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名護の港
1. 名護の港
 名護市は名護町・羽地村・屋我地村・久志村・屋部村が合併した市である。そのため、港は名護湾、久志側の東海岸、羽地側の西海岸にある。名護間切の番所は名護村(東江村)にあり、積み出しは湖辺底港から積み込まれた。名護間切は特産物として欝金(うっちん)が指定され、サトウキビの栽培は禁止されていた。米や欝金は許田村の湖辺底に集積し薩摩へ運ばれた。羽地間切の番所は田井等村にあったが、親川村が分立すると親川村地内に位置するようになった。各村から集められた上納米は仲尾村の定物蔵に集められ、米が上質のため薩摩への仕上世米に当られた。久志間切は1673年に名護間切と金武間切の村で創設された。当初の久志間切の番所は久志村にあったが、1695年に瀬嵩村に移された。東海岸は極めて陸上交通が不便なため、各村の津口から材木や農産物を山原船で与那原に運ばれ、さらに首里・那覇で販売され消費された。
 『琉球国旧記』(1731年)に名護間切の港は名護港・許田港・瓶底港(湖辺底)・屋部港・安和港・喜瀬港・世富慶港、羽地間切に江(入江)はあるが港はない。久志間切は毛漲港・辺野古港・大港・中港・平良港(現在の東村)がある。
 
2. 名護港(湾)
 沖縄本島北部の西海岸に位置する湾で、東から南を国頭山地が走り、北は西方に突出した本部半島に囲まれている。名護湾のことはナグワンといい、名護の地名の語義は、名護湾の静けさから「凪ぐ」にちなむという(『沖縄県国頭郡志』)。『バジル・ホール探険記』や『ペリー訪問記』ではディープ湾(Deep Bay)と見える。名護湾を縁どるサンゴ礁は、海岸から250〜1,000mの間に分布し、その沖合いは急に深くなっている。名護湾の北岸側と南の字喜瀬と幸喜付近に発達している。屋部川河口には長い砂嘴が形成され、名護湾の漂流物はそこに到着するという。
 漁業が盛んで名護湾のピートゥ漁は名物である。ピートゥは一般にイルカと言われているが、クジラの一種コビレゴンドウクジラが大半を占めている。春から初夏にかけて、近海を回遊するピートゥの郡が名護湾に近づくと、人々は「ピートゥどぅい」の声が駆け巡り、海岸は住民総出の騒ぎとなる。
 明治期まで、山原地方と那覇の交通は海路が中心で、名護港は船客の乗降や物資の積み降ろしでにぎわった。しかし、首里・那覇の人々にとって名護は僻地のイメージが濃く、山原船の船頭を恋人とした渡地遊郭の遊女が「名護や山原の行き果てがゆわらなまで名護船のあてのないらぬ(名護は山原の一番遠い果てだろうか、こんなに遠くまで名護船の音沙汰がないのはどうしたことだろう)」と謡っている(『琉歌全集』2434)。明治の名護訪れた文人たちはこの歌の上旬を引用し歌をつくった。また、名護の人々も口づさむ琉歌に「浦々の深さ名護浦の深さ名護のみやらびの思い深さ」がある。
 名護の浦の白砂の浜も昭和47〜49年に埋め立てられた。明治15年以来郡役所の施設が名護に集中し、政治・経済・交通がにわかにマチ化してきた。明治29年には海運会社の汽船が名護・那覇間に補助航路を開き(明治40年に解散)、明治39年に古賀辰次郎所有の辰島丸が割り込んできて競争航路をつくり、北部唯一の港として日々200余名の旅客と数十トンの船荷を上げ下ろした。陸路が整備される前は、那覇まで2、3日の道中が汽船の運航で数時間になり、旅客は大方海路に依存するようになり、名護が港町として栄えるようになった。大兼久馬場から港までの道路は汽船会社のために設けられ会社通りと呼ばれていた(『角川日本地名事典(沖縄県)』参照)。
 
【資料】
「船税及焼酎税書類」
『沖縄県史第21巻 資料編11所収より』
 
■名護湾
 名護湾は名護間切大兼久、城、東江の三ケ村に渉る港湾を総称したるものとす。本港は国頭役所の所在地なるを以て焼酎の輸入実に夥しく国頭地方第一の最多額を輸入す。就中商人にして五反帆船を所有し常に那覇に往来し焼酎の輸入を図るあり。其他百般の事、総て遂日繁栄に赴くが如し。然れども船舶の出入は重もに那覇間に於て為すのみにして遇々国頭大宜味本部より入港するものあるも其数僅少なりとす。殊に直に他府県に航行せんとするが如きは未だ曾て見ざる処にして、他府県より来るものも未だ曾て之れあらずと云う。或は然るが如し。故に先ず目下の状勢に於ては本港は密輸出の懸念なかるべしと思惟す。
 
