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山原の津(港)と山原船
−解説−
 沖縄本島の北部は山原(現在の恩納村・金武町以北)と呼ばれている。その山原の名をかぶせた「山原船」が近世末から明治、大正、昭和にかけて海上輸送の主役を演じた。その山原船が往来し荷物の積み降ろしのため碇泊した場所は津や津口、ナートゥ(港)・トゥマイ(泊)などと呼ばれる。そこは海上輸送の積み下ろし場所としての役割を果たした。それだけでなく首里王府の伝達や文物の交流の場にもなったにちがいない。
 
『琉球国旧記』の山原の港江の数
 『琉球国旧記』(1731年)によると山原の「港江」の数は百余を数える。ここでの「江」は入江、つまり船溜りのことであろう。山原の津(港)と江を合せた数は、ほぼ山原の村数に相当する。それは海や河を持つほとんどの村に津(港)や入江(船溜り)があったことを物語っている。
 「今帰仁杣山法式」(1754年)の津口番の管轄区を見ると、国頭・大宜味・久志・金武の四間切の複数村の津口を管轄する津口番を配置した。前記四間切の津口番が管轄した村数は54である。津口番を勤めたのは在番・検者・山筆者達で、主な役目は出入りする船の取り締まり−積荷の検査、手形の有無、乗組員数、氏名、航海の目的、抜け荷、密輸など−である。
 山原の津(港)は、必ずしも船が岸辺に接岸できるものではなかった。良港と言われている運天港も直接接岸できるようになったのは戦後のことである。山原船が運航していた時代の津(港)は、潮の干満や風の影響を大きく受けた。海が遠浅の場合、山原船は沖に碇泊させ、伝馬船(テンマーセン)の小船で荷を運び本船に積み込んだ。
 
18世紀の津(港)の様子
 蔡温の『独物語』(1749年)は18世紀の津(港)の様子を次のように述べている。
 
「諸間切浦々の干瀬皆共石原にて着船の港無之候に付て商売船逢逆風候時入着不罷成及破損候船多々有之候 右石原割除く間切毎に浦々の場所見合を以港作置候はゞ商売船は不及申其余の諸船之天気荒立次第則々港へ走入絶て難儀無之積に候
但石原取除港作候道具法式有之候依場所泥土並細砂有之場所は何分働候ても湊作不罷成候石原干瀬之所は法式之道具を以如何様にも作開罷成事に候」
 
(口語)
(諸方の間切浦々の干瀬はいずれも石原になっていて着船できる港がないので商売船で逆風に逢うような季節に入着できずに破損する船が沢山ある。右の石原を割り除いて間切毎に浦々の場所を考える合わし港を作って置いたら商売船は言うに及ばず其の他の諸船も天気が荒れ次第即刻港に走り入って決して難儀しないと考えられる。
但し石原を取り除き港を作る道具や法式がある。場所に依って泥土や細砂がある場所はどんなに働いても港作りが不可能である。石原干瀬の所は法式の道具で如何様にも作り開きが出来る事である)
 
馬艦船と山原船
 那覇・泊には山原や諸離島を走り回る馬艦船、また浦漕船があった。馬艦船、山原船ともに構造上はシナ式のジャンク型であるが、外航船として利用されていた大型の船を馬艦船、沖縄本島北部(山原)を往来していた小型船を山原船と呼んで区別したようである(『近世薩摩関係史の研究』380頁参照、喜舎場一隆著)。両船を区別した次のような琉歌がある。
船のつやうん(船が着いたよ)
つやうんなたくと(着いたと、鉦(が)鳴っていたので)
まらん船だらんで(馬艦船かと思って)
出ぢちて見れば(出て見れば)
山原だう(山原船であった)
 
 琉球における船の名称の規定は明確でなく、「山原船」の呼び方は近世以降で明治から大正・昭和(戦前)、そして戦後昭和30年代まで使われている。『那覇市史』(資料編第一巻二)所収の「船改之覚」(雍正13、1735年)「那覇・久米・泊村商売船心得」(乾隆16、1751年)、「唐漂着船心得」(乾隆27、1762年)、「難破船入津の時の心得」(乾隆35、1770年)、「御領国の船唐漂着の儀ニ付締方」(乾隆50、1785年)、「大和船道の島船漂着の節諸在番公事」(道光25、1845年)、「商売の心掛けにて唐漂着を禁ず」(道光12、1832年)、「地船訟」(咸豊5、1855年)などに出てくる船名は、先島船・久米島船・泊船・御物積船・馬艦船・唐船・道の島船・大和船・地船などである。山原船の呼称は見られない。
 
