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(6)絵図に見る山原
 ここに掲げた5枚の絵図は最も古い『海東諸国紀』「琉球国之図」(1471年)から、首里王府がまだ機能していたと思われる時代(1800年代後半)に描かれたと推測されるものである。海上交通が主であった時代に適した情報が盛り込まれ、港や岬の名称のほか航路や距離などが記載されている。
 
イ. 『海東諸国紀』「琉球国之図」1471年)
 『海東諸国紀』は1471年、朝鮮の申叔舟(シンシュクシュウ)が朝鮮王に命じられて作成したもので、それに収められた「琉球国之図」は1453年に尚金福の使者、博多の船頭道案が献上したもの。琉球最古の地図で、那覇港についての情報が多いが、「雲見」と記された運天港については特に「要津」とコメントが付されていることから、山原の海上交通のみならず、海外交易の要所であったことが知れる。
 
ロ. 正保国絵図(1664年)
 正保元年(1644年)三代将軍家光の命で島津光久が作成・献上したもので、薩摩侵攻後の琉球国が日本の統治下にあることを示すという目的を持つ。「おく村」「とのきや村」などの村名、「国頭間切千廿九石余」などの石高、「瀬底嶋人居有」「干潟」「此間十四町」といった情報の他、運天港については「此運天湊廣さ弐町入壱里廿七町深さ廿尋」「大船五六艘程繋ル」「何風ニ而も船繋り自由」との記述が見られる。
 
ハ. 元禄国絵図(1702年)
 正保国絵図からほぼ50年後、五代将軍綱吉の命によって江戸幕府が作成した。正保国絵図をほぼそのまま踏襲し、さらに絵図のタッチ、情報共にすっきりした趣きとなっている。
 
ニ. 薩摩藩調整図(1737〜50年頃)
 この図については東恩納寛惇が「東京で手に入れた琉球国図」ということの他、ほとんど何も分かっていないが、地図上の情報から首里王府が描いた図ではないかとされる。
 海路に関する情報はほとんどなく、陸路が細かく描かれているため、街道筋を示すための地図であることが分かる。
 
ホ. 琉球并諸島図(18世紀)
 島津家が所蔵する地図で、持ち運びに便利なように折り本の形式になっている。何の目的で、いつ頃作成されたのかわかっていないが、航海図としての役割を果たしていた可能性も考えら
れる。
 正保国絵図では既に陸続きとなっていた那覇の港が、この図ではまだ浮島の状態なので、「正保国絵図」を参考にしたと言い難い。また地図上の情報についてはほとんど国絵図通りだが、表記や絵の描き方は大雑把である。
 
上杉県令の山原巡行と近世の絵図
 
(7)山原の津(港)の分布
 
山原の津(港・江)の分布
 
(8)山原の三津口(さんつぐち)
 近世、琉球では薩摩へ上納米を納めていたが、これを仕上世米といい、那覇・運天・勘手納・湖辺底の四つの港(津)が積み出し港として利用された。四つの港のうち三つの津口が山原にある。
 中国からの使者が乗船する船(御冠船)が那覇に滞在中、薩摩からの船は那覇港にはつけず、湖辺底港から運天港へ廻ることになっていた。
 
山原の三津口の様子
 
(9)山原船(やんばるせん)
 戦前まで那覇や与那原、平安座、読谷村比謝矼(ばし)などの中南部と、今帰仁村運天や国頭村奥などの北部、いわゆる山原地方とを往来した交易船のこと。木綿旗をかかげた帆船で、馬艦(マーラン)船とか帆船(フーシン)とも呼ばれている。
 中南部の米・麦・豆などの穀類や黒糖・塩・ソーメンなどの日用雑貨と、山原地方の材木・薪炭などとの交易を主とした。
 
山原船が浮かぶ様子
 
(10)戦後のいろいろな舟
 「山原船と航路」と「いろいろな舟」のコーナー。現物の展示は米軍機の燃料タンクでつくったボート。山原船が往来していた時代のものは今では見られない。そのため模型展示と写真に納められた山原船のパネルとなる。敗戦後、ほとんどの舟を失った。いろいろな知恵で舟を拵え漁や物資の運搬をした。山原船の写真にあたっていると、サバニや渡し舟や木造船、それと米軍機の燃料タンクのボートなどが目についた。


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