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バジル・ホールが見た運天村と港
 1816年に運天港(村)訪れたバジル・ホールは『朝鮮・琉球航海記』(岩波文庫)に運天港(村)のことを記している(196〜198頁)。約200年前の運天付近の様子をどう描いているのか興味深い。
 
【朝鮮・琉球航海記】(1816年)
 この村は、これまで琉球で見たどの村よりも整然としていた。道路は整ってきれいに掃き清められ、どの家も、壁や戸口の前の目隠しの仕切りは、キビの茎を編んだこざっぱりとしたものであった。
 垣のなかには芭蕉や、その他の木々がびっしりと繁茂して、建物を日の光から完全にさえぎっていた。
 浜に面したところには数軒の大きな家があって、多くの人々が坐って書き物をしていたが、われわれが入っていくと、茶と菓子でもてなしてくれた上、これ以後、自由に村へ出入りすることさえ認めてくれたのである。
 この人々は、ライラ号が港に入るつもりがあるのかどうか、もし入港するなら、何日くらい滞在するのかを知りたがった。われわれはそれに対して、入港するつもりはない、と答えたのだが、だからといって喜びもしなければ残念がるわけでもなかった。
 村の正面に平行して30フィート(9m)の幅をもつすばらしい並木道があった。両側からさし出た木々の枝は重なりあって、歩行者をうまく日射しから守っている。(省略)全長約4分の1マイル(約400m)ほどのこの空間は、おそらく公共の遊歩場なのだろう。
 半円形をなす丘陵は、村を抱きかかえるとともに、その境界を示しているようであった。丘陵の大部分がけわしいが、とくに丘が港に落ち込む北端の岬では、80フィート(24m)のオーバーハングとなっている。崖の上部は、基部にくらべてきわだって広い。地面から急斜面を8〜10フィート(2、3m)上がった位置に、堅い岩をうたって水平に回廊が切り開かれ、壁にむかっていくつもの小さい四角い穴が深く掘り込んであった。ここに死者の骨を入れた壷を収めるのである。
 この断崖のふちからは木や蔓草が垂れ下り、下から生えている木々の梢とからみあって日除けを形づくり、回廊に深い陰影をなげかけている。(省略)だがわれわれは突然、予想もしなかった死者たちの場所の神聖かつ陰惨な光景に行きあたってしまったのである。一行の陽気な気分は一瞬のうちにふきとんでしまった。
 この村は運天Oontingという名前である。(省略)われわれが発見したこのすばらしい港は、海軍大臣メルヴィル子爵を記念して、メルヴィル港と名付けられることになった。
 
1846年の運天港の様子
 
テーサン舟に乗った役人と後方に山原船が碇泊し「フランスにおける琉球関係資料の発掘と基礎的研究」(琉球大学:平成12年より)
 
フランス人が見た運天港(1846年)
 30年後の1846年に運天港に三隻のフランス艦船がやってくる。その時の運天港や付近の様子を描いた絵が残されている。それから運天の集落、海上に山原船、さらに木を刳り貫いた舟を三隻平行に連結したテーサン舟?に琉球国側の役人が乗った様子が描かれている。よく見るとコバテイシの大木や番所、茅葺きの家、抜け出る道なども描かれ、当時の運天津(港)の様子がわかる。山原船が往来していた長閑な風景である。フランス艦船の三ヶ月の碇泊で首里王府は右往左往したのであろうが。その間、二人のフランス人船員が亡くなっている。二人を葬った墓がある。フランス墓ではなくオランダ墓と呼ばれる。
 
運天の対岸にあるオランダ墓


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