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5. 湖辺底港
 湖辺底の津口は四辺山をめぐらし、港内の水深く、嵐の中でも波濤が起こらないので避難場所として利用され、沿岸の小型船舶や漁船などの溜り場になっている。湖辺底はその名の通り瓶(クヒン)の底のようになっており、一帯は泥砂土で障害物がないので、馬艦船で接岸荷役ができた。進貢品は首里王府に集めて積み出すのではなく、各地方の主要港津で薩摩の在番役人が立ち会い、収納事務が行われた。湖辺底の津口では、中頭の美里から名護・金武・恩納・久志の五間切の収納が行われた。薩摩への上納は仕上世米といい、進貢事務を「湖辺底払い」という。湖辺湖払いの高は約40石(160俵)、その他にオキヌ(染料)など、上木物に砂糖があった。
 
山原船が浮かぶ湖辺底港
 
港きよらさや湖辺底港
港きよらさや那覇とまり
と謡われているが、蔡温も湖辺底港で漢詩を謡っている。
泛許田湖
清湖十里抱村流
此日偸閑獨泛舟
楓樹初飛堤上葉
釣竿殊狎水中鴎
天涯風霞光落
紅面峰高月影浮
纔是滄狼漁父興
敢云我續范蠡遊
 
許田湖に泛ぶ
清湖十里 村を抱きて流る
此の日閑を偸んで独り舟を泛ぶ
楓樹は初めて堤上の葉を飛ばし
釣り竿 殊に狎水中の鴎
天涯風静かにして 霞光落ち
面を紅くして 月影浮かぶ
纔かに是れ滄狼の漁父の興
敢えて言わん 我も范蠡の遊びに続かんと
 
 許田の清らかな湖は、ひろびろとして村を抱くようにめぐりながれ、この日暇をつくって、ひとりで舟を浮かべて遊んだ。堤の上の楓の木が、葉を飛ばしはじめたのは、しのびよる秋のしるしだろうか、湖上で釣り竿をたれている漁夫は、とくに鴎が飛びめぐる。
 湖上は風をもなく静かで、空のかなたの霞に映ずる落日の光も、しだいによわくなってくると、あかく染まった湖面には、周囲の高い峰が影を落とし月も浮かんでいる。こうして湖上に舟を浮かべていると、わずかながらも、あの漁夫の興にちかづくようだ。わたしは范蠡が江湖に舟をうかべた心境に続きたい。
(上里賢一『琉球漢詩選』)より
 
現在の湖辺底港の様子
 
6. 勘手納港
 勘手納港は旧羽地村の仲尾を中心とした羽地内海に面した港である。勘手納港は羽地城(別名親川城)が機能していた時代、間切番所が親川村にあった時代に、羽地の重要な港として機能していた。特に羽地ターブック(田圃)で生産された米を運びだす港であった。また、仕上世米を積み出す四津口(那覇・湖辺底・運天・勘手納)の一つでもあった。羽地間切の上納米は仲尾の勘定納港に集積され、そこで勘定し首里王府に納めていた。そのため仲尾に米俵の倉庫が林立していたといい、その一部が仲尾馬場の東端に残っていた(『かんてな誌』)。
 「親見世日記」に勘手納津口で米を積んで出帆したこと(1785年)や「支那冊封使来琉諸記」に冊封使が琉球に滞在している間、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧港まで陸路で運び、そこから馬濫船で運天港や勘手納港に運び、そこで大和船に積み込んで運んだという(1866年)。仲尾には上納物を保管する定物蔵が置かれ、上納物を勘定することから勘定納(カンテナ)の地名がついたのではないかという(『羽地村誌』)。明治14年に勘定納港を訪れた上杉県令日誌に「勘定(納)港出づ、官庫瓦を以て葺けり」とあり、定物蔵の様子が伺える。また、以下のような歌が謡われている。
 
昔この浜や 羽地村々ぬ
上納物や くまに納みて
勘定あてやい 払ゆる場所やて
勘定納浜んで 名じきてあんでさ
 
 戦前は仲尾に隣接する仲尾次港に山原船が往来し、大正時代には遠く沖永良部島や与論島からも来ていた(『仲尾次誌』参照)。
 
勘手納港を抱えていた仲尾


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