■山原の江・港の分布図■
(拡大画面:256KB)
 
いろいろな舟の名称
 山原船が海上輸送の全てを勤めたわけではない。間切役人が事務文書を届けたり、緊急連絡用に使ったのは「地船」のサバニ(飛舟)だろうし、上納など穀物や織物や黒糖などの輸送は「地船」の馬艦船(山原船)であろう。
 1700年代になると琉球の人口が増加し、敷地や建物、墓などの規模や材料に規制が加えられるようになる。それでも建築用の木材や生活必需品である薪の需要が増大し、山原と泊や那覇、与那原との取引は盛んになった。山原の津(港)との往来が増える中で、「山原船」という呼称が登場したと思われる。
 
船の時代の社会
 1400年代北山・中山・南山の三山を中山が統一、さらに1500年代になると首里王府を中心とした中央集権国家が誕生し、各地の間切と首里王府との支配関係が確立した。それは首里から各地への文物の流れと、各地方の村々から首里への貢納(上納)や一般物資の流れを生み出した。物資と村々を結びつけたのは陸路もあるが、運送の主流は船である。そして船は、潮の干満等旧暦のリズムで運航される。山原船が往来した頃の山原の村々の祭祀や稲作や甘藷などの栽培も旧暦でのサイクルである。
 
恩納の津(港)と輸送物
 現恩納村は沖縄本島の西海岸に位置し、美(比)留・久良波・仲泊の港がある。恩納間切は山原では町方の一番近くにある。恩納の港から運ばれる品物は、砂糖・藍・木材・薪炭・山原竹・竹茅などで泊港や那覇港に運ばれていた。那覇・泊の町方から酒や日常品、壷屋の焼き物などであった。そのような品々の他に恩納間切の陶土に注目する必要がある。仲泊や前兼久の港から、山手で掘りだされた陶土は村船に積んで泊港へ運ばれた。伝馬船に積み換えて安里川を遡航し壷屋のカーラバンタで陸揚げした。壷屋の焼物は全琉に流通している。壷屋の焼き物の陶土は恩納産がどれだけ含まれているか興味が持たれる。
 
名護の津(港)と輸送物
 現在の名護市許田の湖辺底港と羽地間切(現名護市)の勘手納港は仕上世米の積み出し港である。湖辺底港は名護・恩納・金武間切、勘手納港は米どころの羽地間切と久志間切の一部の村の積み出し港としての役割を担った。名護港は明治になると名護と那覇を結ぶ汽船の航路があり、船客の乗り降りや品物の積み降ろしで賑った時期があった。しかし首里・那覇・泊の町方からすれば「名護や山原の行き果てがやゆらなまで名護船のあてのないらぬ」と謡われ、当時は名護でさえ遠いへき地であった。東海岸の瀬嵩は大浦湾に面し、薪や木炭が収入源となり、与那原から山原船で買いつけにやってきた。
 
本部の津(港)と輸送物
 現在の本部町は渡久地港と瀬底二仲(シークタナカ)の二港が登場する。その他に伊野波港、新里原津口、浦崎泊がある。伊野波港は北山の時代、港であったと伝えられる。近世まで伊野波は入江になっていて、船の積み荷を干したニフスの丘や海岸に因んだ浜川の地名に港の名残がある。『正保国絵図』「によは入江 一此によは入江左右干瀬之間壱町五十間深さ五尋 一何風二而も船繋り不自由」とあり、港としては不便であった。
 本部間切新里(具志堅の一部)の津口は明治から山原船の碇泊地で、海岸線は干瀬(リーフ)となっていてクチから船が出入りした。そこを利用した山原船は伊平屋島や伊是名島と取引きをした。運搬してきた品物は牛や豚・米・薪などであった。浦崎泊は河口にあり、戦前は地元の志良堂船や渡久地船の拠点となり、特に恩納村名嘉真と安富祖を往来し、竹茅や山原竹を運んだ。明治には伊江島と本部間の連絡地となっていた(『本部町史』通史編上)。浦崎の泊原にマーラングムイがあり暴風の時、馬艦船(山原船)が避難したところだという。
 
