日本財団 図書館


本部の港
 本部町は沖縄本島北部の本部半島の西側に位置する。1666年まで今帰仁間切の一部であったが、分離し本部(1667年は伊野波)間切となった。その本部には、渡久地港と本部新港がある。また瀬底島と本島側の浜崎との間をモトブタナカやシークタナカ(瀬底二仲)と呼び、船の避難場所や停泊場所として利用された。
 『琉球国旧記』(1731年)の本部間切の項には満名江・健堅江・三江(崎本部の上川・前川・大川)の江名は掲げられているが港名は一つもない。江は河口や入り江を指しているようで、そこもかつては津(港)の役割を果たしている。渡久地は港が発展させたマチである。渡久地港は、かつて伊江島との航路の発着場であったが、本部新港に移った。また、本部新港は伊是名島と伊平屋島への船の発着場であった時期もあるが、平成になって今帰仁村の運天港(浮田港)へと移った。
 
1. 瀬底二仲(シークタナカ)
 シークタナカはモトブタナカともいい、瀬底島と浜崎との間の海峡のことである。1794年朝鮮人が乗った船が国頭間切の安田村に漂着した事件があった。その時、船で泊に送る予定であったが、風向きが悪く、奥間村に連れていき鏡地の浜から地船で泊に出帆した。
 漂着した朝鮮人を船に乗せ本部半島を回った時、本部間切のシークタナカに停泊した。「そこは潮の流れが速いので万一のことを考えて小舟で渡久地港に避難させた」との記録が残っている。
 また、1843年に琉球から中国に向け派遣された接貢船が翌年帰帆することになり、5月に福州を出帆したが、洋上の風が強く直接那覇港に入港することができず、本部二仲に着きそこで停泊するという出来事があった。抜き荷など不正がないよう、首里王府は厳重に監視するよう各間切に申し渡し、更に周辺の間切だけでなく西海岸の各間切に小舟の準備をさせたようである。挽舟は100艘余りにものぼった(『本部町史資料編3』38頁)。
 1853(咸豊3)年にはペリー提督の一行が恩納・名護・今帰仁・羽地・大宜味間切の他本部間切にも立ち寄り、海岸にテントを張って海岸線や地形などの測量や調査をした。その時、本部では瀬底の浜に上陸しテントを張っていた。
 シークタナカは本部半島の先端部分にあるため、港としての機能も果たし、現在の本部新港は奄美経由の大型船が寄港する。
 
シークタナカ(崎本部と瀬底島との間)
 
2. 渡久地港
 沖縄本島北部の本部半島西海岸、満名川の河口に位置する地方港湾である。方言ではトゥグチミナトゥといい、南岸に本部町の中心地渡久地のマチがある。湾口広く、また奥行も約1kmと深く、北と南の丘陵で風を防ぐ良港をなし、古くから中国や薩摩を往来する避難港として利用された。近世にも沖縄本島北部の各地域ならびに離島と那覇を結ぶ航路の中継地点として機能してきた。記録に「渡久地は古来より山原船の停泊地であり、近年汽船の回航や石油発動船の往来が頻繁である。ここより伊江島伊平屋行きの船便がある。渡久地は東の方の満名川流域の平野として、離れた伊野波の平地に連なり、後方は地勢が急で辺名地を負い、西側の港の外には瀬底、水納の二つの島と伊江島が横たわって、あたかも内海のごとき景観で、夜景が最も美しい」(『沖縄県国頭郡志』 410頁)とある。
 1853(咸豊3)年にペリー提督の一行は瀬底から浜崎に移動し、海岸線の調査をしながら浜崎の海岸にテントを張り、さらに渡久地港まで足を伸ばし鶏や土瓶をかっぱらっている。卵や薪、唐辛子・さつま芋などは中国の銅銭で調達している。その後一行は伊江島、今帰仁へと向かっていった。
 渡久地には本部間切の番所がおかれ、行政の中心となり、昭和20年まで役場が置かれていた。明治14年11月の『上杉巡回日誌』に「帆檣林立シ」との記述が見え、港内が山原船でにぎわっていた情景が記されている。その後も名護に次ぐ沖縄本島北部第二の港として栄え、那覇・名護・伊江島などとの間にも航路が開設された。農水産物・生活用品などの移出入で活気をおび、発動機船導入によりカツオ漁業も盛んになった。『沖縄県国頭郡志』に「本部第一の鰹節産地にして毎年三万斤内外を出す」とあるほど、かつてはカツオをめぐって港が賑わっていた。昭和40年代頃まで、港を中心とした市場が栄えていたが、その後大型店舗などに押され、さびれていく。
 河口港のため流入土砂の堆積が著しく、船舶の大型化に伴い浚渫が必要となり、昭和7年から同9年にかけて南北防波堤・物揚場・泊地浚渫・埋め立てなどの工事がなされた。完成後は北部随一の良港として、生活必需品の移入など、地域の産業経済の発展に大きく寄与した。同時に奄美大島(鹿児島県)と結ぶ航路船舶の寄港、鹿児島・宮崎方面の漁船の給水・停泊地としても利用され、爆風時には避難船が数多く入港した。
 第二次対戦中は日本軍の伊江島飛行場経営のため徴用労務の輸送に使用された。戦時中は貯蔵してあった輸送用燃料弾薬庫に被弾し、渡久地周辺の市街地は全戸焼失の被害を受けた。戦後の一時期、米軍の駐屯地として利用されたが、昭和26年これらの施設を琉球造船所が引き継ぎ、造船・機関修理を行った。
 昭和32年11月19日琉球政府により重要港湾に指定され港湾管理者は本部町となる。同38年物揚場、同40年泊地が完成。昭和47年5月12日港湾区域の変更とともに港湾管理は本部町から琉球政府に移管され、同年5月15日本土復帰に伴い沖縄県管理の地方港湾に指定された。
 昭和50年沖縄国際海洋博覧会の本部町開催に伴い、渡久地港エキスポ地区と渡久地新港(現本部港)が新設され、渡久地新港が北部離島への定期連絡船の基地港になったため、現在は水納島定期連絡船(みんな丸、19t、1日2便)・漁船・巡視船などの利用に供され、また、荒天時には小型船の避難地となっている。
 