■《名護港》
 本港は名護間切東江、城、大兼久の三ケ村を惣称したるものなり。住昔は此三ケ村を名護村と唱えしも、其分村の年代詳かならずと云う。
第一 商業者の惣数・・・73人
第二 仝上の内焼酎販売者の数・・・41人
第三 仝上販売者が焼酎仕入高
(一)明治26年・・・376石 6斗
(二)明治27年・・・574石 4斗
第四 仕入先及売付先の重なる者
(一)仕入先・・・首里より買入那覇泊より輸送す
(二)販売先・・・惣仕入高の十分の九迄は名護近傍に売捌き、其余は羽地間切に販売す
(三)仝上販売者が焼酎販売者の数・・・73人
第五 所在地船舶の種類及数
(一)種類及数
六反帆船7 五反帆船6 四反帆船5
三反帆船2 四棚船11 伝馬船9
刳小舟97 刳舟44 合計181
(二)出入度数
明治26年 出港226 入港220
明治27年 出港284 入港281
(三)出港するものの方向
 那覇泊に向て商品仕入及薪売捌の為め、出港するもの特に多し。遇渡久地国頭等に向て航することもあり。
(四)仝上の地より入港す
(五)焼酎販売者の内、島袋某五反帆船を所持し、那覇間の運漕業に従事し、常に焼酎の輸入を為し、且つ販売す。
第六 他より出入する船舶の種類及数
(一)種類 琉球形船
(二)出入度数
明治26年 出港112入 入港112
明治27年 出港151 入港151
(三)入港するものの出先
 那覇泊より入港するもの多く、遇国頭渡久地より入ることあり。
(四)出港するものゝ方向
 仝上の地に向て出港す。
第七 陸揚する物品の種類数量(物品のみ)
焼酎・素麺・米・昆布・箱・雑石・味噌・茶・上酒・炭・石油・瓦
第八 輸出物品の種類数量(物品のみ)
薪・製藍・米・炭・竹・砥石・陶土・樟脳・銅・石炭・桃皮・砂糖
 
備考 本港に輸入する焼酎は悉く商人の仕入れたるものにして、其内凡そ十分の一余は羽地間切に向て陸路輸送すると云う。本港焼酎販売人の内、重なるもの三人あり。
(島袋蒲一、伊波某、島袋二王)
 
3. 名護の商業と運輸交通(上)
(明治42年4月30日、沖縄毎日より)
 名護市街は名護湾の北浜なる平地にありて、南方は海に面し、他の三方は山丘を以て囲まれ、風は涼しく水清く、山海の景色等閑雅なり。而して海路に於ては殆ど那覇とは毎日、本部村の渡久地とは二三日置きに二三の汽船往来し、陸上に於ては国頭街道此に貫通し、且つ本部、金武及び久志の各村との間にも通路連絡して、所謂四通八達の要枢に位する上に、郡役所、警察署、税務署、専売所、農学校並に村役場、郵便局等の官衙公署あり。随て商業も又繁盛に趣き、共立銀行支店、沖縄銀行支店、百四十七銀行派出所又は商店、旅館等ありて、稍々都会の体裁を備へ、現在(41年末)の戸数906、人口4035を有し、兎に角那覇首里に次ぐ殷賑なる市街なり。
 名護の商業地域は名護全体、羽地村の伊差川、我部祖河、田井等、親川、川上各字、恩納村の字恩納以北にして、久志、大宜味及び国頭各村の如きも時宜に依りては名護に於て需要品を買ふことあり。今41年に於ける名護の輸出入品表を見るに、其総価額65,618円にして、内38,537円は輸出に、27,081円は輸入品の価額なり。而して輸出品の最も多きは黒砂糖にして、泥藍之に次ぎ、薪木、芭蕉実等は稍々重要の位置を占めり。輸入品にては米を第一とし、泡盛酒、石油、小米等と次第せり。尚ほ其の種類と数量を挙げれば次の如し。
 
【輸出品】
黒砂糖・泥藍・薪木・芭蕉実・山原竹・米・白土・木炭・家・石灰・藁・小丸太・白下糖・砥石
【輸入品】
地米・泡盛酒・石油・小米・茶・衣裳類・砂糖樽皮・白大豆・和素麺・杉板・瓦・昆布
 
 輸出品中の砂糖、米、藁、木炭は名護、羽地、薪木、丸太、山原竹は名護、芭蕉布は名護、羽地、今帰仁、泥藍は名護、羽地及び本部の産出に係り、砂糖主として名護産業組合の手を以て取扱はれ、木竹材並に薪木は山原船の持主に依りて出売せられ、其の他の物品は同地の商人之を売買せり。
 輸入品は皆な那覇より仕入れ、其の勘定は月末にするを例とすれど、同地にて小売は現金取引とす。売行は2月より7月(6月は田植とて商売捗々しからず)に至る。砂糖の販売期節は盛況を呈し、夫れより漸次不況に陥り、10月に至りては其の極に達し、11月より少しく持直ふり、12月中旬に入りては正月の準備の為め頗る好況に赴き、1月は酒と装飾品は能く売れるも、其の他の物は甚だ不況なるを免れず。
 物価は那覇に比するも左程高からず。砂糖の出売時期に際しては、那覇に於ける卸売の月末勘定なるを以て、石油、大豆及び和素麺等を買行きて之を販売し、其の金を以て砂糖を仲買ひするものあるが故に、存外廉価に売買せらるゝことあり。
 是れ実に一奇なり。試みに去る中旬頃の物価を聞くに、肥後白米一升二十銭、清酒正宗一本四合瓶二十五銭、札幌麦酒〈ビール〉一本二十五銭、玉子一個一銭五厘、鮮魚一斤六銭、薪一荷二十七銭なり。金利は、抵当付貸借は月一割五分乃至一割八分、個人間の信用貸借は二割乃至二割五分にして、質利は一円以下は四割、五円以下は三割、十円以下は二割五分なりと云う。
 其の営業別の一班を示せば即ち、
・運送業(山原船持) 10  ・請負業 5
・旅人宿 7  ・染物業4  ・印刷業 2
・洗濯 2  ・湯屋 2 ・理髪業 8
・医師 3  ・代理人 5  ・写真師 1
・搾乳業 1  ・屠獣 1  ・芝居 1
・料理屋 8
 また同地に於ける重なる商店は、久志、津嘉山、島袋、平良、伊波、金城、新田、上原等なりとす。
 
