属し、貢税は穀物が主であった。それらの貢税を陸路で首里・那覇に運ぶことは困難だったようだ。恩納間切は距離としては首里・那覇に近いが、名護間切の湖辺底に運び、そこから首里・那覇に運んでいる。恩納間切の仕上世米は湖辺底港から直接薩摩へ運ばれる。
 恩納間切の村船は米・麦その他の貢税ばかりでなく、ウッチンも番所のある恩納港から那覇港へ運んだ。
 恩納間切の村船は仲泊村と前兼久村では村に近い山手から陶土を堀り、村船に乗せて泊港まで運んだ。泊港からさらに安里川を遡って壺屋に陶土を運んだ。
・王府へ納める期限
一 麦上納は三月(旧暦)より四月中限之事。
但し、国頭方(山原)・久米方(久米島)は海路故四月より六月中限之事。
一 米上納は、六月より八月中限之事、粟黍同断。
但し、国頭方、久米方は六月より十月限之事。
一 下大豆上納は、十月より十月中限之事。
但し、国頭・久米は十二月中限之事。
 
・税を運ぶためのマーラン船(山原船)
名嘉真村・・・○隻
安富祖村・・・一隻(十反帆:二六〇石積)
瀬良垣村・・・二隻
恩納村・・・三隻
谷茶村・・・二隻(前村渠船、後村渠船)
冨着村・・・二隻
前兼久村・・・二隻(アガリ船・五反帆:八〇石積)・イリ船(十反帆)
仲泊村・・・二隻(前船、後船、双方十反帆)
山田船・・・不明
真栄田船・・・二隻(真栄田船、塩屋船)
 
恩納間切の陶土
 恩納間切は陶土を産出し、那覇の壺屋に山原船で運んだ。赤土(赤陶土)は仲泊・前兼久の山手で産出し、白土(白陶土)は安富祖・名嘉真、名護間切のブセナで産出した。白陶土が産出する場所は海岸に接した場所にある。赤陶土と白陶土の運ぶ比率は10対2の割合だったようだ。
 仲泊・前兼久・冨着などの村では山から掘り出した陶土は、船がいつ来てもいいように村の前の港に積み上げておいた。その場所をンチャマヂミモー(土真積毛)と地名がついている。前兼久の港は比較的深かったので浜辺に船を横付けできたが、仲泊は浅く陶土の積み込みに苦労した。そのため、約200mの溝を掘って船が通れるようにしたという。


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