大宜味の津(港)と輸送物
 大宜味の番所(役場)は塩屋湾岸にあった時期がある。船持ちは各村の前に船を着けて積荷を降ろした。大宜味には地船という村船があり、薪や木材、樟脳、藍などを那覇・泊に運んでいた。大宜味間切には明治17年の「津口手形」(積荷検査証)があり、それには船の大きさ・船主・乗組員・積荷の品目などが明記されている。明治31年の大宜味の輸出品は薪・砂糖樽板・砂糖樽底蓋板・木炭・製藍などである。また輸入品は、焼酎・石油・大豆・白米・素麺・茶などがある。輸出品を見ると大宜味は林業が中心で、それらの品物は山原船で運ばれていた。名護から大宜味に行くには徒歩や籠、サバニもあったが不便な地域であった。根路銘の船溜りに数隻の帆船が碇泊し、大正になると動力船が物資を運ぶようになるが、陸路は依然として不便であった。
 
国頭の津(港)と輸送物
 国頭村は村(ムラ)と村との陸路が険しく、昭和十年代まで海上交通が主であった。1731年の『琉球国旧記』の「港江」を見ると、国頭間切には港の記載は一つもないが江(入江)は29ある。村を流れる河口(入江)が港の機能を果たした。浜港は国頭間切番所(役場)があった所で、浜村は行政の中心地であった(後に番所は奥間、辺土名へと移る)。鏡地港も山原船の出入りがあり、木材が運びだされた。屋嘉比港は根謝銘グスクが機能していた時代、国頭按司の貿易港と伝えられオモロでも謡われている。国頭からの輸出される産物は建築用材や薪、炭材や砂糖桶などである。
 
東の津(港)と輸送物
 東村あたりは、山原船による林産物の運搬でムラの経済が成り立っていた。高江は三方山に囲まれ林業を生業にし、宮城から高江まで道路が開通していなかったため、輸送はほとんど山原船にたよった。宮城は昭和30年代まで林業で生活を支え、生活用品は山原船に頼っていた。川田の人々は山に何度も入り薪用材を切り出し、馬やイカダ、あるいは人力で担いで運び出した。平良ではムラの人たちが運んできた薪を売店が買い取り、山原船で与那原港に運ばれた。与那原港からは生活物資が運ばれてきた。慶佐次は戦前から山仕事が盛んで、燃料用の薪で現金収入を得ていた。ムラの人たちは山原船の入港に合わせて山仕事の共同作業の日程が決められた。山原船が運んだ物資は共同売店が買い取り、さらにムラの人たちに販売されていた。共同売店は「山稼ぎ」の換金や山原船との仲介役であった。
 宜野座村の漢那の船は糸満や泡瀬や那覇、惣慶の船は泡瀬・糸満・那覇などで取引先がきまっていた。船主の多くが平安座島で宜野座を出発すると平安座で一泊し、風向きがいいと翌日には与那原や那覇に着いたという。航海は月に二回程度であった。宜野座から運び出される産物は薪炭や竹木であった。『宜野座村誌』によると帆の大きさは七反帆船から十反帆船まであり、八、九反帆船が多く、七反帆船で27トン、薪は8000束積むことができたという。
 
金武の津(港)と輸送物
 金武は金武湾に面しているが、昭和6年に石川と屋嘉の間で荷馬車が通ると海上交通が衰退し陸上交通へと移っていった。伊芸あたりから荷馬車で薪や炭などを中・南部のマチに運び日用雑貨を仕入れてきた。明治41年に金武・久志と与那原との間で薪の値段の折り合いがつかず対立したことがある。
 与那原港は那覇港に次いで山原船の出入りが多く、与那原のマチは活気づいていた。材木商や薪炭商などの店が軒を並べ、陸路では乗合馬車や人力車、荷車などが那覇と与那原間を往来した。大正三年には軽便鉄道が走った。山原からの輸入品は薪や木材、竹茅・製藍など。輸出品は焼酎・茶・素麺・昆布・塩・味噌・石油などである。
 山原の東海岸の村々の津(港)と与那原を、西海岸の村々は泊・那覇港とを山原船が結びつけていた。それだけでなく奄美や与論沖之永良部島との航路もあった。
 
特異な存在の運天港
 山原の津(港)の中で運天港は特異な存在である。源為朝公の渡来伝説をはじめ、『海東諸国紀』(琉球国之図)に「雲見泊 要津」とあり、オモロで「うむてん つけて」と謡われる。薩摩の琉球侵攻、北山監守を勤めた今帰仁按司の一族を葬った百按司墓や大北墓、間切番所、近世末のバジル・ホール、フランス艦船、ペリー提督一行など異国船の来航、奄美に漂着した唐人の収容など、運天港での出来事は「琉球の歴史」を次々と髣髴させる。


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