4. 名護の商業と運輸交通(下)
(明治42年5月2日、沖縄毎日)
 海陸における運輸交通上の設備整頓するに非れば、産業の発達は勿論、人智の開発も得て望む可らざるは、恰も人体に於ける血液の循環其の宜しきを得ざれば到底其健全成長を期し得ざると同様なり。今名護を中心としての道路を見るに、名護より読谷山に至る約十里の県道は、往時に比すれば余程改善せられたりと雖も、未だ車を通ずること能わざるが故に、産業上の用道としては其の効甚だ少なく、只だ人馬の通行に差支えなしと云うに過ぎず。
 名護より羽地村の源河迄の道は稍々佳良にして車馬を通ずるに足るも、夫れより先きは矢張り辛じて人馬の通行に便するのみ。又た名護羽地の伊差川及び呉我を経て今帰仁の運天港迄の四里余は県道なり。宮里を経て本部村の伊豆味に出でゝ渡久地に至る郡道は三里余ありて、駕籠や牛馬の如きは自由に通行し得べく、其の他に安和嫦娥を経るもの三里余と、安和、ブマ原及び崎本部を過ぎて渡久地に至る(四里余)ものの二筋あれど、不良にして荷馬さえ通じ得ざる程なり。
 久志村へ行くには東原を越えて役場迄二里余あり。其の間約三〇町の山路あるも、牛馬及び駕籠を通じ得べし。金武は許田を経て役場迄約七里半なるが、其の中一里余の山道ありて馬駕籠の如きも通行容易ならず。而して駕籠賃は、二里以内は二人にして一人付一里10銭乃至12銭、三里以上は三人を要し賃銭は同様なり。乗馬は二人半と見做すを以て、二里以内なれば駕籠よりも高けれど、夫れ以上は安くなる訳なり。
 要するに道路は一体往時よりも多少改善せられしに相違なれど、今後社会の進運に応じて運輸交通の便宜を図らんと欲せば、必ずや車馬を自由に走らしむるに足る丈の改設なかる可らず。名護と那覇の間三二海浬は海城丸(287噸)、辰島丸(150噸)及び運輸丸(約80噸)の三汽船が殆んど毎日往来し、時々本部村の渡久地(二浬)今帰仁村の運天(二十三浬)等に回航して、乗客及び貨物を運搬しつゝあるを以て、海上の運輸交通は稍々便利なり。其の間に於ける貨物の重なるは、輸出に於ては砂糖、泥藍、芭蕉実、木炭、阿旦葉帽原料、煙草等にして、其の輸出期節と那覇迄の運賃を示せば下の如し。
・砂糖一挺十五銭、十二月より四月迄
・泥藍一個(四籠)十二銭、年中
・芭蕉実一個(五房)十銭、四月より九月迄
・木炭一個(二俵)十銭、年中
・阿旦葉原料一個十五銭、七月より二月迄
・煙草一個二十五銭、八月
・米一俵八銭、七八両月
・藁一個(五把)八銭、年中
※但し掛費は貨物一個に付二銭、那覇港貨物税一個に付二銭とす
那覇より下りの運賃は、
・米一俵(三斗)七銭
・泡盛二個(二斗)八銭
・石油一函十二銭
・大豆一俵(四斗)十二銭
・雑貨一個六銭乃至三十銭
※但し、一個に付掛費は二銭、貨物税一銭とす。
 薪木、松板、丸太及び竹等は殆んど全く山原船を以て輸送するが、名護住民の所持船(八反帆乃至十二反帆)十五隻ありて、平均一ヶ月の航海回を通例とし、其の荷物は大抵船主の商品にして、運賃積みは取り扱わず。船客は九月頃即ち旧八月には神拝みとて那覇に行くもの多く、五六月は農事多忙の少なし。而して通常一隻に対し片道数十名あるが、一名に付乗船賃並等四十銭、二等六十五銭にして、単り海城丸は一等の設備ありて、一等は八十銭なり。艀賃は名護五銭、那覇五銭及至十銭とす。


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