現在の渡久地港
 
3. 伊野波(本部)間切と番所と港
 本部町伊野波は「間切番所のある村と祭祀」、そして番所と港の関係をしる重要なところである。伊野波(本部)間切は1666年に今帰仁間切から分割して伊野波間切を創設し、1667年に伊野波間切を改称して本部間切となる。伊野波間切が創設された当初は、番所は同村に置かれたと見られる。
 間切創設当初、伊野波間切の番所は伊野波村に置かれたと見られるが、後に渡久地邑(村)へ移される。1667年に間切の名称を本部間切とするが番所は、まだ伊野波村にあったと見られる。1731年の『琉球国旧記』の「本部駅(本部邑)」の本部邑(村)は本部間切の同村の伊野波村を指している。その後の「薩摩藩調製図」(1737〜50年)の頃には、本部間切番所は渡久地村に移っている。
 本部間切の伊野波村の祭祀を見ると、伊野波村のカナヒヤ森での麦穂祭や稲穂祭の時惣地頭が関わっている。つまり首里に住んでいる本部按司や本部間切の惣地頭は本部間切の番所が置かれた伊野波村の祭祀と関わる。伊野波村での祭祀で間切中のノロやサバクリ、オエカ人、地頭が集まっての祭祀がある。伊野波間切創設当初の両惣地頭は向弘信(本部王子朝平)と毛泰永(伊野波親方盛紀)である。
 伊野波村のどこに伊野波(本部)番所があったのか。伊野波神社(お宮)はヌンルルチ(ノロ殿内)と呼ばれ、かつて伊野波ノロ家があった場所なのであろうか。明治の史料をみると並里村からノロがでている。並里村は伊野波村に含まれていた時代もあるので、伊野波ノロが並里村から出ても不思議ではない。
 番所跡地は現在の伊野波のムラヤー(公民館)敷地だという。
 
(右)伊野波の神アサギ
(左)伊野波神社(お宮:ヌンルルチの跡)
 
満名川の左岸に発達した渡久地のマチ
 
具志川の御嶽
 
 渡久地は満名川の河口に発達したマチである。今のところ渡久地村が出てくるのは1713年の『琉球国由来記』からである。渡久地村は1666年に今帰仁間切から伊野波間切が分割した年だという(『南島風土記』東恩納寛惇)。『琉球国由来記』(1713年)では具志川村と渡久地村は併記され具志川ノロの管轄である。その渡久地村に本部番所が伊野波村から移動してきたのはいつか不明である。
 1731年の『琉球国旧記』での本部駅(番所)は渡具知邑にあり、その頃には本部間切の番所は河口の渡久地村に移動している。同『旧記』に「満名江(此注干満名之西。流干伊野波港)」とある。その頃の渡久地村に神アシアゲがまだない。番所は移動しても惣地頭はもとの伊野波村での祭祀と関わっている。
(番所が他村に移動しても按司や惣地頭の関わる祭祀は移動しないとすると、逆に間切分割以前の番所があった村がわかる。そこから伊野波間切が分割した後の今帰仁間切の番所は運天村に移動している。ところが按司や惣地頭が関わる祭祀は今帰仁グスクで行われている。それからすると分割以前の今帰仁間切の番所は、今帰仁グスク(今帰仁村:ムラ)にあったと言えそうである)。


前ページ 目次へ 次ページ





日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION