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山原の三津口
(湖辺底・勘手納・運天)
 琉球国に仕上世(シノボセ)米を積み出す四つの津口(那覇・運天・湖辺底・勘手納)があった。その三津が山原にあり、湖辺底・勘手納・運天と足を運んでみた。台風の余波で海上は荒れ模様。土砂降りの雨が降ったり止んだり。雨の日もあれば、嵐の日もある。天気がよく青い海と空の日だけが歴史を刻んでいるわけではない。
 
【湖辺底港】
 湖辺底(コヘンゾコ)港は山原の三津口の一つである。周辺山に囲まれ、港内は深く荒れても波が静かなので非難港として利用された。湖辺底は「瓶の底」のようになっていたことに由来するという。
 一帯は泥砂土で障害物がないので、馬艦船(山原船)は接岸して荷物の積み降ろしができた。美里・名護・金武・恩納・久志の五間切の薩摩への仕上世米は、湖辺底港へ集積され運ばれた。
 1742年の大島の漂着した唐人を運天港に引き連れてきたとき、運天港に向ったが、風向きがよくなく大和船は名護間切湖辺底港に到着した。そこから、さらに運天港へ向けて船を出した。
 
現在でも船溜りとなっている湖辺底港
 
名護周辺の仕上世米を集積した湖辺底港
 
【勘手納港】
 勘手納(カンテナ)港は羽地間切の仲尾村から仲尾次村にかけての海岸のこと。勘手納港は、北山が中山の尚巴志の連合軍に攻められたとき、連合軍が集まった港だという。近くに羽地地域を統治した羽地(親川)グスクがある。
 
 
尚巴志の連合軍が終結した勘手納港
 
 近世になると、羽地ターブックヮー(田圃)の米を積み出す港として機能した。勘手納の名称は勘定(納)からきた名称ではないかという。仲尾村に定物蔵があった。
 桟橋もなければ、港の目印となるのは何一つ見つけることができない。というより、勘手納の様子がかつての津(港)だったのである。海岸近くに船を碇泊させ、そこから小舟で陸揚げする。それが一般的な津(港)である。船が接岸できるのが港であるとの常識が覆させられる。


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